なん じ ぇ い 巨人。 [B! コンビニ] なんJ PRIDE : 【野球】山口鉄也が巨人に入る前の経歴凄すぎwwwww

【進撃の巨人】今更だけど実写版映画を見た感想「なんだこれは?!」

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[B! 名言] 【迷言】巨人原監督が選手に浴びせた名言wwwwwwwwww(なんJには)与えられねーわ@なんJまとめ

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進撃の巨人 21巻 かつてエルディア人の開祖であるユミルは「大地の悪魔」と契約。 そして大地の悪魔から「巨人の力」という強大な力を手に入れ、ユミルは世界を支配した。 その後、 ユミルは死後に自ら手に入れた巨人の力を九つの魂に分解し、9人のエルディアの子孫たちに分け与えた。 これこそが後に「九つの巨人」と呼ばれる能力。 ついには古代の大国マーレすらも滅ぼした。 まさに名実ともにエルディア人たちは人類の頂点に立てたのも、この「九つの巨人」のチカラがあってこそ。 しかし1700年近くの時間が経過した時、エルディア帝国は弱体化。 そこで 100年前に「九つの巨人」の力を巡って巨人大戦が勃発。 かつて栄華を誇りエルディアに虐げられたマーレ国は、その間隙を縫って9つのうち7つの巨人の力を手に入れて覇権奪回を図る。 結果、エルディア帝国のフリッツ王は残された2つの巨人の力を手に、パラディ島に逃げ込んだ。 この パラディ島こそが『進撃の巨人』の序盤の物語の舞台であり、主人公・エレンやミカサたちが住んでいた場所だった。 そして世界は再びマーレが支配するようになり、一転してエルディア人の子孫たちは迫害される立場となる。 ただしフリッツ王が未だに持つ「始祖の巨人」の力は、全ての巨人を操ることができるため非常に強力。 そこでマーレ国は残された巨人のチカラも奪おうと画策。 「9つの巨人」の力はエルディア人の血を引くものしか使えないため、マーレ国はエルディア人のジークやライナーたちをパラディ島にスパイとして送り込む。 ただし厳密な歴史はフリッツ王は負けて逃げたのではなく、意図的にマーレ国が勝ったかのように見せかけただけなんですが、これ以上長々と世界観をネタバレしても本題からズレるので割愛。 『進撃の巨人』のコミックを読んで下さい。 まさに 「九つの巨人」のチカラは世界の覇権争いの鍵を握ると言っていい強大なチカラ。 ということで長々と解説しましたが、今現在の所有者だれなのかも含めて「九つの巨人(9つの巨人)」について詳しく解説したいと思います。 超大型巨人…9つの巨人 (進撃の巨人20巻 諫山創/講談社) まず最初の 九つの巨人は「超大型巨人」。 九つの巨人の中で、最も体のサイズが大きい巨人。 画像だと右足に主人公・エレンがぶら下がっていますが、コチラも巨人。 それだけいかに巨躯か体感できるはず。 超大型巨人は『進撃の巨人』1巻1話目から登場。 前述のように主人公・エレンたち人類を最初に襲ってきた巨人であり、マーレ国からのスパイだから。 この超大型巨人の特徴は体の大きさだけではなく、 巨人化時に周囲に熱風を放つことも大きな武器となる。 場合によっては爆発に近い威力を発揮することも可能であり、その威力たるや軽く街が吹き飛ぶレベル。 超大型巨人は意外と近接戦闘には弱いかと思いきや、いざとなれば爆風で防げるチート仕様を持つ。 そのためマーレ国内で超大型巨人は「破壊の神」と称されるほど。 ただし 超大型巨人は他の九つの巨人よりも消耗が激しいため、基本的に長期戦には向いておらず一撃必殺に特化してると言えるでしょう。 九つの巨人の中でも超大型巨人と同様に、読者の印象に残っている九つの巨人の一つ。 何故なら前述の超大型巨人と同様に、壁(ウォール・マリア)をぶち破って最初に襲ってきた巨人(マーレ国のスパイ)だから。 鎧の巨人は全身を硬質化することができ、まさにその名の通り「鎧をまとった」かのように防御力の高さを誇る。 まさにメタルキング並みであり、鎧の巨人に対して誰も容易にダメージを与えることはできない。 また 全身を硬質化させた攻撃は極厚の岩の壁すら破壊するほど強烈であり、鎧の巨人のタックルは軽くバズーカ砲を超える。 実は攻守共に優れているため厄介。 ただし同じく硬質化された巨人の攻撃を受けるとダメージは食らうため、9つの巨人の所有者側には忍耐力なりが求められる。 鎧の巨人の所有者はライナー 進撃の巨人8巻 諫山創/講談社 続いての九つの巨人は「 女型(めがた)の巨人」。 この女型の巨人の登場から「巨人にも意思」があり、もしかすると「巨人化した人間が複数いるのではないか?」という疑惑が持ち上がる。 名前の通り女性型の巨人ではあるものの、 九つの巨人の中で一番汎用性が高い巨人とされています。 女型の巨人は巨人化できる時間が比較的長く、そして肉体の可動範囲が広いため機動力にも優れる。 さながら人間のように動ける女型の巨人は、アニのような格闘センスに優れた人間に所有権が継承されると相性がピッタリ。 前述のライナーほど強固ではないものの部分的に硬質化できるため、 蹴りやパンチといった打撃技と組み合わせることでまさに破壊的な攻撃力を誇る。 また 「無垢の巨人」を範囲は限られているが操ることも可能など、あらゆる作戦遂行上において女型の巨人は使い勝手が良い。 見た目が猿なので、いつも「猿の巨人」と言い間違えてしまうのは自分だけ? 獣の巨人は猿のよう手足が長く、手先も器用。 