キリスト 教 三 大 宗派。 キリスト教の三大宗派まとめ【分かりやすい比較表付き】

【なぜ消えた?】歴史の彼方に消えたキリスト教異端派7選

キリスト 教 三 大 宗派

引用:TRUE ARK ユダヤ人のルーツをたどると、ヤコブという男に繋がります。 ヤコブの息子の一人であるヨセフが生きていた時代、一部のユダヤ人はエジプトに移住し王から良い扱いを受けていました。 しかし、そんな暮らしも永遠には続かず、王朝が変わると ユダヤ人は迫害を受ける事になります。 この時、迫害を受けていたユダヤ人を引き連れてエジプトから脱出したのがモーセという人物です。 モーセは長い放浪生活の末にカナンという約束の地に到達するのですが、その道中のシナイ山で神と契約を交わし、 10の戒律を授かりました。 この戒律が刻まれた石版は、現在イスラエルのエルサレムに残されており、ユダヤ人にとって特別な場所になっています。 ユダヤ教の絶対ルール「モーセの十戒」 引用:Wikipedia モーセが神から授かった10の戒律は後に「 モーセの十戒」と呼ばれ、現在もユダヤ教徒はこのルールの元に生活しています。 主が唯一の神であること• 偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)• 神の名をみだりに唱えてはならないこと• 安息日を守ること• 父母を敬うこと• 殺人をしてはいけないこと(汝、殺す勿れ)• 姦淫をしてはいけないこと• 盗んではいけないこと• 隣人について偽証してはいけないこと• 隣人の財産をむさぼってはいけないこと 引用: いや当たり前じゃんって事しか書かれてませんが、これがユダヤ人が持つ倫理観の根っこの部分です。 ユダヤ教の安息日は土曜日で、この日ユダヤ人は労働をしません。 禁止されている労働は「書く」「耕す」「壊す」等たくさんありますが、最も代表的なのが「 火をつける」事。 この行為、とても厄介なのが「 電気をつける」事も点火と認識されてしまうんですよね。 なので、ユダヤ人が多く住むイスラエルでは、外国人に電気を点けるのをお願いする事もあるそうです。 イエス・キリストは一ユダヤ教徒であり反逆者 イエス・キリストは、ユダヤ教に根付いている「選民思想」に異を唱えた人物でした。 当時イエス・キリストは「 ユダヤ人でなくても、神は我々を救ってくださる」と考えていたんですね。 これまで「神の救済を受けられるのはユダヤ人だけ!」と考えていたユダヤ人に対して、こんな事を言いだしたらどうなるでしょうか? 大勢のユダヤ人からの反発が生まれますよね。 ユダヤ人はイエス・キリストは反逆者だと考え、当時圧倒的な力を持っていたローマ帝国に身柄を引き渡したのです。 その後、 イエス・キリストは十字架に磔にされその生涯を終えました。 このエピソードは耳にした人も多いんじゃないでしょうか? ユダヤ教にとっての聖地エルサレムとは さて、ユダヤ教徒にとって聖地エルサレムとはどのような地なのでしょう? ここは、先ほどお話したモーセの物語でチラッと登場した約束の地「カナンの地」です。 聖地エルサレムには、 ユダヤ教の神宝「アロンの杖」「マナの壷」そして「モーセの十戒」を収めた契約の箱が安置されていると言われる神殿 イスラエル神殿 があります。 本当にそうかな? 信じていれば神はユダヤ人でなくても救ってくださるはず……。 こんな風に従来のユダヤ教の選民思想に異を唱えたのがイエス・キリストです。 この意見、当時のユダヤ人からすると考えられない事なんですよね。 だってタナハには「 ユダヤ人は神に選ばれた民だ」と書いてありますもの。 つまり、唯一神ヤハウェは自らが選んだユダヤ人のみを救済するはずで、それ以外の人間は救わないはず……。 こういった考えを持つユダヤ人にとってイエス・キリストの考えは到底受け入れる事はできませんでした。 ユダヤ教徒によってローマ帝国に引き渡され十字架に磔にされる イエス・キリストの悪評は瞬く間に広がり、ユダヤ人達は「神の教えに背く輩だ」「国家を破滅に導こうとしている」と口々に罵り出しました。 人々から散々罵倒されたイエス・キリスト。 ユダヤ人達は当時パレスチナを統治していたローマ帝国に重在任としてイエス・キリストの身柄を引き渡します。 こうしてイエス・キリストは、ローマ帝国によって他の罪人と同じように十字架に磔にされて処刑されていましました。 不当に葬られたイエス・キリストですが、処刑から三日経って彼の墓を掘り返したところ、イエス・キリストの遺体が綺麗さっぱり消えていたのです。 イエスの墓が空っぽになっている事が発覚してから、各地でイエス・キリストの目撃情報が相次ぐようになり、さらに奇跡を起こしていたという噂が流れ出しました。 新約聖書によると、イエス・キリストはあらゆる場所で奇跡を連発した後、昇天していったと伝えられています。 神の子であるイエス・キリストはユダヤ教の救世主 話は前後しますが、イエス・キリストが改革しようとしていたユダヤ教の聖典 タナハ には、 救世主伝説というお話があります。 処刑後の復活からイエス・キリストが起こした奇跡の数々を見たイエス・キリストの教え子達は、ある仮説を立てます。 引用:Wikipedia イエス・キリストは神の子というのは有名な話です。 そこにイエス・キリスト救世主説が付加されれば人々はイエス・キリストを更に神聖視するでしょう。 ところが、この理論を冷静に考えてみると• 神の子:イエス・キリスト と少なくとも神が二人いる計算になってしまいます。 神はただ一人のはずなのにおかしいですよね。 そこで考え出されたのが「 三位一体論」です。 ちょっと概念的なお話になりますが、神様は元々一人なんだけど、我々人間の前には• 神の子:イエス・キリスト• 精霊 の三つの姿で現れるんだよ、と考えるようになったんですね。 これは三大一神教の中でもキリスト教だけに存在する考え方で、大きな特徴とも言えます。 しかし、神はただ一人だと考えるユダヤ教とイスラム教はこの解釈に否定的で、イスラム教の聖典「コーラン」では「 三位一体論なんて考えはありえない」と真正面から反論する記述があったりします。 キリスト教にとっての聖地エルサレムとは なら書かなくて良い。 暗唱しなさい。 ガブリエルはムハンマドに神の言葉を伝え、それを一生懸命覚えるムハンマド。 やがてムハンマドはアラビア半島を中心にこの教えを広める事になります。 