野口 英世。 生涯年表 : 野口英世アフリカ賞

野口英世の黄熱病研究の本当のところ

野口 英世

没年:昭和3. 21 1928 :明治9. 9 1876 明治大正時代の細菌学者。 福島県のの子に生まれ,幼時左手にを負ったが,にめげず,医師免許を取る。 北里柴三郎の伝染病研究所の補,横浜の海港検疫官補を勤めたのち,明治33 1900 年渡米し,のの助手になり,37年ニューヨークのロックフェラー医学研究所のとともに,その助手から正員となる。 44年梅毒病原体スピロヘータの純粋培養に成功し,ノーベル賞候補にも擬せられた。 大正7 1918 年南米エクアドルで黄病原体を発見したと発表,それを証明するために昭和3 1928 年アフリカのアクラに出張し,地で黄熱病にかかって。 当時科学のため,人類のために殉職したとして世界的に報じられた。 のちに黄熱病病原体は細菌ではなくてウイルスであることが確かめられ,他の多くの野口の発見も誤りであったことが知られている。 中山茂 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説 [生]1876. 福島 [没]1928. アクラ 細菌学者。 高等小学校卒業後,渡辺医院の書生となって勉強し,1896年東京に出て高山歯科医学院 現,東京歯科大学 の学僕となり,さらに済生学舎で医学を学ぶ。 翌年医師開業試験に合格,97年から 98年にかけて順天堂医院で医学雑誌の編集にあたり,同年,北里伝染病研究所の助手となり,細菌学の研究に入った。 1900年アメリカに渡って S. フレクスナーの世話になり,蛇毒の研究に従事する。 03年カーネギー研究所の助手となり,ガラガラヘビの抗毒血清を発明。 その後ロックフェラー研究所に勤め,11年梅毒トレポネーマの純粋培養に成功したと発表した。 13年麻痺性痴呆患者の脳中に梅毒トレポネーマを証明,15年帝国学士院から恩賜賞を授与された。 18年中部アメリカや南アメリカで熱病を研究,23年帝国学士院会員に推された。 28年アフリカでの研究中,同病に感染し死亡した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 細菌学者。 翌1898年大日本私立衛生会伝染病研究所(所長は北里柴三郎 きたさとしばさぶろう )助手に採用され、細菌学の道に入った。 1899年、アメリカの細菌学者フレクスナーが来日、その通訳を務めたことを機に渡米を決意した。 その後、横浜港検疫官補、続いて中国の牛荘(営口)でのペスト防疫に従事した。 1900年(明治33)12月、血脇の援助を得て渡米し、ペンシルベニア大学にフレクスナーを訪ね、彼の厚意で助手となり、またヘビ毒研究の大家ミッチェルを紹介された。 野口はヘビ毒の研究をはじめ、1902年フレクスナーと連名で第1号の論文を発表した。 1911年梅毒病原スピロヘータの純培養に成功、世界的にその名を知られ、京都帝国大学から医学博士を得た。 ついで1913年(大正2)梅毒スピロヘータが脳と脊髄 せきずい の梅毒組織内に存在することを確かめた。 1914年ロックフェラー研究所正所員に昇進、同年東京帝国大学から理学博士を得た。 1915年帝国学士院恩賜賞を授与され、15年ぶりに帰国、歓迎を受けた。 この際、母親に孝養を尽くした美談は多いが、父とはともに語らなかった。 1918年黄熱病 おうねつびょう 原体解明のためエクアドルに赴き、病原スピロヘータを発見、しかしその後黄熱はワイル病であり、ワイル病スピロヘータと同一と判定された。 1923年帝国学士院会員となる。 1926年ペルーの悪性風土病オロヤ熱の病原体の純培養に成功、またペルー疣 いぼ の病原体がオロヤ熱病原体と同一種であることを証明、媒介昆虫も確認した。 1927年(昭和2)黄熱研究のためにアフリカに赴き、翌1928年5月21日ガーナのアクラで黄熱により死去した。 福島県猪苗代町に野口英世記念館、アクラに野口英世博士記念医学研究所がある。 [藤野恒三郎].