そのため 野球のピッチャーや砲丸選手のように岩などを投擲することが可能。 その威力たるや、まさに砲弾の嵐。 他の9つの巨人が不得手とする 長距離戦でも対応できる珍しいタイプ。 そして「獣の巨人」は見た目とは反して、九つの巨人の中では珍しく「流暢にしゃべる」ことが可能。 また 自身の脊髄液を注入した「無垢の巨人」を叫ぶことで思い通りに動かせるのも特徴。 しかも普段であれば夜は動きが鈍くなる巨人でも、月さえ出ていれば夜でも無垢の巨人を動かせるため戦力をいとも簡単に強化することもできる。 先程の女型の巨人もそうですが、九つの巨人では意外と「叫び」が重要な能力。 獣の巨人は大きさも17メートルサイズと割りと大きいなど、九つの巨人の中ではオールラウンダー的に最強と言えそう。 『進撃の巨人』マーレ編でも引き続き所有権はジーク。 ジークは主人公・エレンの異母兄弟であり、グリシャの息子。 父親などのエルディア人を裏切って、マーレ側に寝返って戦士長まで上り詰めた過去を持つ。 ある意味、究極の現実主義者なのかも知れない。 車力の巨人…9つの巨人 (進撃の巨人23巻 講談社) 「車力の巨人」 の所有者はピーク。 『進撃の巨人』の序盤(パラディ島編)では一切登場してませんでしたが、おそらくジークやライナーと一緒にパラディ島に侵入していたはず。 そのため一枚目の画像もピークの姿と考察されます。 つまり今まで『進撃の巨人』連載中における数年単位の時間軸では、まだ車力の巨人の能力が誰かに所有権は移ったことはないはず。 始祖の巨人…9つの巨人 続いての九つの巨人は「 始祖(しそ)の巨人」。 「九つの巨人」の中で一番重要な巨人。 何故ならマーレ国の人間からは「座標」や「叫び」と呼ばれ、おそらく範囲を問わず無垢な巨人たちをあらゆるレベルで操作できる能力だから。 大量の無垢な巨人を操作できるため、九つの巨人の中でも最強とすら評価可能。 また大量の無垢の巨人たちを硬質化させることで、巨大な壁を一度に一気に建設することも可能。 他にも同じエルディア人同士であれば「記憶の改竄」も可能となる。 「」という考察記事もあとで読んでみてください。 つまり冒頭でフリッツ王がパラディ島に逃げ込んだと説明しましたが、 「始祖の巨人」の力でウォールマリアやウォールローゼが建設されている。 そして「始祖の巨人」はレイス家に代々受け継がれ、過去100年の間壁内を統治していたチカラ。 『進撃の巨人』のストーリーの核としては、まさに「始祖の巨人」のチカラを誰が奪うかが重要になってくる。 漫画タイトルそのものの9つの巨人ですが、主人公・エレンが『進撃の巨人』の割と序盤から所有していた能力。 画像はマーレ国内のスパイ・フクロウ(クルーガー)からエレンの父・グリシャに継承される場面。 グリシャはマーレ国からパラディ島に流刑されるものの、「進撃の巨人」の力を得たことで生き延びる。 その後、グリシャはパラディ島新たな家庭を持ち、エレンを産み育てる。 しかしライナーやベルトルトが襲来したため、エレンに「進撃の巨人」の力を継承した。 つまり進撃の巨人の所有者はエレン。 一定の硬質化ができたり身体能力が高かったり、9つの巨人の中では割りと欠点が少ないタイプっぽい。 ただし前述のように 主人公・エレンは「始祖の巨人」も同時に所有している可能性が高い。 これはどういうことなのか? そこでネット上では 「進撃の巨人」は「複数の巨人のチカラを使用できる能力」ではないかと考察されています。 中には「九つの巨人を統一できる能力」という説もあります。 ただ獣と女型が一緒に発動したら、見た目的に偉いことになりそうですが(笑) 戦鎚の巨人…九つの巨人 九つの巨人の最後は「 戦鎚(せんつい)の巨人」。 ちなみに細かい部分ですが「戦槌」ではなく「戦鎚」のため注意しましょう。 木偏ではなく金偏。 (進撃の巨人102話 諫山創/講談社) 戦鎚の巨人が持つ 能力はまさに「ハンマー」。 めちゃめちゃ長いハンマーを振り回して攻撃してくる。 柄の部分が長いからこそ、遠心力がもたらす破壊力が抜群。 獣の巨人ほどではないにしても、遠距離攻撃にも対応できるのが魅力。 ただ戦鎚の巨人の能力は厳密に言うと「 土や岩を変形させる能力」に近く、その力を使ってハンマーそのものを急造しているっぽい。 そのため『鋼の錬金術師』のように、戦鎚の巨人は大地をいとも簡単に変形させることが可能。 地理的条件を有利に進めたり、相手の動きを奪うことも可能。 先程の9つの巨人・車力の巨人は用途に合わせてあらかじめ兵装できるメリットはあったものの、この戦鎚の巨人は自力でその場に応じて様々に武装化できるメリットがありそう。

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清原和博