ムハンマドが説いた神の啓示は、後にコーランと呼ばれる聖典として今日まで受け継がれています。 神であり絶対的な支配者アッラーに全てを捧げます イスラム教徒にとってアッラーは• 永遠に存在する絶対的で超越的な存在• 世界の創造者であり、人間や全ての事物の運命を決定する支配者• 啓示を通して人間に語りかけ、信者を導く人格も持っている• 信者にとって一人一人が向き合うべき「我が主」 と解釈されており、イスラム教徒はアッラーに絶対服従し全てを捧げます。 イスラム教ではアッラーに服従する人を「 ムスリム」と呼んでるので、覚えておくとイスラム教の話になった時に困りません。 アッラーは啓示を通じて人間に意思を伝えますが、人間の理解が及ばない超越的な存在であるために、我々人間がアッラーの意図を完全に理解する事は出来ません。 また、アッラーは 終末の日まで存在した全ての人間の審判を下す存在で、イスラム教徒とそれ以外の人間を厳しく区別していると言われています。 じゃあムスリム以外の人間はすべて地獄に落ちるのか、と言われるとそれは解釈が別れるところで、イスラム教の聖典コーランには イスラムの教えに関心がない人間も救済してくれるという記述があります。 イエス・キリストは神じゃない。 しかし、イスラム教は アッラーを唯一神とする一神教ですから、イエス・キリストを神の子と認めるわけにはいきません。 ですが、イエス・キリストの事を 偉大な預言者の一人として尊敬していて、彼をこの世に産み落としたマリアもまた同様に尊敬されています。 ちなみに、キリスト教では、 イエス・キリストはマリアが精霊から授かったとされているため父親は居ないと考えられています。 しかし、イスラム教におけるイエス・キリストは神の子ではないので 父親が存在すると解釈されています。 イスラム教にとっての聖地エルサレムとは 引用:Wikipedia イスラム教にとってエルサレムは、メッカ、メディナに続く第三の聖地として位置づけられています。 イスラム教の開祖であるムハンマドは大天使ガブリエルに導かれるままエルサレム神殿の上にある岩から天馬に乗って 空の旅 ミウラージュ に出てメッカからエルサレムに降り立ちました。 空の旅に出る時にムハンマドが踏みしめたとされる岩は、聖なる岩と呼ばれ現在は岩のドームにて保存されています。 現在、ムスリム達はメッカに向かって一日五回お祈りを捧げますが、イスラム教が布教され始めたばかりの頃は メッカではなくエルサレムに向かって礼拝が行われていたんですよ。 当時のムスリム達にとって聖なる岩がいかに神聖なものだったかが分かります。 岩のドームを観光するなら楽天トラベルがおすすめ まとめ:三大一神教はイエス・キリストと聖地エルサレムの解釈が違う 今回は 中東で生まれた三大一神教についてお伝えしましたが、いかがでしたでしょうか。 ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、同じ神・聖地を持っているにも関わらず戒律や神に対する解釈が微妙に違っているのは三大一神教の面白いところだと思います。 今回は入門編という事で、それぞれの宗教の触りだけをお伝えしましたが、各宗教の戒律や信仰内容を掘り下げた記事を作っていきたいですね。 日本ではオウム真理教のテロだとか悪質な宗教勧誘の影響で、宗教の話題がタブー視される事が多いんですが、海外では「好きな食べ物ってなに?」くらいのフランクさで「信仰してる宗教ってなに?」と宗教の話題を振られる事が結構あります。 海外での長期滞在を考えている人なら、世界的に信仰者が多い宗教の大まかな内容だけでも抑えておくと安心ですよ。

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キリスト教諸教派の一覧

キリスト 教 三 大 宗派

キリスト教 教派早わかり 教派はなぜ存在するのか。 各教派の特長は? イスラエルにある教会堂。 イエスが 「山上の垂訓」を語られた丘にある。 キリスト教は、信徒数からみて、世界最大の宗教です。 キリスト教徒の数は世界人口の三三%を占めており、イスラム教の一八%、ヒンズー教の一三%、仏教の六%、その他を大きく引き離しています (一九八九年度国連統計による)。 キリスト教界には、三つの大きな流れがあります。 それらは、 プロテスタント、 ローマ・カトリック、 正教会です。 キリスト教界の三大区分 プロテスタントは西欧や北米で優勢であり、ローマ・カトリックは南欧や南米で優勢であり、またギリシャ正教会は東欧や南東欧で優勢です。 これら三つの流れは、教会史における 二大分裂の結果生じました。 東方教会は今日「正教会」 (オーソドックス、ギリシャ正教会)と呼ばれ、一方、西方教会は「ローマ・カトリック」と呼ばれています。 二番目の分裂は、一六世紀の時でした。 ローマ・カトリックの腐敗に対抗する形で、宗教改革者ルーテルやカルヴァンらのもと、「プロテスタント」が生まれたのです。 こうして、キリスト教界の三つの大きな流れが生まれました。 プロテスタントは、さらにその中で多くの「教派」に分かれています。 これは仏教などと比べると、大きな違いです。 仏教は宗派ごとに、依拠する経典が異なります。 たとえば浄土宗の依拠する経典は『浄土三部経』等、日蓮宗は『法華経』、真言宗は『大日経』と『金剛頂経』・・・・というように、宗派ごとに依拠する経典が全部違います。 そのため各宗派の教えも、同じ仏教とは思えないほどに、異なっているのです。 これに対しキリスト教は、多くの教派に分かれているとはいえ、同じ聖書を土台にしているという点で、みな基本的な一致を保っています。 もっとも、「キリスト教」と名乗るグループの中に、聖書以外の教典を持つものがないわけではありません。 しかし聖書以外に、聖書と同等あるいはそれ以上の権威を与えられた教典を持つ教派は、キリスト教では正統とはみなされず、「異端」とみなされます。 たとえば「ものみの塔」 (エホバの証人)、統一協会 (原理運動)、「モルモン教」などは、キリスト教を標榜していますが、聖書以外に、聖書と同等、あるいはそれ以上の価値を与えられた教典を持っています。 そのために彼らは「異端」と呼ばれています。 それらは正統的なキリスト教会ではないのです。 ところで、みなさんは、 「なぜキリスト教会は多くの教派に分かれているのですか」 とお聞きになるかも知れません。 私たちは、キリスト教の各教派の違いについて調べてみましょう。 