鎌倉 幕府 執権。 鎌倉幕府(時代)の役職や政治や執権のまとめ一覧

北条高時 鎌倉幕府の第14代執権の生涯を5分で

鎌倉 幕府 執権

在職:元久2年(1205年)閏7月~貞応3年(1224年)6月13日 期間:18年11か月 出身:得宗家 北条時政の次男。 源頼朝の正室・北条政子の弟。 北条氏嫡流(得宗家)2代目当主。 父時政没落後、執権に就任。 以降の幕府政治は姉政子と義時、 政所別当・大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣・安達景盛らを中心に運営されていく。 幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を建保元年(1213年)2月、和田合戦において滅ぼし、義時は義盛に代わって侍所別当となった。 政所別当と合わせて幕府の最も枢要な職を独占し、北条氏の幕府指導者としての地位が定まった。 承久元年(1219年)正月、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、三代将軍・実朝が頼家の子公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。 この間、朝廷では後鳥羽上皇を中心に討幕計画が進められ、挙兵、義時追討の宣旨が発せられた。 幕府側は一致団結し、この難局に対処し、早々に京都を制圧した(承久の乱)。 この戦乱の結果、鎌倉幕府が京都政権に対し、優位に立ち、朝廷を支配・監督する状況が生まれた。 また、京都には、北条氏一族を留め、朝廷を監視させた。 これが幕府の出先機関である六波羅探題のはじまりである。 元仁元年(1224年)6月13日没。 享年62。 職:貞応3年(1224年)6月28日~仁治3年(1242年)6月15日 期間:18年 出身:得宗家 北条義時の長男。 承久の乱では、幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。 戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任。 父義時急死により、鎌倉へ戻り執権に就任。 承久の乱以降、各地で所領をめぐる紛争が頻発した。 紛争解決のため、 統一的な武士社会の基本となる「法典」の必要性を考えるようになり、 泰時を中心とした評定衆たちが案を練って編集を進め、貞永元年(1232年)8月、全51ヶ条からなる幕府の新しい基本法典が完成した。 この法典が 「御成敗式目」、あるいは元号をとって「貞永式目」と呼ばれるようになる。 仁治3年(1242年)5月9日死去。 享年60。 在職: 寛元4年(1246年)3月23日~康元元年(1256年)11月22日 期間:10年8か月 出身:得宗家 北条時氏の次男で、四代執権北条経時の弟。 兄から執権職を譲られる。 執権に就任当初は、幕府中枢から支持を得られなかったが、最有力御家人である三浦氏をはじめ、反対勢力を次々に打倒し、北条得宗家の地位を盤石のものにした。 権力掌握後は、引付衆の設置による裁判制度の改革、民衆の保護、都市鎌倉の整備など数々の善政を行った名執権としても知られる。 病気を機に執権職を北条長時に譲り、引退・出家したが、幕府の実権は依然として時頼の手にあった。 このように引退したにも関わらず、時頼が政治の実権を握ったことは、その後の北条氏における得宗専制政治の先駆けとなった。 また、禅宗への信仰が篤く、南宋から蘭渓道隆を鎌倉に招いて、建長寺を開創したことは特に有名である。 弘長3年(1263年)11月8日死去。 享年37。 在職: 文永5年(1268年)3月5日~弘安7年(1284年)4月4日 期間:16年1か月 出身:得宗家 五代執権北条時頼の次男。 異母兄がありながら、母が正妻であったため、生まれながらにして嫡子とされた。 文永元年(1264年)7月、六代執権の北条長時が出家、北条政村が七代執権となり、8月には時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。 文永5年(1268年)正月、高麗の使節が元の国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。 3月5日には政村から執権職を継承し、時宗は18歳で八代執権となる。 以後、34歳で亡くなるまで執権であり続けた。 よって、時宗の執権在職期間は、二度の蒙古襲来「文永の役」「弘安の役」と重複する。 そしてこの時代には、幕府の統制外にあった非御家人にも対蒙古防衛を理由に軍事動員がなされ、全ての武士階級が幕府の統制下に入った。 