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この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2016年5月) 実家は電器店()を経営。 父()以外の家族はファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育った。 に巨人はにV10を阻止され、翌1975年は球団史上初のリーグ最下位に転落。 家族が応援する巨人が2年連続で優勝を逃したことが、野球の世界に入っていくきっかけの1つであった。 1974年、に入学。 ここで野球を始めたが、当初は、木の棒で石ころを打ち返すという程度でしかなく、1976年5月、岸和田リトルリーグの部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団。 なお、小学3年生でありながら、すでに身長が155cmあったとのこと。 毎日祖父から100円を貰い練習をしていた。 1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。 投手としても才能を発揮した。 この頃、との対戦もあった。 その後、に進学すると共に、岸和田シニアリーグに移り、中学2年生にしてキャプテンとして関西シニアで優勝を果たす。 高校時代 [ ] 高校は30校近いスカウトの中からを選ぶ。 かPL学園かどちらに行くかで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、毎年100人前後の部員を抱える天理高では3年生が練習をしている際に1年生が球拾いをしているのに対し、少数精鋭をとるPL学園では学年に関係なく同じメニューの練習ができることが決め手となった。 また、清原の母親が奈良県出身で地元の強豪の天理で甲子園に行ってほしいと幼少のころから言われていて、本人もそのつもりだったが、後にPL学園の在阪スカウトの方から「小学生時代から目をつけていた。 ぜひPLの練習を見に来てほしい」と熱心に勧誘され、心が揺らいだとも語っている。 早くから1年生では田口権一と共にレギュラー組に選ばれていたが、6月ぐらいに(入学当初から希望していた)投手の練習はもうしなくていいと言われた。 その後、後に親友となる同期のの傑出した実力を知り、「桑田には絶対勝てない」と野手を選んだ(新入部員が最初に集まった際に、桑田を探しその姿を発見すると「なんだ、こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと後にコメントしている)。 当時はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが 、それでもネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために 、清原用の金網が継ぎ足されたという逸話が残っている。 このネットは「清原ネット」と呼ばれていた。 全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番に座り 、エース桑田と共にに5季連続出場を果たす。 1年生のに優勝、2年生の・は共に準優勝、3年生のはベスト4、3年生のは2度目の優勝を経験している。 特に清原と桑田はと呼ばれ、後にはと呼ばれるようになるこの世代を代表する人物となった。 後にプロ入りした、、も、共に活躍した。 個人としてもを放つなど(での記録を更新 )、高校通算64を記録。 3年夏の決勝戦でこの試合2本目、当時の1大会での 新記録となる5号 を放った際 、は「甲子園は清原のためにあるのか! 」と実況した。 3年生春の対戦 と同年夏の(共に大量得点差のついた最終回)では監督のに懇願し、投手として登板させてもらった。 しかし、その初球にカーブを投じたことに対し、同試合の球審を務めていたから「真ん中、まっすぐ放りなさい! 」と指導されるエピソードが残されている。 豪快な本塁打など、試合での活躍が多くの伝説を生んだが、練習に対する姿勢も真摯であった。 そのエピソードとして、3年春のセンバツ準決勝でに3三振と完璧に抑えられ、チームも3-1で敗れた際は試合後ベンチで涙を流したが(高校三年間で唯一甲子園大会の決勝に進むことができなかった)、その日学校に戻ってからの夜、監督の中村が誰もいないはずの室内練習場に明かりがついているのを見つけて中をのぞいてみると、上半身裸の清原が、湯気のような汗を流しながら一人で黙々とバッティング練習をしていたといい、夏の大会では宇部商(山口)とぶつかった決勝での2打席連続を含む大会新記録の5本塁打と爆発し、1年生のとき以来、2年ぶりの頂点をつかみ、その悔しさをはらしたとのこと。 子供の頃から熱烈な巨人ファンで、でのをいつも楽しみにしていた清原は、父親以外全員がファンであるもしくは、父親がファンである入りを熱望し、両軍が自身への交渉権を逃した場合には、次のドラフトまでにで野球をする事を表明していた。 しかし巨人は進学を表明していた桑田をドラフト1位で強行指名。 当の清原は、、、、、阪神の6球団から1位指名を受けた。 抽選の結果、西武が交渉権を獲得。 ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された()。 後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。 男らしく諦めなさい。 男なら見返してやりなさい。 泣いてる暇なんてないはずやで! 」と言い聞かせ、巨人を見返すために日本生命硬式野球部の内定を断り、プロ入りを決断。 西武時代 [ ] 西武ライオンズ在籍当時、川崎球場での清原和博 清原はそのまま西武に入団、背番号は3。 ルーキーイヤーの、オープン戦ではプロの洗礼を受け本塁打を1本も打てないまま開幕を迎えるが、打撃フォームの修正を重ね、開幕2戦目(4月5日)の戦の6回表から一塁の守備につき途中出場でプロ公式戦デビューすると、第1打席では、第2打席にはからプロ初打点・初安打かつ、初本塁打を打つ。 