読者は、それを調べていく過程で、教派が分かれたのはある程度やむを得なかったことであり、むしろ現時点では、必要なことでもあったと気づかれるでしょう。 まず、ローマ・カトリックから見てみましょう。 ローマ・カトリック ローマ・カトリックはいつ始まったのか、と聞けば、ローマ・カトリックの指導者は初代教会の時代、と答えることでしょう。 しかし、 実際にローマ・カトリックが始まったのは、三九二年のローマ帝国におけるキリスト教国教化の年、あるいはその頃と見るべきです。 なぜならその頃から、ローマ・カトリックの特徴である「 教皇」 (法王)を頂点としたピラミッド型の組織が、出来上がっていったからです。 それ以前の教会は、絶対的権力者としての教皇を持っていませんでした。 三九二年以前は、各地に「監督」と呼ばれるキリスト教リーダーたちはいても、ピラミッド型の組織や、世俗的権威を持つ絶対的権力者は存在しませんでした。 ローマ・カトリックは、使徒ペテロを"最初の教皇"としています。 しかしこれは、作り事にすぎません。 ペテロは模範的な指導者でしたが、彼自身は、教皇に代表されるような支配権を主張したことはないのです。 キリスト教国教化以前の教会は、全くローマ・カトリック的ではありませんでした。 しかしキリスト教国教化とともに、教会は世俗権力と手を組みました。 そして教皇が生まれ、ローマ・カトリックが生まれたのです。 教会は本来、人々の前にキリストを示し続けるための機関です。 ところが世俗権力と手を組んだローマ教会は、キリストの名や教えをこの世に強いるための機関、と化しました。 以後、ローマ・カトリックの歴史が目をおおうような腐敗にまみれていったのは、当然のなりゆきです。 それは「教皇」という、聖書の教えにない者を神の代弁者とし、絶対的権威者に仕立て上げたことに伴う結果でした。 その後一六世紀になって、ローマ・カトリックの腐敗に耐えきれなくなった人々の中から、宗教改革が起こされ、プロテスタントが生まれました。 ローマ・カトリック内でも、それに刺激されて、ローマ・カトリックの自己改革をすすめる人々が現われました。 その結果、今日ではローマ・カトリックの教皇 (法王)は、中世のような世俗権力を持たない者となりました。 悪名高い「免罪符」が発行される、ということもなくなりました。 また、ローマ・カトリック内の改革の結果、「イエズス会」のように世界宣教に命をかける人々も現われました。 日本に宣教に来たあのフランシスコ・ザビエルも、イエズス会のメンバーでした。 今日では、マザーテレサのように、尊い働きをなしているカトリック信者もいます。 そのような意味で、今日のローマ・カトリックは、中世のあの腐敗時代のイメージからは、かなり遠ざかりつつあります。 しかし今日のローマ・カトリックが、初代教会のような純粋なキリスト教であるかというと、そうは言えないでしょう。 ローマ・カトリックは、一八七〇年のヴァチカン会議において、教皇は「無謬」である (間違いがない)、との宣言を行ないました。 「教皇の資格において」「信仰および道徳についての教理を決定する時は無謬」であり、さらに「それらの定義は変更が許されない」というのです。 この 教皇無謬説は、今日も捨てられていません。 それはプロテスタント、およびギリシャ正教会によって、神への冒涜と考えられています。 教皇ピウス4世 (19世紀)。 ローマの最初の鉄道の駅で、 特別に飾られた客車の中に立っている。 1854年に彼は、 処女マリヤの無原罪懐胎説を布告した。 またヴァチカン総会議において、教皇無謬 (むびゅう) 説を唱えた。 また、ローマ・カトリックの教理や風習の中には、かなり異教的なものが含まれています。 とくにマリヤ崇拝や、マリヤの無原罪懐胎説、聖人崇拝、聖像崇拝、煉獄説などは、その代表でしょう。 有名な神学者ハルナックは、 「 ローマ・カトリック教会は、原始キリスト教に、ギリシャおよびローマの異教的要素を加えたものである」 と言っています。 なお、「聖公会」は、カトリックとプロテスタントの中間的なものです。 聖公会は、ローマ教皇の教権と統治に逆らった点ではプロテスタントですが、カトリック伝来の信仰と伝承を護持する点でカトリックなのです。 正教会 正教会 (ギリシャ正教、オーソドックス)については、どうでしょうか。 東方教会である正教会は、その方式の大半は、ローマ・カトリック教会に極めて似ています。 神学者ハルナックは 「 正教会は、原始キリスト教に、ギリシャおよび東洋の異教的要素を加えたものである」 と言っています。 しかし正教会は、ローマ・カトリックのような教職の独身を要求しません。 また教皇もいません。 そのため、正教会は最も古い伝統を誇りながら、ローマ・カトリックほどの腐敗は経験しませんでした。 正教会は今日、東南ヨーロッパと旧ソ連邦内にあり、全キリスト教徒のほぼ一〇分の一を占めています。 正教会は、ギリシャ正教会とも呼ばれますが、ロシア正教会・ルーマニア正教会・ブルガリア正教会・グルジア正教会など、国名・地域名を冠した正教会に分かれています。 プロテスタント つぎに、プロテスタントを見てみましょう。 「プロテスタント」とは、 "抗議する者"の意味で、ローマ・カトリックの腐敗に抗議することから始まった、一六世紀以来の新しいキリスト教の流れです。 聖書学者ヘンリー・H・ハーレイは、プロテスタントについてこう言っています。 「 プロテスタントは、すべての異教主義から解放された原始キリスト教を回復しようとするものである」。 それは、純粋なキリスト教を回復しようという努力であり、その一連の運動のことなのです。 ですからプロテスタントは、一つの組織や、特定の機構によって成り立っているわけではありません。 それは純粋なキリスト教の回復を目指す諸グループ、諸運動の、総称なのです。 プロテスタントは、聖書だけを神からの啓示の書物とみとめ、他の書物には神的権威を与えません。 そしてその純粋な教えに帰ろうとします。 また、神と人との間の仲保者としてイエス・キリストのみを認め、教皇の存在を認めません。 プロテスタントの代表的教派について、その幾つかを見てみましょう。 ルーテル派 ルーテル派は、一六世紀ドイツの宗教改革者マルチン・ルーテルの流れを汲むものです。 ルーテル (ルター)ははじめ、ローマ・カトリックの修道士でした。 しかしやがて、カトリックの教義に対して深い疑いを持つようになりました。 