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野口英世ってどんな人?年表や業績を小学生向けに解説!

野口 英世

写真は現代の磐梯山 野口英世は福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれ、北に磐梯山、南に猪苗代湖という豊かな自然のもとで、感性豊かに生活しました。 左手に火傷を負った幼い清作(野口英世の幼名)は、百姓になることができないため、学問で身を立てて行くために、勉学に勤しみました。 その結果小学校時代では、著しく優秀な学生が、先生の代わりに授業をするという「生長」になりました。 また、父親が大酒飲みだったのもあり、清作の家は貧乏でありましたが、母シカの清作に対する熱い愛情と、猪苗代高等小学校の先生である小林栄先生の私財を投げ打ってまでの援助があり、清作は何とか猪苗代高等小学校へ入学することができました。 高等小学校の時、野口清作は仲間の援助を受け、現在の会津若松市にある会陽医院という病院で左手の手術を受けました。 その時、清作は医学の素晴らしさを知り、高等小学校卒業後、左手を手術した病院、会陽医院の渡部ドクトルに弟子入りした。 なお、この会陽医院は野口英世青春館と題した資料館となっています(福島県会津若松市 中町4-18、電話:0242-27-3750)。 また、会陽医院の前にある通りは野口英世青春通りという名で今でも語られています。 清作は、ここでも熱心に勉学に勤しみ、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という口ぐせをし、その言葉通り実行していた。 19歳の時、医師免許を取りに行くために上京しました。 そして、その別れ際に、 「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」 という言葉を残しました。 西暦 年齢 事柄 1876 11月9日福島県猪苗代町三城潟で生まれる 1878 1 4月末、いろりに落ちて大火傷を負う 1883 6 三つ和小学校に入学 1887 10 生長となる(生長は、学業の優秀な生徒が先生の代りに授業を行う役職のこと) 1888 11 磐梯山噴火 1889 12 三つ和小学校卒業・小林先生の援助のもと猪苗代高等 小学校に入学 1892 15 友人たちの寄付金により、会津会陽医院の渡部鼎ドクトルに左手の手術を受ける 1893 16 猪苗代高等小学校卒業・会津若松にある 会津会陽医院に薬学生として入門 1896 19 上京・医術開業前期試験に合格 血脇守之助のいる高山歯科医学院の学僕となる 1897 20 医術開業後期試験に合格・高山医学院講師となり、その後順天堂医院に勤務 1898 21 北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務 英世と改名 1899 22 フレキスナー博士の来日中、案内役をする 横浜の開港検疫所医官を命じられ、ペスト患者を発見 牛荘に行き、国際予防委員会中央医院に勤務 1900 23 帰国、そして渡米、ペンシルベニア大学のフレキスナー博士を訪ねる 1901 24 アカデミー・オブ・サイエンスで毒蛇の研究を発表 1903 26 カーネギー大学研究助手となりデンマークに留学、マドセン博士に師事 1904 27 ニューヨークのロックフェラー研究所の一等助手とな る 1907 30 ペンシルベニア大学のマスターオサイエンスの名誉学 位を受ける ロックフェラー研究所の準正員となる 1909 32 ロックフェラー研究所の副正員となる 1911 34 日本より医学博士の学位を授けられる 梅毒スペロヘータの純粋培養に成功 メリーダージスと結婚 1913 36 ヨーロッパ各地に講演旅行に行く 1914 37 ロックフェラー研究所正員となる 日本より理学博士の学位を授けられる 1915 38 日本の帝国学院より恩賜賞を受ける。 一時帰国 1918 41 エクアドルのグアヤキルに黄熱病の研究に行く。 