試合は2対4で負けたが、個人的な活躍から、なおも大喜びしていたため、「味方の負け試合でそんなに天真爛漫に喜ぶやつがあるか」と怒られてしまったという。 打たれた藤本は試合後のインタビューで、「本塁打よりもその前の打席で誘い球にも手を出さず、ベテランのようにきっちり四球を選んだことのほうが驚きだった」という内容の言葉を残している(清原はこのことを自著で「自分たちのチーム(南海)が優勢で浮かれていたろうし、なにより自分を新人だと思って手を抜いていただけ。 だから単調で読みやすかった」と語っている)。 その後は4月8日に8番で初スタメン出場を果たすと以後はスタメンに定着。 徐々に打順を上げ、5月27日には早くも5番を任されることとなった。 前半戦を打率. 252、11本塁打で折り返し、にはファン投票で1位選出された。 高卒新人がオールスターに出場したのはの()、の()、の(近鉄)に次ぐ史上4人目だったが、清原はその中で初めて安打、本塁打を放った選手となった(第1戦で安打、第2戦で本塁打)。 第2戦ではMVPを獲得している。 後半戦だけで20本塁打をマークし、9月には高卒新人初となるを受賞した。 同年のチームは調子が上がらず、前半戦は下位を低迷していたものの、清原が調子を上げるのに合わせてチームの成績も上がり、バファローズと激しい優勝争いを演じた。 9月27日の近鉄戦では初回に28号を放ちの高卒新人本塁打記録を33年ぶりに更新すると、8回にも29号を放ち、のルーキーシーズンの記録に並んだ。 10月7日のロッテ戦で初の4番に抜擢され、その試合で1点ビハインドの6回、から高卒新人史上最多の31本目の本塁打を放って1959年のに並ぶ新人本塁打記録の最多タイ記録を達成。 桑田は達成時は23歳、清原は19歳であった。 同点で迎えた7回には二死二塁の場面でプロ初のも経験した。 10月9日、2安打1打点で勝利に貢献し、チームの優勝が決定。 当時はシーズン130試合制だが、129試合目まで争いがもつれた。 この時点で打率. 301であったが、翌日のシーズン最終戦では森監督が清原に出場するかどうかの打診をし、清原は「出ます」と出場して3安打を放って打率を. 304まで伸ばした。 1986年シーズンは本塁打31の他、. 304及び78も1955年・榎本の打率. 298・67打点を更新する高卒新人の歴代最高記録を残し、新人選手の二桁本塁打は27年ぶり、5人目の快挙であり、に選出された。 同年のには8試合全てに4番・一塁でフル出場を果たし、初戦で自打球を左足に当てて親指を骨折するというアクシデントに見舞われたものの、打率. 355(31打数11安打)でシリーズ首位打者および最多安打を記録して、チームの日本一に貢献。 シリーズ優秀選手賞を獲得した。 この年はを獲った「」の代表として、、と表彰式に出席した。 は打率. 259と下がり、に陥る形となったが29本塁打を放つなど長打力は健在で打点は前年を上回った。 また三振数も100を割った。 では、監督率いる巨人と対戦。 西武3勝と王手をかけていた第6戦では、清原の先制2ラン本塁打などで3対1とリードし、9回ツーアウトになった時、一塁の守備についていた時に涙を流し、試合が一時中断となった。 清原は自著の中で「9回、ファーストから、三塁ベンチの巨人の選手、王さんの姿が見え、ドラフトのことを思い出し涙が止まらなくなった」と述べており、二塁手のになだめられた。 この試合に先発し9回のマウンドに立っていたは、試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったので)どんなガッツポーズをしようか考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつも、「あの涙は本当に美しかった」と語っていた。 も前年同様全試合出場を果たし、31本塁打をマークし、打率も前年より上げ、タイトルを獲得、リーグ最多の97得点を記録し、リーグ3連覇に貢献。 7月5日の戦ではからプロ入り初となるサヨナラ本塁打を打っている。 中日とのでは第1戦の2回から特大の先制ソロ本塁打、第4戦では5回にから2ラン本塁打、第5戦では6回にからソロ本塁打と3本塁打を打ち、16打席6安打4打点を記録を記録し 、4勝1敗で3年連続日本一、優秀選手賞を受賞した。 6月4日には史上最年少となる21歳9ヶ月での100号本塁打を達成。 しかし、優勝争いの真っ只中の9月23日、対ロッテ戦で、4回にから受けたに怒り、バットを放り投げ乱闘を起こしたとして初の退場処分を受け、パリーグから即日「厳重戒告・制裁金30万円・2日間出場停止」の処分が下された。 このため、前日まで続いていた清原の連続試合出場は490でストップした。 なお、この件は後に、2015年10月11日放送の『』で、改めて謝罪した。 最終成績は35本塁打を放ち、打率. 283を残した。 三振数は60で、これは規定打席に到達した年では自己最少の数字だった。 は打率. 307、37本塁打、94打点をマークした。 37本塁打は自己最多である。 自身2度目の打率3割を達成したが、これ以降は規定打席に到達しての3割は記録できなかったため、規定打席到達の3割は同年が最後だった。 規定打席到達のキャリアハイの打率もこの年である。 巨人とのでは第2戦8回表にからタイムリー、第4戦5回裏にからタイムリーを打ち、チームも4連勝し日本一になった。 オフの契約更改では当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなり、「25歳までに1億円プレイヤーになる」という願望を成し遂げた。 