一五〇八年のある日、彼は新約聖書ローマ人への手紙を読んでいる時、「 義人は信仰によって生きる」 (一・一七)という聖句に接しました。 そして突如その意味を悟り、平安を得たのです。 救いは、キリストを通して神を信じることによって得られるのであって、教会の儀式の執行や秘跡 (礼典)や戒律の遵守によって得られるものではないことを、ルーテルは発見しました。 それは「 信仰義認」という言葉で表されます。 信仰義認の発見は、彼の全生涯を変え、またその後のキリスト教史をも変えました。 ルーテルは、一五一七年に、ローマ・カトリック教会に対する「九五か条の質問状」を、ヴィッテンベルク教会の扉にはりつけました。 その大部分は、免罪符によっては罪は消えないことを主張するものでしたが、本質的に教皇の権威にも迫る内容でした。 その印刷された写しは、全ドイツの多くの人々から求められ、熱狂的支持を受けました。 ルーテルは、教皇からの圧迫を受けましたが屈せず、一五一九年ライプチヒ討論で教皇の権威を否定しました。 また二〇年には、カトリックからの破門状を公衆の面前で焼却して、決意を示しました。 マルチン・ルーテル こうしてルーテルの起こした宗教改革の炎は、やがてヨーロッパ全体を燃え上がらせる宗教改革の火となっていったのです。 ルーテルの流れを汲むルーテル教会は、プロテスタントにおける最古の教会と言えるでしょう。 それはスカンジナビア諸国では、国民教会となっています。 ルーテルの業績は、プロテスタントのあらゆる教派から、偉大なものとして賞賛されています。 しかし、彼にも欠点がなかったわけではありません。 ルーテルは残念なことに、熱烈な反ユダヤ主義者でした。 彼はユダヤ人を誤解していたのです。 しかし今日、ルーテル教会は、彼の反ユダヤ主義を継承していません。 世界ルーテル連盟は一九八四年に、ルーテル生誕五〇〇周年を記念する大会において、ルーテルの反ユダヤ主義について言及しました。 そして彼の反ユダヤ主義を拒否し、教会において決して使用しないことを宣言したのです。 このように、ルーテル派だからといって、ルーテルの思想のすべてを継承するわけではありません。 ルーテルの残した遺産の最も大きなものは、 プロテスト (抗議) の精神です。 自己にプロテストし、自己批判することを忘れない者こそ、真のプロテスタント信者です。 自己の間違いを改めるのに躊躇しない者こそ、ルーテルの精神の継承者なのです。 なお、一八世紀の有名な宣教団体「モラヴィア兄弟団」の創始者ツィンツェンドルフ伯は、ルーテル教会の一員でした。 また、反ヒトラーのレジスタンス運動で知られるデートリッヒ・ボンヘッファーも、ルーテル教会の牧師でした。 改革派・長老派 改革派教会、および長老派教会は、一六世紀のフランス人宗教改革者 ジャン・カルヴァンの流れを汲むものです。 改革派および長老派は、同じルーツに発したもので、大きな違いはありません。 「改革派」は、カルヴァンが発展させた神学体系からつけた名称であり、「長老派」は、カルヴァンが発展させた教会行政組織からつけた名称なのです。 カルヴァンは、はじめローマ・カトリックの聖職者でした。 しかし、ルーテルの著書を読んで影響を受け、一五三四年にカトリックの聖職を捨てました。 カルヴァンはカトリックに追われたため、スイスにのがれ、そこで宗教改革を押し進めました。 彼は一五三六年に、プロテスタント初の体系的神学書『キリスト教網要』を著しました。 またジュネーブで、プロテスタントの信仰に立って、厳格な清い生活態度を市民に説きました。 その頃のジュネーブは、初代教会以来もっとも純粋な信仰が人々の間に見られる社会であった、と言われました。 カルヴァンはまた、ジュネーブ大学を創設。 商工業にも深い関心を持ち、市民の間に絹織物工業や時計製造を広めました。 人がまじめに働くならば金をもうけても良く、また金を貸して利子を取るのも良い、と説きました。 ジャン・カルヴァン これは、金もうけを「卑しい」と考えたローマ・カトリックとは異なる考えでした。 カルヴァンの職業観や金銭観は、その後の資本主義の成立期の、市民の倫理となりました。 カルヴァンは驚くほど多くの著述をなし、聖書の講解書も、聖書全巻にわたって著しました。 いや、「全巻」というのは誤りです。 彼は「ヨハネの黙示録」に関する講解だけは書きませんでした。 これは、彼の時代にはまだ、終末論が熟していなかったことを示しています。 終末論や、聖霊に関するより深い理解、いやしのみわざなどの福音は、その後の時代に展開していくのです。 宗教改革者カルヴァンやルーテルは、「信仰義認」の教えを回復し、キリスト教の福音の回復に偉大な功績を残しました。 しかし、彼らによって福音の全体が回復したわけではありません。 宗教改革者たちが回復したものは、福音の基本的部分でした。 ですから、一六世紀の宗教改革以後も、多くの改革者が現われ、福音の全体像の回復に向けて、教会は発展する必要がありました。 バプテスト派 「バプテスト」という言葉は、バプテスマ (洗礼)から来た言葉で、一般に「浸礼派」と訳されています。 バプテスマには一般に、水を数滴たらす「滴礼」方式と、体を水の中に沈める「浸礼」方式の、二種類があります。 バプテスト派では滴礼を認めず、浸礼だけを認めるのです。 バプテストは最初、一六世紀のスイスに、アナバプテスト (再洗礼派)として誕生しました。 彼らは、カトリックでなされている儀式的な幼児洗礼を否定し、信仰告白に基づいた成人の洗礼を実施したのです。 バプテストには、ルーテルやカルヴァンのような、特定の有名な創始者がいません。 それは不特定多数の改革者たちによって始められた運動なのです。 バプテストの人々の主たる関心は、バプテスマ自体よりも、むしろ「 真にキリストの弟子であること」にありました。 キリスト者としての「 生活」が重視されたのです。 初期のあるバプテスト指導者は、こう語りました。 「誰でも、生活においてキリストに従わなければ、キリストを知ることはできない」。 またバプテストは、愛の倫理と、非戦主義を説きました。 彼らは戦争へ行かず、迫害者から身を守ることもせず、国家による弾圧に参加することもしませんでした。 バプテストは、初代教会の活力と信仰を再興しようと腐心しました。 彼らは、教会は、富や権力による制度ではなく、信仰に基づく兄弟姉妹、また神の家族の集まりであると言いました。 