病原 体をわずか9日目に発見 母シカ死す 1919 42 黄熱病研究のためメキシコに行く 1920 43 黄熱病研究のためペルーに行く 1921 44 ブラウン大学、エール大学よりドクトル・オブ・サイ エンスの学位を授かる 1923 46 黄熱病研究のためブラジルに行く 1926 49 オロヤ熱病原体を発表 1927 50 トラホーム病原体を発表 アフリカに行く 1928 51 ガーナのアクラで黄熱病の研究。 皮肉にも博士自身が 黄熱病にかかり逝去 私の生まれは東京です。 大学時代に1年半位イスラエルに滞在し、現地の農業(グレープフ ルーツ栽培)を手伝いながら卒論「キブツ社会における親子関係」のために現地調査をしていました。 帰国後そのイスラエルの自然が忘れられず、東京脱出を考 えたわけです。 以前から旅行等で、住むなら会津か松本と決めていました。 そんな事情で、縁もゆかりもない会津に来たわけです。 昭和51年のことでした。 そこで、紹介された物件が今の「会津壱番館」になっている蔵です。 その時、大家さんにここはDr. ノグチがやけどの手術を受けた「会陽医院」の跡だと聞か されました。 それが Dr. ノグチとの最初の出会いです。 たまたま借りた家がDr. ノグチを追って会津に来たわけではありません。 その当時Dr. ノグチと会津若松市との関係はほとんど知られていませんでした。 ノグチという偉大な人物が会津若松市で青春時代を過ごしたにもかかわ らず、その地元がなにもしていないのはおかしいと考えたのが、Dr. ノグチを調べようとしたきっかけです。 こつこつと資料を集め、昭和57年にはこの蔵の 2階にDr. ノグチの資料館として「野口英世青春館」をオープンさせました。 ノグチはアメリカ、ガーナ、メキシコ、エクアドル、ペルー、ブラジルの6ヵ国でその業績を残しています。 最近、資料収集を目的として平成6年11月16日から30日までガーナにメンバー2人と一緒に行ってきました。 まず、Dr. ノグチがいた研究所跡地と日本のODAで建設された「野口医学研究所」を訪ねました。 この研究所はガーナ大学医学部の付属機関として、Dr. ノグチ没の50年後の昭和54年に日本の無償援助資金協力で設立されたものです。 現在5名の日本人ドクターと数百名のガーナ人によって運営されています。 また、その研究所から来るまで2時間のところにあるオンヤジ村にある「ノグチメモリアルクリニック」という名前の診療所があるというので、日本出発前は予 定していなかったのですが訪ねることになりました。 その村に入るやいなや、道の両脇に手作りの「日の丸」ガーナ国旗が飾られており、村あげての大歓迎を受 けました。 ノグチの業績がこのネーミングのようにガーナの人々の心に今でも残されているので感動しました。 ノグチがガーナの研究中に自ら黄熱病に罹り、帰らぬ人となったのは、約70年前の1928年5月21日です。 当時Dr. ノグチの研究助手をしていた人が今でも健在なのです。 その「生き証人」のウィリアムスさんに会うことができました。 90歳という高年齢ですが、ゆっくりとその当時のことを思い出してくれ、Dr. ノグチが非常に研究熱心だったことや、Dr. ノグチが亡くなった後、彼が飼っていた研究用の猿数百匹全てを自分が殺して処分しなければならな かった辛い思い出を語ってくれました。 今回の訪問で、Dr. ノグチの死後70年経った今でも、彼の業績がガーナの人々の心にも息づいていることに改めて感動しました。 さて、この「会津壱番館」のある通りは、Dr. ノグチが15歳から19歳まで青春時代を 過ごしたところです。 会津若松市の中心部を南北に延びるこの通りには、Dr. ノグチの初恋の人、山内ヨネの家や、Dr. ノグチの医学者としてのスタートに もなった会陽医院、そしてDr. ノグチふぁ洗礼を受けた教会が残っています。 このDr. ノグチ思い出の街を、この通りの人たちが中心となり、平成2年5月 に「野口英世青春通り」と名付けました。 今、全国的に街の元気がなくなってきています。 