は、開幕7試合で6本塁打と最高のスタートを切るも、そこから35試合・151打席のあいだ本塁打が出ないという極端なスランプに陥り、成績を落とした。 広島とのでは第1戦1回裏にから2ラン、第6戦1回裏から先制タイムリーを打ち、4勝3敗で2年連続日本一。 6月26日には同じく史上最年少となる24歳10か月で200号本塁打を達成。 同年は最高出塁率のタイトルを獲得した。 しかし、では第2戦6回にから2ランを打つも、率いるヤクルトに研究され絶不調に陥り、第4戦から第7戦まで17打席無安打となり、第7戦は途中で守備からベンチに下げられて胴上げの瞬間はベンチで迎えた。 同年は三振数が120となり、5年ぶりに三振数が100を超えた。 清原はこの時の事を度々回想している。 も三振数が100を超えたが、一方でも100を超えるなど選球眼の良さが光った。 四球が100を超えるのは4年ぶりだった。 は右肩を脱臼、安打100本未満に終わったが、自身通算で最高の(出塁率 - 打率)を記録したシーズンとなった。 9月19日での試合でオリックスがリーグ制覇を果たしプロとして初めて相手チームの優勝を見届けてしまい、球団自体も黄金期に終止符を打つ事となる。 は前年より打撃3部門全てを上回った。 打率は. 257と不調だったが8年ぶりに全試合に出場し、4年ぶりに30本塁打以上をマークした。 かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、の監督在任中の9年間でリーグ優勝8度、日本一6度を成し遂げ名選手を多数輩出した「西武黄金時代」の4番に君臨、3番・とのコンビは「」と呼ばれた。 88年はが加わり「AKB砲」となり、89年以降はに代わって「AKD砲」となる。 森は清原の能力と人柄を非常に高く評価しており、西武監督退任時に「清原は年々、野球への考えが進歩してきている」と述べている。 森は清原に対してサインらしいサインはなく基本ノーサインだったという。 当時西武の一軍打撃コーチだったは「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。 ところがオーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。 (森は)毀誉褒貶の激しい人だった」と述べている。 森が2005年に入りしたときは一番に駆けつけて祝辞を述べ、森がハワイに移住後も付き合いが続いている。 日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが、1986年と1988年は優秀選手に、敗戦した1993年と1994年は敢闘賞に選出されている。 引退後、西武時代は毎年自らの年度ごとの通算本塁打数を王のそれと比較していたと語った。 清原本人も自分は恵まれすぎていると自認していたが、それだけにジレンマを感じていた事とFAの資格を得て、憧れていた巨人への移籍が可能になったことから、オフにFA宣言。 巨人と阪神が獲得に名乗りを上げた。 巨人時代 [ ] 清原はFA宣言した際に、阪神監督・の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」 、巨人監督・の「僕の胸に飛び込んできなさい」という2つの口説き文句が話題となった。 5年契約で念願の巨人に移籍し、背番号は長嶋が自らの3を譲る考えも明らかにしたが、「5」に決定(ただし、阪神との契約では提示された契約金は阪神の方が3倍近く高く、契約年数も巨人の倍であり、引退後の身の振り方を踏まえ、それを弁護士を通したうえでの契約という完全な好待遇であったと「男道」で述べている [ ]。 当時阪神で背番号3をつけていたも清原加入の際は同番号を譲る意思を表明していた)。 なお、清原加入により巨人の一塁を守っていた当時43歳のが出場機会を求め日本ハムに移籍。 巨人退団会見にて落合は「清原君と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む長嶋監督の顔は見たくない」と落合の自著「不敗人生」で記述している [ ]。 3番・とのコンビは「」と呼ばれた。 後にが加わり「MKT砲」となった後、2003年シーズン以降は清原と高橋の「KT砲」となる。 は開幕から4番を務め、開幕3試合目に移籍第一号となる本塁打を放ったものの、シーズンを通じて阪神の4番・と三振数を争い、当時のリーグ新記録152三振を記録 (桧山は150三振) し、一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。 最終的には打率. 249、32本塁打、95打点の成績で、本塁打、打点は前年よりも上回り巨人の右打者での30本以上の本塁打は1988年の以来であり、90打点以上も1987年の原以来の達成である。 これが清原にとって30本塁打を超えた最後の年であった。 しかし、勝負どころで相手チームが松井秀喜を敬遠、清原勝負を選択、清原が凡退した結果敗戦した試合も度々あり、清原のエンジンがかかり始めたのも優勝争いから脱落してからであった。 巨人はこの年、優勝戦線から早々に離脱し、清原自身プロ入り初のBクラスでシーズンを終えた。 は前年の反省から、長年のからの大幅な打撃フォーム改造を敢行した。 