また、日本国内、幕府内の反対勢力に対しても 苛烈に臨み、権力の集中と世論統一を図った。 これらにより、時宗の代で得宗家の専制が確立されたといわれている。 文永11年(1274年)、元軍が日本に襲来(文永の役)、激戦の末に元軍の進撃を阻止した。 翌年、降伏を勧める使節が来日すると、鎌倉で引見し、処刑する。 弘安4年(1281年)の弘安の役では、元軍は、台風を受けて混乱、日本軍の総攻撃により壊滅した。 こうして時宗は二度の元軍の襲来を撃退したが、戦後、御家人などに対する恩賞問題などが発生、財政難のなかで3度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化しなければならないなど、国内外に難題が積み重なっていた。 弘安7年(1284年)自らの死期を悟り、4月4日出家、同日に死去。 自らが開いた鎌倉山ノ内の円覚寺に葬られた。 享年34。 在職: 弘安7年(1284年)4月4日~正安3年(1301年)8月22日 期間: 17年4か月 出身:得宗家 文永8年12月12日(1272年1月14日)、北条時宗の嫡男として鎌倉に生まれる。 弘安7年(1284年)、父・時宗が病死し執権に就任する。 就任直後の治世は安定せず、幕政は貞時の外祖父(ただし血縁上は外伯父)である有力御家人で弘安徳政を推進していた安達泰盛が掌握するが、泰盛の施策は得宗家の勢力を削減して御家人らの既得権益も犯したために幕府内で孤立した。 このため得宗家執事(内管領)で貞時の乳母の夫にあたる平頼綱ら反安達勢力との対立が激化する。 弘安8年(1285年)11月17日、頼綱の讒言により泰盛を討伐する命を下す(霜月騒動)。 これにより泰盛派は一掃され、頼綱が実権を掌握して権勢を振るった。 安達泰盛を滅ぼした平頼綱は若年の貞時を擁し、強圧的な政権運営を行なうが、有力御家人らの反勢力による不満が高まり、成長した貞時からも見切りをつけられることになった。 正応6年(1293年)4月22日、頼綱とその一族を鎌倉大地震(永仁の大地震)の混乱に乗じて誅殺した(平禅門の乱)。 実権を取り戻した貞時は、父の時代へ回帰することを基本方針として得宗家主導の専制政治を強力に推し進めた。 この時代は、六波羅探題、鎮西探題などの地方統治機構が整備され、幕府の支配体制が確立した時代でもある。 北条一門は朝廷からも特別に処遇され、国政に参与する一族として正式に位置づけされた。 正安3年(1301年)、貞時は出家し、執権職を嫡子高時への中継ぎとして、北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った。 嘉元3年(1305年)4月、内管領の北条宗方によって貞時の命令として連署の北条時村が殺害される事件が起こった。 しかし、貞時は、時村殺害は誤りとして、宗方の陰謀として宗方とその与党を誅殺した 嘉元の乱。 この事件をきっかけに、貞時は政治から遠ざかるようになる。 このような状況下で、嫡子高時を擁した得宗家の被官勢力が再び勢力を伸ばしていった。 1311年(応長元年)10月26日死去。 享年40。 在職: 正和4年(1315年)7月12日~正和5年(1316年)7月9日 期間:1年 出身:極楽寺流 父は普恩寺流の北条時兼。 子に最後の六波羅探題北方となった北条仲時がいる。 正和4年(1315年)7月11日に先代の執権であった北条煕時が病で執権職を辞任したため、執権に就任。 正和5年(1316年)、得宗の北条高時に執権職を譲り、出家。 5日間の激戦の末に極楽寺坂や巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため、この合戦の2週間前に近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように、残り少なくなった部下と共に自害した。 享年48。 在職: 正和5年(1316年)7月10日~正中3年(1326年)2月13日 期間:9年7か月 出身:得宗家 嘉元元年12月2日(1304年1月9日)、北条貞時の三男として生まれる。 応長元年(1311年)、9歳の時に父貞時が死去。 貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕と内管領・長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。 その後、高時まで三代の中継ぎ執権を経て、正和5年(1316年)、14代執権となる。 その頃には長崎高資が権勢を強めていた。 