その街を活性化するのは、何 も近代化することではなく、地元の伝統・文化・歴史を見直すことから始めることが大切だと思います。 やはり、その地元に根付いた活動でなければ、うまく活 性化なんてしないと思います。 会津若松市は伝統歴史の街です。 それでありながららまだまだうまくそれが街に生かされていないと思います。 この「野口英世青 春通り」は、その街の象徴として「野口英世」を持ってきたわけです。 会津若松市には年間350~360万人の観光客が訪れます。 その人たちに「野口英世青 春通り」をあるいてもらい、偉大な医学博士Dr. ノグチを知ってもらいたいのです。 今なお、各種観光ガイドブック等に紹介され、街に活気が戻りつつあります。 ノグチの業績を調べていくうちに、彼の真の国際人としての姿が見え、ますます彼の 偉業を掘り起こし、永く後世に語り継がなければならないと感じました。 ノグチの偉業は世界に残っており、世界中には「野口」の冠が付く「医学研究 所」がアメリカ、メキシコ、ペルーそして今回訪ねたガーナの4ヵ所にあります。 ノグチは、日本と海外を太いパイプでつないだ国際人であるパイオニアだと思います。 猪苗代にある「野口英世記念館」には、Dr. ノグチと関わりのあるガーナ、ベネゼエラ、メキシコの」在日大使を始め、世界各国の人々が訪れ ています。 また、世界には、4つのDr. ノグチ通りがあります。 エクアドルに2つ、ブラジルに1つ、そして、会津若松市にある「野口英世青春通り」です。 「野口英世青春通り」の英語名は「Dr. Noguchi Street」となっています。 これは、世界4ヵ所ある「Dr. Noguchi Streeet」との将来の交流を睨んでのことです。 そして、あくまでも会津に生まれた偉人野口英世だけでなく、真の国際人のパイオニアとしてのDr. ノグチのこだわりです。 先に言いましたとおり、世界には「野口」冠が付く「医学研究所」が4つあるわけですが、そのうちメキシコ、ペルー、ガーナの研究所が日本との交流の中でもっとも 望んでいることは医学交流です。 ノグチの生誕地である福島県は、県立の医大を持っています。 この医大とそれらの研究所と何らか医学交流ができない か、そのパイプ役として私に何かできることはないかと考えています。 また、「Dr. Noguchi Street」にちなんで、日本、エクアドル、ブラジルの3ヵ国がこの会津若松市に一堂に会して、何かフォーラムみたいなものができないかとも考えていま す。 ノグチには街起こし、いじめ等々様々な切り口がありますが、Dr. ノグチを地域の国際化という切り口で何かできないにものかと日夜思索していま す。 福島県には、Dr. ノグチが偉業を残した諸外国に負けないように、もっと積極的にDr. ノグチの偉業を賛える事業を押し進めることを望みます。 最後に、Dr. ノグチに関する資料を集めています。 ご一報いただければ幸いです。 「野口英世青春通り」は世界に著名な医学者、野口英世博士が青春時代をすごした街 です。 会津若松市の中心部を南北に伸びるこの通りは、博士の過ごした時代(1890年代)も人々の往来の多い、市の中心繁華街として賑わっていました。 通りには博士が15歳のとき、幼い頃背負った手の火傷の手術を受けた「会陽医院」跡が現存 しています。 その手術の成功に感動した博士は、自分も医師になることを決意し「会陽医院」 に書生として住み込み、勉学に励みました。 そして医師開業試験を受験するために上京するまでの数年間をこの地に暮らしました。 街の至るところに博士の足跡が残されています。 悩み多き青春時代を象徴するように、博士はこの街に現存するキリスト教の教会で洗礼も受けています。 また、初恋の人といわれている山内ヨネの生家跡も残されています。 博士は、まさに青春真っ只中をこの街で過ごしたのです。 そして今、私たちは博士の青春時代の想いを受けて、この街に住む人々、この街を訪れる 多くの人々の心に、もう一度青春を問いかけるーそんな場所となることを願い この街を「野口英世青春通り」と呼んでいます。