また教会は、人の作った組織に認められるものではなく、神が人々の中に働いておられるところに認められる、とも主張しました。 バプテストはまた、教会と国家の分離を主張しました。 彼らは、たとえ社会がキリスト者によって構成されている場合でも、教会は社会と分離しているべきである、と説きました。 これは、カトリック教会への批判でもあります。 バプテストはその後、何度かの分裂や統合を繰り返して今日に至っています。 いわゆるメノナイト派 (メノー派)も、バプテストの流れを汲んでいます (フレンド派の影響も受けている)。 メノナイト派は、アメリカではとくに「良心的反戦論者」として知られています。 一九世紀の有名な伝道者C・H・スポルジョンは、バプテスト派 (ただしカルヴァン主義バプテスト)でした。 また、インドに伝道した偉大なイギリス人宣教師ウィリアム・ケアリや、非暴力によって黒人の公民権運動を展開したアメリカのマーティン・ルーサー・キング牧師も、バプテスト派でした。 C・H・スポルジョン フレンド派 フレンド派は、一七世紀イギリスの改革者 ジョージ・フォックスの流れを汲むもので、「 クェーカー」とも呼ばれています。 フレンド派 (基督友会)の名称は、 「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの 友です」 (ヨハ一五・一四) のキリストの御言葉によっています。 また、彼らが「クェーカー」とも呼ばれるのは、彼らが体をふるわせながら祈ったからです。 彼らの祈りは全身全霊をこめたものであり、ある時は顔を輝かせ、ある時は神の威光にふるえながら祈りました。 それで人々は、彼らを「ふるえる者たち」 (クェーカー)と呼んだのです。 初期のクェーカーの集会 それはもともと嘲笑的な言葉でしたが、信者たちはそれを喜んで受け、やがて自分たちでもそう呼ぶようになったのです。 当時一七世紀のイギリスの教会は、ローマ・カトリックもプロテスタントもありましたが、いつも国家の支配下に置かれていました。 礼拝は形式的で、教会は国家による保護と引き換えに、霊性を放棄してしまったかのように思われました。 教会は、国家公務員に管理された公的礼拝場のようになっていました。 ジョージ・フォックスはそうした中で、真実の宗教を探り求めたのです。 フォックスは、直接的なキリスト体験を重視し、それを人々に説きました。 彼は言いました。 「キリストは長い間、ミサと書物の中に閉じこめられていた。 キリストをあなたがたの預言者、祭司、また王とあがめ、彼に従いなさい」。 フォックスは、キリスト者は聖書を持つだけでは足らず、生活の中でキリストの義に従って生きなければならないと説きました。 フォックスに最初に従ったのは、農夫たちでした。 「勇敢な六〇人」として知られる彼らは、イギリス中どこにでも行って伝道しました。 フレンド派は、迫害を受けましたが、それでも急成長し、その運動は文化的障壁を越えました。 女中の少女たちが、ロバート・バークレーのような貴族階級と一緒に礼拝を行ないました。 フレンド派は、アメリカ・インディアンにも伝道し、信者を獲得しました。 今日では、アラスカのエスキモーからボリビアのアイマラ族にいたるまで、土着民の中にも多くのクェーカーがいます。 一八世紀にフレンド派のジョン・ウールマンは、アメリカの奴隷制について、聖書の証言から奴隷制が悪であると確信し、他のクェーカーたちと最初の奴隷解放運動をなしました。 これは、やがてリンカーンの奴隷解放宣言によって、実を結ぶことになります。 日本では、明治・大正期の教育家・新渡戸稲造が、フレンド派でした。 メソジスト派 メソジスト派は、一八世紀にイギリスに生まれた派であり、 ジョン・ウェスレーの流れを汲むものです。 当時のイギリスには、英国国教会がありましたが、貴族主義的で、生気のないものとなっていました。 そこで 聖書的キリスト教を取り戻すために、ジョン・ウェスレーが立ち上がったのです。 18世紀の英国教会の状態を描いた、ウィリアム・ホーガスの風刺画。 生気のなさをよく描いている。 ウェスレーは、一七七四年八月二四日、聖バルトロマイ日の説教において、当時の国教会の在り方を批判し、「聖書的キリスト教へ帰れ」と叫びました。 彼はこう言いました。 「真に聖書的なキリスト教が今、どこに存在しているのか。 このようなキリスト者が、どこに生きているのか。 住民全体がこのように聖霊に満たされている国が、どこにあるのか。 ここに述べられたことと合致しない国を、キリスト教国と呼ぶことが本当に妥当であろうか。 だからわれわれは、まだこの地上ではキリスト教国というものを、一つも見たことがないと告白しようではないか」。 ウェスレーは、聖書的キリスト教を回復するために、様々な方法を考え、実践し、それを人々に説きました。 彼に従う人々の几帳面で厳格な生活を見た人々は、「方法論者」 (メソジスト)というあだ名を彼らにつけました。 メソジストというあだ名は、以後そのまま彼らの派の呼び名となりました。 ウェスレーは、 「森羅万象の中に神を見いだし、すべてを神のために行ないなさい」 「手段を尽くし、方法を尽くし、あらゆる場所で、あらゆる人々に、いのちのある限り、あらゆる善を尽くしなさい」 と説きました。 ウェスレーは、説教を許してくれるところなら、どこへでも出かけて説教しました。 説教のために彼は馬で移動しましたが、その距離は、総計四〇万キロにも及びました。 これは月にまでも生ける距離です。 ウェスレーは説教の中で、聖書の聖句を生き生きと、縦横無尽に用いました。 聖書に精通していた彼は、「一書の人」と呼ばれましたが、科学や哲学、またあらゆる思想と教養にも通じていました。 ウェスレーの説教は、決してセンチメンタルなものではなく、非常に論理的で、真理を単刀直入に、明確に人々の前に描き出すものでした。 彼は人々に、聖書的で高度な倫理を説き、人々の良心をめざめさせ、自分の罪に気づかせるようにしました。 そして、 「 来たらんとする御怒りからのがれよ」 と説きました。 彼の説教を聞いた人々の中には、卒倒して倒れる者もいました。 倒れた者は、起きあがったときには、神の愛により頼む熱心な信者となっていました。 ウェスレーは、信仰義認だけでなく、「 キリスト者の完全」について説き、聖潔 (聖化)の福音に関しても説きました。 彼はこの地上において、ある者たちは"キリスト者としての完全"に到達できると信じました。 