セ・リーグの厳しいインコース攻めに対応するため、より最短距離で球を捉えようと、これまで垂直気味に立てていたバットを寝かせ、グリップも一握り余すなどプライドを捨ててまで清原は再起に懸けていた。 そうして3番清原、4番松井で始まったシーズン当初、膝の故障もあって不振に苦しむ松井とは対照的に、清原は打撃改造の甲斐あって絶好調。 4月は広島のを抑え月間首位打者で終えるなど順調なスタートを切り、4番の座を松井から奪い取った。 しかし、左太腿肉離れなど故障もあって次第に調子を落としていった。 最終的に同年シーズンは100試合近く4番を打ち打率. 268、23本塁打、80打点と打撃成績の数値上では前年度より落としたが、三振数は前年の半分以下に抑えた成績を残し、の12年連続を上回り、プロ入りから13年連続20本塁打の日本記録を達成した。 一方、この年以降は常に下半身の故障に悩まされることになった。 は開幕から怪我に悩まされ、のからので左手を亀裂骨折。 更に6月には広島戦でクロスプレーの際に右足を負傷。 出場試合数は86試合、成績は. 236、13本塁打、46打点とプロ入り後最低の数字にとどまり、前年までの「連続20本塁打記録」は13年で途切れた 尚この年の8月24日の対横浜戦にて、公式戦としては1991年の10月10日対ダイエーホークス戦以来の三塁手として先発出場し、年間で11試合の三塁手先発出場は、1990年に並ぶ試合数であった。 しかも右足の負傷は膝側副断裂という重症であった。 いよいよ土俵際となった清原はオフに鹿児島・最福寺にて護摩行を行った後、アメリカに飛び筋力トレーニング(「肉体改造」)に励む(詳細は後述)。 この年には、96年のオフに暴力団員と賭けゴルフをしていたことが報じられており、この時の騒動が後の薬物事件に繋がったという声も逮捕時に上がっている。 もキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。 その際、巨人のオーナーであったには「(清原が一軍にいないことで)勝利要因が増えたな」とまで言われた。 前年から清原離脱の際に一塁に入っていたがこの年も活躍していて清原も崖っぷちに立たされていたが、7月7日の復帰後初打席で代打三点本塁打を放ち復活をアピール。 7月12日、当時毎年開催していた「札幌シリーズ」()では先発メンバー入りし、場外本塁打でプロ入り通算400号本塁打を達成。 夏場にはレギュラーの座に返り咲き、75試合の出場で. 296、16本塁打を記録。 チームも清原移籍後初優勝し、も制覇した。 この年、モデルのと結婚している。 また、この頃ようやく禁煙に踏み切った。 は5年契約の最終年であり、これまでの成績から契約更新は絶望的であるといわれていたが、開幕から大きな怪我をすることなく打ち続け、特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをするなど、打率. 298、29本塁打、121打点と巨人入団以降では自己最高の好成績を残し(打点においては自身初の100点超えの自己最高)、年俸大幅アップと4年契約を勝ち得た。 も開幕から好調であったが、故障のため戦線離脱。 8月23日には長男が誕生した。 シーズン終盤には復帰し55試合出場に終わるが、打率. 318、12本塁打と一定の成績は残した。 この年の開幕第2戦(巨人-阪神:東京ドーム)で400号本塁打達成時に目標にしていた尊敬する長嶋の現役通算本塁打数「444」本に並ぶ。 またそれは試合当日、解説を担当していた長嶋の目の前で放った。 故障を押して出場したでは古巣の西武と対戦。 第1戦にから2ラン本塁打、第3戦では1点ビハインドの2回にから同点本塁打を放つなど計2本塁打を放ち、日本一に貢献し、西武時代だった1988年以来、14年ぶりに優秀選手賞に選出。 清原自身はこれ以降はリーグ優勝も日本一も経験していないため、この年が自身にとって最後のリーグ優勝と日本一となった。 また、張からの本塁打が日本シリーズ最後の本塁打となった。 は前年オフに松井移籍数日後、燦々会の会合で原監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率. 290、26本塁打を記録。 5月18日の対阪神戦でとから本塁打を放ちを抜いて本塁打を打った投手が185人でトップに立つなど記録を作ったが、シーズン後半にはが4番を打つことが多くなり、(ただし、ペタジーニも規定打席不足)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。 またこの年以降100試合出場がなかったため、2003年が最後の100試合出場となった。 なお、7月5日PLの2年後輩で中日のが先輩清原に先んじて通算2000本安打をドームの巨人戦で達成、その際一塁守備に就いていた清原が花束贈呈し、祝福した。 はペタジーニとの併用で出場試合数が減少。 史上31人目、巨人の選手では落合以来6人目の2000本安打を達成する が、6月に死球を受けて骨折して長期離脱した影響もあり、40試合の出場に終わり、打率. 228、12本塁打、27打点と低迷。 この年の安打数は23本で安打数の半分強が本塁打で27打点だったことから打点の大部分が本塁打によるもので、確実性に欠けるシーズンとなった。 シーズン終了後には監督の戦力構想から外れたことが判明し、退団の危機に陥ったが 、新オーナーに「編成権は監督にあるのか、フロントにあるのか」と直談判、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。 