在任中には、諸国での悪党の活動や、奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱などが起きた。 正中元年(1324年)、京都で後醍醐天皇が幕府転覆を計画した正中の変では、倒幕計画は六波羅探題によって未然に防がれ、後醍醐天皇の側近日野資朝を佐渡島に配流し、計画に加担した者も処罰された。 4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。 同月8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。 18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、22日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。 享年30。 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺に祀られている。 在職: 正中3年(1326年)3月16日~同3月26日 期間:11日間 出身:金沢流 父は金沢流の北条顕時。 金沢文庫で有名な北条実時の孫に当たる。 正和4年(1315年)、北条基時が執権になると貞顕も連署に就任。 正和5年(1316年)7月に北条高時が執権就任後は、高時を補佐することになった。 正中3年(1326年)3月、北条高時が執権職を辞職して出家すると、高時の子の邦時成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任する。 だが貞顕の執権就任に反対した勢力により、窮地に立たされた貞顕は10日後の3月26日に執権職を辞職した。 享年56。 在職: 嘉暦元年(1326年)4月24日~元弘3年(1333年)5月18日 期間:7年1か月 出身:赤橋流 鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。 父は赤橋流の北条久時。 室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。 嘉暦元年(1326年)3月、16代執権となる。 しかし実権は、出家していた北条得宗家の北条高時や内管領・長崎高資らに握られていた。 在職期間は幕府滅亡までの7年間にあたる。 5月18日、裏切り者呼ばわりされるのを払拭するため、新田義貞率いる倒幕軍を迎え撃つ先鋒隊として出撃し、激戦を繰り広げるが、洲崎で自刃。 享年39。 鎌倉幕府滅亡後、北条氏の血脈は、赤橋氏出身の登子が生んだ室町幕府二代将軍足利義詮に伝えられていく。

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鎌倉幕府とは?簡単に解説!年号や場所と滅亡の原因と理由についても!

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Contents• とりわけ、元寇後の時代は、北条家の中でも北条氏の嫡流の当主(北条氏一族の家督)を継ぐ一族である「得宗(とくそう)一族」による支配となっていました。 得宗家の権限が強い 得宗専制政治となっており、また得宗の家臣が幕府の政治にも進出して 御家人たちと対立するようになっていました。 有力な御家人が、得宗の家臣に滅ぼされる事件も起こっており、鎌倉幕府の権力は得宗に集中する得宗専制政治が確立していたのです。 御家人たちの不満は高まっていました。 1300年代に入ると、鎌倉幕府では得宗専制政治が更なる広がりを見せます。 幕府な重要な要職• 多くの守護や地頭 が北条氏一族で締められるようになっていました。 なぜなら御家人に対して何ら恩賞を与えることができなかったからです。 鎌倉幕府成立時には、源平の戦いの中で敗者である平家の領地を恩賞として御家人たちにに与えることができました。 また、後鳥羽上皇の「承久の乱」の際も勝利した鎌倉幕府は朝廷の荘園を恩賞とすることができました。 一方、元寇の戦いは防衛戦争だったので、元国に勝利した鎌倉幕府は、戦いに動員した御家人らに恩賞を与えることができなかったのです。 元寇の戦いは御家人の活躍によって何とか勝利できたのですから(神風は吹きましたが)、御家人たちの恩賞に対する期待は大きなものでした。 元寇の戦いにおいては、御家人たちのなかには、土地を借金のカタにお金を融通して元寇に出陣した者もいたのです。 恩賞を貰えずに困った御家人たちのなかには,借金を返せずに土地を失う者もいました。 御家人たちは困窮し、鎌倉幕府への不満が高まっていました。 また得宗専制政治により鎌倉幕府の権力を掌握していた9代目執権北条貞時は、御家人救済のため,1297年に 永仁の徳政令を出します。 