ジョン・ウェスレー こうして生まれたメソジスト派は、その後全世界に広がりました。 社会事業や慈善事業の分野で大きな功績を持つ「救世軍」の創始者ウィリアム・ブースは、その働きを始める前は、メソジスト派の牧師でした。 日本では、日本ホーリネス教団、日本フリーメソジスト教団、イムマヌエル総合伝道団、基督兄弟団、基督聖協団、その他がメソジストの流れを汲んでいます。 ブレザレン派 ブレザレン派は、一九世紀はじめにJ・N・ダービ、その他の人々によって起こされた信仰復興運動の流れです。 この運動は、 万人祭司の立場を明確にし、教会内における教職と信徒というような階級的区別を一切否定しました。 礼拝と聖餐式は、特定の牧師が行なうのではなく、教会員が交代でなしました。 特定の牧師は置かず、すべての信徒は伝道者であるとみなされました。 彼らは互いに、キリストにある「 兄弟」 (ブレザレン)と呼んだので、その名で呼ばれるようになりました。 ブレザレン派は、地域の各教会を越える教会政治を持たず、中央集権的組織も持ちませんでした。 ブレザレンはまた、キリストの再臨が近いとの期待を表明しました。 彼らはキリストの再臨を待ち望んで、世から聖別された人々として行動することを欲しました。 ブレザレンの運動は、イギリスや、スイス、ドイツ、その他のヨーロッパ諸国で起こりましたが、その後、世界のほとんどの地域に存在しています。 家のない子を救う施設を建設したトマス・バーナード (一九世紀)や、ジョージ・ミュラー (一九世紀)などの人々は、ブレザレンに属していました。 家のない空腹の子どもたちに 給食をしているトマス・バーナード。 彼はブレザレンに属していた。 ペンテコステ派 ペンテコステ派は、二〇世紀になって起こった信仰復興運動で、聖霊の賜物、とくに「 異言」を強調するものです。 「異言」とは、人がそれまで知らなかった言葉を聖霊によって話すこと、と一般的には理解されています。 今世紀のはじめ米国のカンザス州で、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた最初のしるしであるという教理が、はじめて形成され、やがて諸州で支持を得るようになりました。 一九〇六年には、ロサンゼルスのアズーサ通りで、人々に異言を伴うリバイバル (信仰復興)が起き、その集会は約三年にわたって続きました。 人々は、北アメリカの各地から、ついでヨーロッパや第三世界からそこを訪れ、そのメッセージを持ち帰りました。 火はまたたく間に広がり、世界中に多くの新しい教会が形成されました。 また、病気のいやしや、悪霊追放を行なう伝道者は、ペンテコステ派の成長において重要な役割を果たしました。 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、日本ペンテコステ教団、日本フォースクェア教団、日本チャーチ・オブ・ゴッド教団、日本オープンバイブル教団、日本ユナイト・ペンテコステ教団等は、ペンテコステ派の流れを汲んだものです。 しかし、これをペンテコステ「派」と呼ぶのは正しくなく、むしろペンテコステ「運動」と呼んだほうがよい、という意見もあります。 それはその影響が、ただ一派にとどまらず、プロテスタント諸教派をはじめ、ローマ・カトリック内にさえ及んでいるからです。 この超教派的ペンテコステ運動は、のちに「 カリスマ運動」 (カリスマ刷新運動)とも呼ばれるようになりました。 しかし今日、ペンテコステ運動とカリスマ運動とは、区別して用いられています。 ペンテコステ運動は、異言を聖霊のバプテスマに伴う必須の要素とみなすのに対し、カリスマ運動は、それを必須の要素とみなさない人々をも認めるようになっているのです。 ペンテコステ派、およびカリスマ運動の特長は、聖霊体験による非常な活力、全員が思いのままに参加できる自由形式の礼拝、教職や司祭の階級制がないこと、全員が自分の信仰を他の人々と分かち合うべきことの強調などです。 若い世代に大きな影響を与えた ジーザス・ピープル (1960年代)。 その独特の合図として、天を 指さしているところ (ペンテコステ系)。 ペンテコステ派やカリスマ運動の驚くべき発展は、一八世紀のメソジスト派、一九世紀の救世軍が与えたような衝撃を、キリスト教会に与えました。 一九五〇年代には、世界教会協議会 (WCC)の指導者たちは、ペンテコステ派およびカリスマ運動を、純粋なキリスト教として、じつにキリスト教内の「第三勢力」として認めるようになりました。 キリスト教界のこれから 以上、キリスト教界のおもな教派を幾つか見てきました。 キリスト教界の最も注目すべき特色の一つは、 周期的に信仰を改革し、回復させる驚くべき力です。 旧来の宗教を改革するかたちで、ドイツにはルーテル派、スイスには改革派やバプテスト派、イギリスにはフレンド派やメソジスト派・・・・というように、世界のあちこちに信仰回復運動が起きました。 その時代、その場所に必要な信仰復興運動が起きたのです。 それらはやがて教派を形成しました。 しかし、二〇世紀になって信仰復興運動は、特定の指導者や地域に限定されるものではなく、むしろ不特定多数の指導者と、全世界的な広がりをもって起こるようになってきています。 こうして見てみると、キリスト教というものは、非常にダイナミックな活力にあふれていることがわかります。 プロテスタントの教派は、もともと旧来のものを改革し、教会に新たな生気を吹き込むために生まれました。 もっとも、プロテスタントのすべての教派が、現在も創設時の活力を保っている、というわけではありません。 なかには、創設時の活力と理念を失ってしまったものもあります。 そうした教派は、再び改革を必要としています。 プロテスタントは、現在多くの教派教団に分かれているという点で、弱点を持ち、混乱もかかえています。 そうした意味では、完成にはほど遠い状態にあります。 にもかかわらずプロテスタントは、時代とともに大きな発展をしており、 初代教会により近い状態に回復しつつあります。 聖書学者ヘンリー・H・ハーレィ博士はこう言っています。 「プロテスタント教会は、完成にほど遠く、またその混乱と弱さとにもかかわらず、疑いもなく、現代世界においてキリスト教の最も純粋な形態を代表している。 おそらく三世紀以来知られている中で、最も純粋な教会であろう。 現代世界において、プロテスタントの牧師たちより高貴な人々を考えることはできない」。 