なお清原自身はこの直談判について、(当時は球団には関わってなかった)を通して構想外を通告してきたことに困惑し、球団から直接話して欲しかったことを最大の理由に挙げている。 残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。 この年の秋には、後述するオリックスやセ・リーグのあるチーム(交換相手は投手)から巨人にトレードが打診され、オーナー辞任直後の渡邉恒雄が特に清原放出に積極的だったが、これらは成立しなかった。 は400m日本記録保持者、コーチのから走法の指導を受け、下半身の強化に努めた。 また、ダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。 これは一般にメジャーリーガーであり、尊敬してやまないにあやかったと受け取られていたが、実際には後に自らの著書「男道」や「告白」で「巨人軍に契約交渉の席で煮え湯を飲まされ、その悔しさを忘れないために刺青の代わりにつけた」と述べている。 このピアスに関しては巨人OBをはじめ、他球団のOBからも評判は悪く、など苦言を呈す野球関係者も多かった。 なお、元来巨人は「紳士たれ」という姿勢でいるため、茶髪、ひげ、ピアスなどは基本的に禁止であったが、当時の監督であった堀内もキャンプでは無精ひげを生やし「お山の大将同士の冷戦」と揶揄された。 それでもこの年開幕4番を任され、4月14日の阪神戦でから本塁打を放ち、本塁打を打った投手の人数が200人に到達(史上初)した。 での阪神戦でとの対戦時に、藤川が追い込んだ後フォークを投げてきて三振したため品のない発言をした事で問題になった。 4月29日の対戦()でから本塁打を打ち、史上8人目の通算500本塁打を達成。 その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時は. 269まで上昇、にも出場し、本塁打を放った。 しかし、チームは相反する様に開幕からなかなか勝てない日々が続き、清原自身も交流戦の対オリックス戦でから頭部への死球を受け、下半身の故障なども重なって成績は徐々に低迷した。 この時、清原は山口に対して直接忠告したが、翌年にチームメイトになった際に山口から直接謝罪を清原に対して行った際に、清原はこれを受け入れ、「あれは事故だ」と山口にコメントした上で許していた。 そこへ堀内との確執が表面化した問題が起こった。 ケガから復帰した8月4日の対広島戦では、4回表に本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した後、ベンチで堀内やコーチ、選手とのハイタッチを拒否する。 7番打者で起用されたことに激怒したとされている。 なお、この本塁打が巨人時代最後の本塁打となった(先述した大怪我から最前線に立てる状況ではなく、球団も配慮をしての対応だったが、清原の打者としてのプライドから認めることができなかったとされる )。 結局この年はに並ぶ入団以来20年連続2桁本塁打、2年ぶりの20本塁打以上を記録し、前年よりも出場機会を増やし96試合に出場するも、打撃が本塁打一発狙いが多い結果打率は自己最低となる. 212と清原自身も満足な結果とはならなかった。 結局は左膝半月板損傷の怪我と、前述のハイタッチ拒否事件で自ら孤立したため 、シーズン終了を待たずに球団からを受け、12月2日に正式に選手として公示された。 清原の巨人時代はマスコミや野球ファンからは否定的な意味で語られることが多く、在籍中には様々なバッシングに晒され続けたものの「巨人に入団して後悔しているか」との質問に対しては「NO」と即答しており「様々な感情が入り混じっているけれども、それらをひっくるめて人生の中で充実した9年間だった」「巨人に対して感謝している」と後に語っている。 その一方で同年監督を辞任した堀内はで [ ]「清原は野球に向かない。 団体競技である野球に進んだのが間違い」と批判していた。 また、清原も後にイベントなどで何度も堀内を批判している。 なお、両者の確執は堀内がコーチ時代からあったという。 巨人時代は規定打席に到達したのは1997年、1998年、2001年の3回だけで、巨人では規定打席に到達しての3割は記録できなかった。 また、100試合出場は前述の規定打席到達年の他、2003年の計4回しかなかった。 また巨人入団後の優勝経験も2000年と2002年の2回しかなかったが、いずれも日本一となっている。 オリックス時代 [ ] 巨人から戦力外通告を受けた2004年シーズン終了後のある日、オリックス・バファローズのシニアアドバイザーであるから電話がかかり、「大阪に帰って来い。 お前の最後の花道は俺が作ってやる」との口説き文句を言われるなど、何度も説得され、オリックス入団を決意した。 仰木は以前から清原を買っていた。 仰木が近鉄の監督1年目だった1988年、の死闘の末西武との優勝争いに敗れ、その後清原擁する西武が中日との日本シリーズを制し、清原は日本シリーズ優勝後のインタビューで「これで近鉄の選手の皆さんに顔向けができます」と語った。 これを観た仰木は「なんて男気のある奴なんだ」と心を打たれ、以来、事ある毎に清原に声を掛けていた。 直後に仰木はによるで他界したが、なおも清原は仰木を「野球界で最も尊敬する人物」と語っている。 