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野口英世は何をした人?生涯・年表まとめ【名言や功績、死因も解説】

野口 英世

写真は現代の磐梯山 野口英世は福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれ、北に磐梯山、南に猪苗代湖という豊かな自然のもとで、感性豊かに生活しました。 左手に火傷を負った幼い清作(野口英世の幼名)は、百姓になることができないため、学問で身を立てて行くために、勉学に勤しみました。 その結果小学校時代では、著しく優秀な学生が、先生の代わりに授業をするという「生長」になりました。 また、父親が大酒飲みだったのもあり、清作の家は貧乏でありましたが、母シカの清作に対する熱い愛情と、猪苗代高等小学校の先生である小林栄先生の私財を投げ打ってまでの援助があり、清作は何とか猪苗代高等小学校へ入学することができました。 高等小学校の時、野口清作は仲間の援助を受け、現在の会津若松市にある会陽医院という病院で左手の手術を受けました。 その時、清作は医学の素晴らしさを知り、高等小学校卒業後、左手を手術した病院、会陽医院の渡部ドクトルに弟子入りした。 なお、この会陽医院は野口英世青春館と題した資料館となっています(福島県会津若松市 中町4-18、電話:0242-27-3750)。 また、会陽医院の前にある通りは野口英世青春通りという名で今でも語られています。 清作は、ここでも熱心に勉学に勤しみ、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」という口ぐせをし、その言葉通り実行していた。 19歳の時、医師免許を取りに行くために上京しました。 そして、その別れ際に、 「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」 という言葉を残しました。 西暦 年齢 事柄 1876 11月9日福島県猪苗代町三城潟で生まれる 1878 1 4月末、いろりに落ちて大火傷を負う 1883 6 三つ和小学校に入学 1887 10 生長となる(生長は、学業の優秀な生徒が先生の代りに授業を行う役職のこと) 1888 11 磐梯山噴火 1889 12 三つ和小学校卒業・小林先生の援助のもと猪苗代高等 小学校に入学 1892 15 友人たちの寄付金により、会津会陽医院の渡部鼎ドクトルに左手の手術を受ける 1893 16 猪苗代高等小学校卒業・会津若松にある 会津会陽医院に薬学生として入門 1896 19 上京・医術開業前期試験に合格 血脇守之助のいる高山歯科医学院の学僕となる 1897 20 医術開業後期試験に合格・高山医学院講師となり、その後順天堂医院に勤務 1898 21 北里柴三郎のいる伝染病研究所に勤務 英世と改名 1899 22 フレキスナー博士の来日中、案内役をする 横浜の開港検疫所医官を命じられ、ペスト患者を発見 牛荘に行き、国際予防委員会中央医院に勤務 1900 23 帰国、そして渡米、ペンシルベニア大学のフレキスナー博士を訪ねる 1901 24 アカデミー・オブ・サイエンスで毒蛇の研究を発表 1903 26 カーネギー大学研究助手となりデンマークに留学、マドセン博士に師事 1904 27 ニューヨークのロックフェラー研究所の一等助手とな る 1907 30 ペンシルベニア大学のマスターオサイエンスの名誉学 位を受ける ロックフェラー研究所の準正員となる 1909 32 ロックフェラー研究所の副正員となる 1911 34 日本より医学博士の学位を授けられる 梅毒スペロヘータの純粋培養に成功 メリーダージスと結婚 1913 36 ヨーロッパ各地に講演旅行に行く 1914 37 ロックフェラー研究所正員となる 日本より理学博士の学位を授けられる 1915 38 日本の帝国学院より恩賜賞を受ける。 一時帰国 1918 41 エクアドルのグアヤキルに黄熱病の研究に行く。 