御家人には、• 所領の売買や質入れを禁じるとともに• 借金のカタとした所領の無償取り戻しを認めました。 御家人にお金を貸した人にとっては、• お金の貸し損になりました。 その結果として、御家人にお金を貸す人はなくなってしまいます。 永仁の徳政令では、御家人を救済することはできなかったのです。 永仁の徳政令は、結果として、北条氏に対する御家人の不満を高めることになりました。 持明院統と大覚寺統の争い 鎌倉時代の1200年代後半においては、天皇家では「皇位継承」と「荘園の支配権」を巡って、 持明院統と 大覚寺統が争っていました。 持明院統(じみょういんとう)とは、後深草(ごふかくさ)天皇の系統です。 後の北朝です。 光厳天皇(こうごんてんのう)は持明院統でした。 大覚寺統(だいかくじとう)は後深草天皇の弟の系統でした(亀山天皇)。 後の南朝です。 後醍醐天皇は大覚寺統でした。 天皇家は兄弟グループで争っていたのです。 鎌倉幕府(執権北条)による両統迭立の提案 持明院統と大覚寺統の皇位継承について、鎌倉幕府(執権北条氏)は仲裁に入ります。 「両統は交互に皇位に就くように」という両統迭立(りょうとうてつりつ)です。 両統迭立の提案により、朝廷政治をコントロールしようとした鎌倉幕府でしたが、これが大覚寺統の後醍醐天皇の不満を高めてしまいます。 後醍醐天皇は天皇中心の政治を目指すようになります。 1324年の「正中の変(しょうちゅうのへん )」• 1331年の「元弘の変(げんこうのへん)」 2つの計画はいずれも失敗に終わってしまい、後醍醐天皇は隠岐(おき)に島流しされてしまいます。 鎌倉幕府は、大覚寺統に対抗する持明院統の光厳天皇(こうごんてんのう)を即位させますが、これが後醍醐天皇側の勢力の反感を買いました。 承久の乱の後、新補地頭に任命されたものは東国の御家人であったため、多くの西国の武士たちは所領を失い没落していたのです。 没落した西国武士たちは、• 商業に手を出す者• 地頭の代官になる者• 荘園領主から年貢を請け負う者• 高利貸しを行う者• 山賊や海賊になる者 など多様でした。 御家人の東国武士とは異なる行動をする西国武士は、悪党と呼ばれました。 悪党は荘園領主や鎌倉幕府と対立することが多かったのですが、朝廷や寺院と結びつきを持つ者も多かったのです。 このように、鎌倉幕府の反対勢力である「悪党」たちが力をつけていたのです。 悪党の代表格としては「楠木正成(くすのきまさしげ)」を挙げることができます。 1333年の鎌倉幕府滅亡に向かって 得宗専制政治を押し進める執権北条一族に対しては不満を持つものが多く、倒幕の機会を伺うものたちは多かったのです。 鎌倉幕府に逆らう者としては、• 後醍醐天皇• 西国の反幕府勢力である悪党(源平の騒乱から承久の乱の間で没落した者たち)• 鎌倉幕府の御家人たち(足利高氏など) などだったのです。

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鎌倉幕府歴代執権

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鎌倉幕府の歴史 (鎌倉幕府を開いた源頼朝 出典:) 約 150年続いた鎌倉幕府の時代。 まずは、その歴史をおさらいしてみましょう。 平氏との戦いに勝利した 源頼朝は、全国に守護・地頭を設置しました。 そのため、近年では鎌倉幕府の成立年は 1185年説が有力になっています。 1192年(建久 3)には、源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府は正式に成立しました。 鎌倉幕府では、全国の御家人(武士)と幕府の間には 「御恩と奉公」の関係から成る 「封建制度」が設けられました。 御家人は幕府のために戦い、幕府は御家人に恩賞(褒美)として土地を与えるという関係にあったのです。 その後、頼朝の息子・源頼家が 2代将軍になりますが、頼家はこのとき 18歳という若さのため、頼朝の妻・北条政子の 北条氏が代わりに政治をすることになりました。 その北条氏とうまく関係を築けず、病を患ってしまった頼家は将軍の座から降ろされ、 3代将軍に源実朝が就任しました。 北条時政はこのとき、実朝の補佐役として 「執権」という職に就きます。 こうして幕府で力を持った北条氏でしたが、それを良く思わない御家人との争いも起きました。 3代将軍実朝は暗殺され、源頼朝の直系の子孫はいなくなり、結局、源氏の将軍は 3代で終わってしまいます。 困った幕府は、頼朝の遠い親戚にあたる幼い藤原頼経を新しい将軍にし、政治の実権は執権の北条氏が握ることになりました。 