プロテスタントは、これからどのような方向に向かっていくのでしょうか。 今日、プロテスタントの教派は、不必要な分裂をしている場合も少なくありません。 合流しようと思えばできるのに、まだ体制が整わないばかりにできないでいるのです。 しかし、各教派の交わりが盛んになるなかで、そうしたものも次第に解消されていくでしょう。 プロテスタントの教派というものは、ある意味では、長野県軽井沢にある「 白糸の滝」に似ています。 普通の滝は、そこに流れ込む川があって、水が崖に達して落ちて滝となります。 しかし軽井沢の白糸の滝は、そこに流れ込む川がありません。 垂直に立つ地層の無数の箇所から、水がわき出ていて、それが"白い糸"のような幾千もの水のすじをつくり、美しい滝を形成しているのです。 長野県軽井沢にある白糸の滝。 そこに流れ入る 川がなく、地層のあちこちから湧き出る無数の 水の白糸が大きな滝を形成し、川を形成している。 水の"白糸"は、落ちる間に他の白糸と合流し、さらに他の白糸と合流し、ついには一つの大きな流れとなって、流れ出る川となっています。 プロテスタントの各教派も、それに似ています。 プロテスタントの教派は、ちょうど地層のあちこちにわき出る水のように、世界のあちこちで生まれ出ました。 しかし、それらの流れは、いつまでも分離したままではありません。 各教派は、やがて他の教派と合流し、一つの大きな流れになっていく必然性のもとにあります。 幾千もの水の白糸が、やがて一つの大きな流れを形成するように、それらはやがて一つの大きな流れを形成しなければなりません。 プロテスタント諸教派の合流は、これからさらに、活発になっていくことでしょう。 なかには分裂するものもあるでしょうが、全体的に見れば、合流・合体の傾向が強まっていくに違いありません。 ビリー・グラハム。 彼は、諸教派の力を 結集することに成功し、大きな働きをなしている。 そうして 福音自体も、その全体像が回復していくでしょう。 教会は今、回復の途上にあるのです。 教会は、こののちさらに回復し、やがて究極の回復の時に至るでしょう。 究極の回復の時とは、イエス・キリストの再臨の時です。 その日には、教派も、またプロテスタントもカトリックもなく、全地はただ一つの教えになるでしょう。 こう預言されています。 「 (その日) 主を知る知識が、海をおおう水のように地を満たす」 (イザ一一・九)。 キリストを通して神の支配が全地におよぶその時、教派は消え失せ、また他の宗教も消えてなくなり、全地はただ"真のキリスト教"だけになるのです。 著 (レムナント1994年5月号より) ブラウザがインラインフレームに対応していません。 表示される文章はこちらです。

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キリスト教の三大宗派の違いについて

キリスト 教 三 大 宗派

キリスト教とは、ナザレのイエスを「キリスト(救世主)」とし、イエスは十字架に架けられた後に復活したと信じる宗教のこと。 「父なる神」「その子キリスト」「聖霊」を三位一体の唯一の神として信仰しています。 ただひと口にキリスト教といっても、上記の定義に当てはまらない異端とされるものも含め、多くの宗派が存在しています。 大まかに分類すると、「東方キリスト教」と「西方キリスト教」の2つ。 さらに「西方キリスト教」は「カトリック教会」と「プロテスタント」に分かれます。 ちなみに世界史で習うローマ教皇を頂点とする教団は、「西方キリスト教」の「カトリック教会」を指すものです。 また「プロテスタント」のなかにも「ルター派教会」「改革派教会」「長老派教会」「会衆派教会」「メソジスト教会」「バプテスト教会」「アナバプテスト」などさまざまな宗派があります。 キリスト教全体の信者は、すべての宗教のなかでもっとも多く、世界でおよそ23億人。 このうち約12億人が「カトリック教会」の信者、約5億人が「プロテスタント」諸派、約3億人が「東方キリスト教」系、約3憶人が「モルモン教会」や「エホバの証人」などです。 「カトリック」という言葉の語源は、ギリシア語で普遍的、世界的を意味する「カトリコス」。 自らを「使徒ペトロの後継者(ローマ教皇)と使徒の後継者たち(司教)によって治められる唯一、聖、カトリック、使徒的な教会」と定義しています。 その教えは「聖書と聖伝」という言葉で表されていて、旧約聖書や新約聖書、イエス・キリストや使徒の教えに由来するもの。 教父たちの研鑽によって磨かれ、議論されたうえで公会議において確立されたものとし、「使徒信条」および「二ケア・コンスタンティノープル信条」を基礎としています。 「プロテスタント」は、その名のとおりカトリック教会に対する「抗議」から生まれた諸派です。 ローマ教皇のように全体を統括する指導者や組織はありません。 その教えは、聖書は神の言葉であり一切の誤りはないとする「福音主義」が主となっています。 そのほか「カトリック」の教会が「派手で豪華」、聖職者を「神父」と呼ぶのに対し、「プロテスタント」の教会は「質素」で、聖職者を「牧師」と呼ぶ点に違いがあります。 また「イングランド国教会」は、その成立過程から「プロテスタント」に分類されることもありますが、「カトリック」の伝統を引き継いでいて、「中道の教会」「橋渡しの教会」とも呼ばれています。 現在は紀年法として「西暦」が一般的に用いられています。 西暦は、6世紀のローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスが算出したもので、イエス・キリストが誕生した翌年を紀元元年としています。 しかしその後の研究によって、実際にイエス・キリストが誕生したのはディオニュシウスの計算よりも数年早く、紀元前6年~紀元前4年頃だったそうです。 『福音書』や『使徒言行録』では、イエス・キリストのことを「ナザレのイエス」と書いています。 ナザレは現在のイスラエル北部にある町。 当時は苗字を名乗る風習がなかったため、他者と区別するために出身地を付けて呼ぶのが一般的でした。 ナザレのイエスが活動していた期間は、28年から30年までの3年ほど。 さまざまな教えを説き、奇蹟を起こし、12使徒に代表される「ユダヤ教ナザレ派」という小規模な教団を組織しました。 ナザレのイエスは、伝統的なユダヤ教の宗派であるファリサイ派やサドカイ派を批判したため、危険思想の持ち主として訴えられ、処刑されました。 