病原 体をわずか9日目に発見 母シカ死す 1919 42 黄熱病研究のためメキシコに行く 1920 43 黄熱病研究のためペルーに行く 1921 44 ブラウン大学、エール大学よりドクトル・オブ・サイ エンスの学位を授かる 1923 46 黄熱病研究のためブラジルに行く 1926 49 オロヤ熱病原体を発表 1927 50 トラホーム病原体を発表 アフリカに行く 1928 51 ガーナのアクラで黄熱病の研究。 皮肉にも博士自身が 黄熱病にかかり逝去 私の生まれは東京です。 大学時代に1年半位イスラエルに滞在し、現地の農業(グレープフ ルーツ栽培)を手伝いながら卒論「キブツ社会における親子関係」のために現地調査をしていました。 帰国後そのイスラエルの自然が忘れられず、東京脱出を考 えたわけです。 以前から旅行等で、住むなら会津か松本と決めていました。 そんな事情で、縁もゆかりもない会津に来たわけです。 昭和51年のことでした。 そこで、紹介された物件が今の「会津壱番館」になっている蔵です。 その時、大家さんにここはDr. ノグチがやけどの手術を受けた「会陽医院」の跡だと聞か されました。 それが Dr. ノグチとの最初の出会いです。 たまたま借りた家がDr. ノグチを追って会津に来たわけではありません。 その当時Dr. ノグチと会津若松市との関係はほとんど知られていませんでした。 ノグチという偉大な人物が会津若松市で青春時代を過ごしたにもかかわ らず、その地元がなにもしていないのはおかしいと考えたのが、Dr. ノグチを調べようとしたきっかけです。 こつこつと資料を集め、昭和57年にはこの蔵の 2階にDr. ノグチの資料館として「野口英世青春館」をオープンさせました。 ノグチはアメリカ、ガーナ、メキシコ、エクアドル、ペルー、ブラジルの6ヵ国でその業績を残しています。 最近、資料収集を目的として平成6年11月16日から30日までガーナにメンバー2人と一緒に行ってきました。 まず、Dr. ノグチがいた研究所跡地と日本のODAで建設された「野口医学研究所」を訪ねました。 この研究所はガーナ大学医学部の付属機関として、Dr. ノグチ没の50年後の昭和54年に日本の無償援助資金協力で設立されたものです。 現在5名の日本人ドクターと数百名のガーナ人によって運営されています。 また、その研究所から来るまで2時間のところにあるオンヤジ村にある「ノグチメモリアルクリニック」という名前の診療所があるというので、日本出発前は予 定していなかったのですが訪ねることになりました。 その村に入るやいなや、道の両脇に手作りの「日の丸」ガーナ国旗が飾られており、村あげての大歓迎を受 けました。 ノグチの業績がこのネーミングのようにガーナの人々の心に今でも残されているので感動しました。 ノグチがガーナの研究中に自ら黄熱病に罹り、帰らぬ人となったのは、約70年前の1928年5月21日です。 当時Dr. ノグチの研究助手をしていた人が今でも健在なのです。 その「生き証人」のウィリアムスさんに会うことができました。 90歳という高年齢ですが、ゆっくりとその当時のことを思い出してくれ、Dr. ノグチが非常に研究熱心だったことや、Dr. ノグチが亡くなった後、彼が飼っていた研究用の猿数百匹全てを自分が殺して処分しなければならな かった辛い思い出を語ってくれました。 今回の訪問で、Dr. ノグチの死後70年経った今でも、彼の業績がガーナの人々の心にも息づいていることに改めて感動しました。 さて、この「会津壱番館」のある通りは、Dr. ノグチが15歳から19歳まで青春時代を 過ごしたところです。 会津若松市の中心部を南北に延びるこの通りには、Dr. ノグチの初恋の人、山内ヨネの家や、Dr. ノグチの医学者としてのスタートに もなった会陽医院、そしてDr. ノグチふぁ洗礼を受けた教会が残っています。 このDr. ノグチ思い出の街を、この通りの人たちが中心となり、平成2年5月 に「野口英世青春通り」と名付けました。 今、全国的に街の元気がなくなってきています。 その街を活性化するのは、何 も近代化することではなく、地元の伝統・文化・歴史を見直すことから始めることが大切だと思います。 