これを 「元寇」といいます。 1274年(文永 11)の 「文永の役」と 1281年(弘安 4)の 「弘安の役」という 2度にわたる元寇を無事に退くことができた幕府は、九州の御家人への支配も強めました。 1285年(弘安8)に、有力御家人の安達泰盛と北条氏得宗家に仕えていた平頼綱の間で 「霜月騒動」という対立が起きます。 この霜月騒動で、北条氏と対立する御家人は一掃されてしまい、北条氏の宗家である北条得宗家による 「得宗専制」という独裁的な政治体制が出来上がりました。 鎌倉幕府の滅亡 北条得宗家による独裁的な政治は続きましたが、その権力にあぐらをかいて、仕事を真面目にしなくなり、将軍と同じように幕府のお飾りのような存在に成り下がってしまいました。 (後醍醐天皇 出典:Wikipedia) 後醍醐天皇は「武士ではなく天皇が政治を行っていた時代のようにしよう」と、倒幕の計画をします。 この倒幕計画に多くの御家人も参加しますが、幕府に計画が知られてしまい、後醍醐天皇の側近の公家が処罰されてしまいました。 これを 「正中の変」といいます。 後醍醐天皇は諦めず、再び倒幕計画を企てます。 しかしこれもまた実行する前に幕府に知られてしまい、今度は後醍醐天皇が隠岐島へ流されてしまいました。 これを 「正弘の変」といいます。 しかし、得宗専制に不満を持つのは後醍醐天皇だけではなかったのです。 楠木正成や赤松則村など、各地で「悪党」と呼ばれる武士が、幕府を倒そうと兵をあげました。 すると幕府側にいた 足利尊氏は幕府を裏切り、倒幕側に味方したのです。 (足利尊氏 出典:Wikipedia) こうして、足利尊氏や赤松則村などによって京都の六波羅探題は攻め落とされます。 さらに、幕府を倒すために兵を挙げた 新田義貞は、北条氏がいる鎌倉に攻め入り、後がなくなった北条氏は東勝寺で自害しました。 これを 「東勝寺合戦」といいます。 (新田義貞 出典:Wikipedia) 北条氏が滅亡したことにより、鎌倉幕府も終わりを迎えました。 鎌倉幕府が滅亡した理由 最後は天皇と御家人に追い詰められて北条氏が滅亡したことで、約 150年続いた鎌倉幕府も終わりを迎えました。 御家人は幕府のために戦い、その代わり、幕府は御家人に恩賞として土地を与えるという関係です。 モンゴル帝国が日本に侵攻してきた「元寇」で日本は勝利しましたが、その後、恩賞の不足に幕府は頭を悩ませました。 戦いが起きたら、負けた方の土地を奪い、その土地を勝った御家人に分け与えればいいのですが、元寇では、戦いに勝利はしたものの、幕府が得た土地はありません。 そのため、元寇で活躍した御家人たちに、幕府は十分な恩賞を与えることができませんでした。 これにより、御家人の幕府に対する不満は高まったといいます。 領地を子供(女子も含む)がいる分、均等に分割して与えるということです。 しかし、これだと公平ではありますが、領地が細かくなりすぎて、領地の価値が低くなってしまいます。 また、分割相続を繰り返せば、子孫がもらえる領地はどんどん小さくなってしまいます。 こうして御家人の生活が苦しくなってきたのに加えて、元寇で恩賞はもらえず、兵を挙げる費用だけを負うことになり、御家人は借金などに苦しむことになりました。 そして、その原因を作っている幕府に対して、不満が高まっていったのです。 幕府もこの状況を受け止め 「永仁の徳政令」という、御家人の借金を帳消しにする徳政令を出しました。 しかし、この徳政令の効果は薄く、御家人の幕府に対する不満は高まる一方でした。 また、新田義貞も多くの関東の御家人から支持を集めて幕府と戦いました。 幕府に対する高い不満により、北条氏は自分の窮地を救う仲間を失ってしまったのです。 鎌倉幕府の滅亡後 1333年(元弘 3)、鎌倉幕府が滅亡したのち、世の中はどう変わったのでしょうか。 建武の新政は天皇中心の政治で、武士よりも公家(貴族)を大切にした政治でした。 そのため、武士の間で不満が高まりました。 1336年(建武 3)、足利尊氏は後醍醐天皇のいる京都へ攻め込み、戦いを制したことで、建武の新政はわずか 2年半ほどで終わりを迎えてしまいました。 戦いに勝った尊氏は公明天皇を即位させましたが、逃げ伸びた後醍醐天皇は奈良の吉野に朝廷を置きました。 尊氏の京都の朝廷を「北朝」、後醍醐天皇の奈良の朝廷を「南朝」とよび、二つの朝廷が約 60年間対立していた時代を 「南北朝時代」といいます。 北朝の足利尊氏は 1338年(暦応元)、征夷大将軍に任命され、 室町幕府が成立しました。 まとめ.

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