しかし処刑された3日後に復活を遂げ、弟子たちの前に姿を現し、40日間ともに生活した後、天に向かって昇っていったとされています。 ユダヤ教ナザレ派がキリスト教として成立したのは、ナザレのイエスが死んでから蘇ったとする「復活信仰」が広がり始めた後の66年~70年にかけて起こった「第一次ユダヤ戦争」の頃。 エルサレム神殿が破壊されたことがきっかけでした。 この頃から、パウロらによって『新約聖書』がまとめられる70年頃までを「原始キリスト教」と呼びます。 原始キリスト教はエルサレムで成立したと考えられていて、その後ステファノやペトロ、パウロらによる伝道活動の結果、ガリラヤ、ガラテヤ、ピリピ、コリントなどにも拡大しました。 教義は地域ごとに差があり、統一はされていなかったそうです。 ローマ帝国のキリスト教の歴史を簡単に解説! 初期のキリスト教徒は、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で礼拝をするのが一般的でした。 そのため、ディアスポラ(民族離散)によってローマ帝国の各地にユダヤ人が散らばるのと同時に、キリスト教も広がっていくことになります。 ローマ帝国では多神教が基本だったため、唯一神教であるキリスト教は迫害を受け、多くの殉教者が出ました。 しかし、たび重なる迫害を受けても拡大は止まらず、4世紀頃にはアルメニア王国やアクスム王国など、キリスト教を公認または国教化する国も現れるのです。 ローマ帝国でも、313年の「ミラノ勅令」によって、キリスト教が公認されました。 380年にはローマ帝国の国教に定められ、392年には帝国内でキリスト教以外の宗教を信仰することが禁止されます。 教団としての地位が向上する一方で、神学論争が勃発し、公会議が盛んに開かれるようになったのもこの頃のこと。 特にアリウス派とアタナシウス派の論争はヒートアップし、暴力沙汰に発展することも少なくありませんでした。 やがて皇帝の介入を招くことになります。 325年にコンスタンティヌス1世が開いた「ニカイア公会議」の結果、アリウス派は異端とみなされて追放。 さらに431年にテオドシウス2世が開いた「エフェソス公会議」では、ネストリウス派が追放されています。 公会議によって教義が確認され、「正統」が確立される一方で、異端とされた宗派は教会から分離することを余儀なくされました。 多くの宗派が消滅しましたが、なかには正統派の勢力が及んでいない地域で発展を遂げるものも出てきます。 たとえば追放されたネストリウス派は東へと向かい、7世紀頃には中国へ伝わり、「景教」として「唐代三夷教」に数えられるまでに発展しました。 395年にローマ帝国が東西に分裂すると、キリスト教も東の「正教会」と、西の「ローマ・カトリック教会」に分裂します。 この分裂は対立というよりは、ギリシア語圏に属する東ローマと、ラテン語圏に属する西ローマの文化的な相違によるもの。 しかし両者の関係はしだいに悪化し、1054年には完全に分裂。 以降、別々に発展を遂げていくことになるのです。 近代のキリスト教の歴史を簡単に解説!日本にはいつ伝わった? 16世紀、キリスト教界では、「宗教改革」と呼ばれるカトリックを批判する革新運動が起こります。 先駆者といわれているのは、14世紀から15世紀に活躍したイングランドのウィクリフ、ベーメンのフス、フィレンツェで神権政治をおこなったサヴォナローラなど。 もっとも有名なのは、ドイツ人神学者のマルティン・ルターでしょう。 ルターの宗教改革のきかっけは、1515年にローマ教皇のレオ10世が「サン・ピエトロ大聖堂の建築資金」を名目として、「贖宥状」を発売したこと。 贖宥状は、罪を犯しても神によって与えられる罰を免れることができるとするものです。 これを持っていれば、たとえ戦場で敵を殺しても罰を免れることができるため、兵士から人気でした。 贖宥状の売上は、カトリックにとっては貴重な財源でした。 イタリアの豪商メディチ家出身のレオ10世は、教皇となった後も王侯貴族のような生活を送り、その費用としてドイツの豪商フッガー家から多額のお金を借りていたそう。 彼が発行した贖宥状は、「サン・ピエトロ大聖堂の建築資金」を名目としていましたが、実際には借金の返済が目的だったのです。 ヴィッテンブルク大学の神学教授だったルターは、本来必要とされる悔い改めなしに、金銭で償いができるという風潮を批判。 1517年に、市内の教会や城に「95ヶ条の論題」を提示しました。 ちょうどグーテンベルグが考案した活版印刷術が普及しはじめたこともあり、ルターの批判はドイツを中心に各地に波及します。 これを受けてレオ10世は、1521年にルターを破門。 破門されたルターは「聖書中心主義」「神の前に万人は平等」とする理念を掲げて、新たな宗派「ルター教会」を立ちあげます。 また、ルターの宗教改革に影響を受け、チューリッヒのフルドリッヒ・ツヴィングリやジュネーブのジャン・カルヴァンらが「改革派教会」、イングランド王ヘンリー8世が「イギリス国教会」を立ちあげました。 これらの宗派はまとめて「プロテスタント」と呼ばれるようになり、ヨーロッパは「カトリック」と「プロテスタント」に二分される宗教戦争へと突入するのです。 宗教戦争の最中には、「プロテスタント」の拡大を阻止しようと、カスティリヤ王国バスク地方出身のイグナチオ・デ・ロヨラと、パリ大学の学友6人が男子修道会「イエズス会」を結成しました。 創設メンバーのなかには、1549年に日本を訪れたフランシスコ・ザビエルも含まれています。 「イエズス会」は「教皇の精鋭部隊」と呼ばれ、「プロテスタント」に対抗するために非キリスト教世界を「カトリック」に取り込もうと奔走。 ザビエルが日本で2年間の宣教活動に従事したのも、その後に中国を目指したのも、「カトリック」の普及のためでした。 しかし日本を「カトリック」に組み込む策は、豊臣秀吉の伴天連追放令や江戸幕府の禁教令などで失敗に終わります。 すると「イエズス会」の目はアメリカ大陸へと向かい、特に南米で大きな足跡を残しました。 リオデジャネイロやサンパウロなどの大都市も、もとはイエズス会が作った街。 このような「イエズス会」の活躍もあり、キリスト教は世界各地に広がっていったのです。

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