やはり、その地元に根付いた活動でなければ、うまく活 性化なんてしないと思います。 会津若松市は伝統歴史の街です。 それでありながららまだまだうまくそれが街に生かされていないと思います。 この「野口英世青 春通り」は、その街の象徴として「野口英世」を持ってきたわけです。 会津若松市には年間350~360万人の観光客が訪れます。 その人たちに「野口英世青 春通り」をあるいてもらい、偉大な医学博士Dr. ノグチを知ってもらいたいのです。 今なお、各種観光ガイドブック等に紹介され、街に活気が戻りつつあります。 ノグチの業績を調べていくうちに、彼の真の国際人としての姿が見え、ますます彼の 偉業を掘り起こし、永く後世に語り継がなければならないと感じました。 ノグチの偉業は世界に残っており、世界中には「野口」の冠が付く「医学研究 所」がアメリカ、メキシコ、ペルーそして今回訪ねたガーナの4ヵ所にあります。 ノグチは、日本と海外を太いパイプでつないだ国際人であるパイオニアだと思います。 猪苗代にある「野口英世記念館」には、Dr. ノグチと関わりのあるガーナ、ベネゼエラ、メキシコの」在日大使を始め、世界各国の人々が訪れ ています。 また、世界には、4つのDr. ノグチ通りがあります。 エクアドルに2つ、ブラジルに1つ、そして、会津若松市にある「野口英世青春通り」です。 「野口英世青春通り」の英語名は「Dr. Noguchi Street」となっています。 これは、世界4ヵ所ある「Dr. Noguchi Streeet」との将来の交流を睨んでのことです。 そして、あくまでも会津に生まれた偉人野口英世だけでなく、真の国際人のパイオニアとしてのDr. ノグチのこだわりです。 先に言いましたとおり、世界には「野口」冠が付く「医学研究所」が4つあるわけですが、そのうちメキシコ、ペルー、ガーナの研究所が日本との交流の中でもっとも 望んでいることは医学交流です。 ノグチの生誕地である福島県は、県立の医大を持っています。 この医大とそれらの研究所と何らか医学交流ができない か、そのパイプ役として私に何かできることはないかと考えています。 また、「Dr. Noguchi Street」にちなんで、日本、エクアドル、ブラジルの3ヵ国がこの会津若松市に一堂に会して、何かフォーラムみたいなものができないかとも考えていま す。 ノグチには街起こし、いじめ等々様々な切り口がありますが、Dr. ノグチを地域の国際化という切り口で何かできないにものかと日夜思索していま す。 福島県には、Dr. ノグチが偉業を残した諸外国に負けないように、もっと積極的にDr. ノグチの偉業を賛える事業を押し進めることを望みます。 最後に、Dr. ノグチに関する資料を集めています。 ご一報いただければ幸いです。 「野口英世青春通り」は世界に著名な医学者、野口英世博士が青春時代をすごした街 です。 会津若松市の中心部を南北に伸びるこの通りは、博士の過ごした時代(1890年代)も人々の往来の多い、市の中心繁華街として賑わっていました。 通りには博士が15歳のとき、幼い頃背負った手の火傷の手術を受けた「会陽医院」跡が現存 しています。 その手術の成功に感動した博士は、自分も医師になることを決意し「会陽医院」 に書生として住み込み、勉学に励みました。 そして医師開業試験を受験するために上京するまでの数年間をこの地に暮らしました。 街の至るところに博士の足跡が残されています。 悩み多き青春時代を象徴するように、博士はこの街に現存するキリスト教の教会で洗礼も受けています。 また、初恋の人といわれている山内ヨネの生家跡も残されています。 博士は、まさに青春真っ只中をこの街で過ごしたのです。 そして今、私たちは博士の青春時代の想いを受けて、この街に住む人々、この街を訪れる 多くの人々の心に、もう一度青春を問いかけるーそんな場所となることを願い この街を「野口英世青春通り」と呼んでいます。

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