しかし、オリックス入団の決断は仰木の死去後に下されたため、「他球団からのオファーが無かったことを確認してからオリックス入りを決めたのではないか」との批判もなされたが、これについては本人は「入団は決意していたが、膝の具合をみて自分が戦力になるかどうか判断したかった」と否定している。 仰木は近鉄との球団合併前年のブルーウェーブ時代、2004年オフにも熱心に清原を勧誘し、巨人の球団代表らと直接会ってトレードの交渉をしていた。 背番号は巨人時代に引き続き「5」(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年入団のが着けた)。 入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。 当時体重は120kgに達していたが、2か月足らずで約20kgの減量をした。 は開幕前に球団がと業務提携を結んでいたことから、中村らと共ににも出演した。 シーズンでは開幕後しばらくは清原の持ち味であるセンターからライト方向へのヒットや四球が目立った。 5月21日の対阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成。 5月26日の対横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打をから右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。 翌5月27日の対横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をから放ってチームを勝利に導いた。 なお、このサヨナラ本塁打での持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。 7月23日のオールスターゲーム第2戦では8回2死走者なし代打で登場し、と対戦、あと1本と迫っていたオールスターゲーム最多本塁打記録を狙ったが、空振り三振に倒れている。 8月29日の対西武戦でから10号サヨナラ本塁打を放つ。 この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。 一方で、死球を受けた後日、死球についてインタビューされた際に「もしそういうことがあれば命をかけてマウンドに走っていき、そいつを倒したいと思う」と報復を宣言したともとれる発言をしたため問題になった。 9月2日のロッテ戦で初回にから11号3ラン本塁打を放つが、2007年は1軍出場できず、2008年は現役最終年で2年ぶりに1軍出場したがホームランを打てなかったため、これが現役最後の本塁打となった。 この年は前述のサヨナラホームランなど記憶に残る活躍もあり、ホームラン数は11本と中村に次ぐチーム2位のホームラン数だが、中村も清原も故障離脱を繰り返し、チームに大きく貢献してるとはいえず、中村と合わせて23本のホームランしか打てず67試合の出場で打率も. 222と低迷し、チームの順位も5位と下がった。 はキャンプ中に左ひざを痛めて離脱し、2月28日に左膝の除去手術を行う。 での復帰が報道されたこともあったが回復具合は思わしくなく、7月6日に神戸市内の病院で左膝に移植手術をし、この年はプロ入り以来初めての1軍試合出場なしに終わった。 その後記者会見で、「桑田の、メジャーでの頑張りを見てたらね、桑田がこんなに頑張ってるんだからって思うし、僕も現役を続行したい」と宣言。 「普通の選手ならこんな大手術を認めてもらえないのに、球団にはそれを認めてくれた事に感謝している」と語っている。 も前年の手術の影響で2軍調整が続いたため、同年から始まった「」のレギュラーを務めることはできなかったが、7月31日に532日ぶりに1軍に合流した。 しかし、8月2日に記者会見を開き、「こんな状態なので、来年はグラウンドに立てないと思う」と話し、同年限りでの現役引退を事実上表明した。 この1日に、清原関連の球団グッズは5000万円を売り上げた。 これはオリックス全選手1年分の売り上げに相当するという。 8月3日の戦で7回にで695日ぶりに登場したが、の前に空振り三振。 翌日の同戦でも再び代打で登場しのストレートをセンター前に打ち復帰後初のヒットを打った。 8月18日のでの対戦終了後、「現役選手として最後の誕生日を、ここ(西武ドーム)で迎えられて嬉しかった」と語り、同年限りでの現役引退を決めていることを明らかにした。 9月29日プロ入りから11年間を過ごした西武ドームでの西武とのカード最終戦終了後、グラウンドに出てライトスタンドの西武ファンの清原コールに応えた後、オリックスと西武の両軍選手が清原を胴上げするというセレモニーが行われた。 西武時代のチームメイトで、合宿所で同部屋だったこともある監督のからも花束を贈呈された。 また、西武時代に背番号3番を着けていたため、当時の背番号3番のとユニフォームを交換した。 10月1日、でのオリックスのシーズン最終戦、対ソフトバンク戦が清原の引退試合となった。 通常、前売り入場券は試合の1か月前、ただし、その日が月曜日の場合はその翌日に発売開始されるのが通例だが、オリックスは特例として月曜日の9月1日に発売開始の措置を取った。 入場前売り券は発売開始から1時間足らずで完売した。 や同年に引退した桑田真澄らが見守る中 、4番・で先発出場。 試合前には対戦相手監督のから花束贈呈もあり、王は清原に対し「生まれ変わったら、同じチームでホームラン競争しよう」と伝えた。 外野スタンドから西武・巨人・オリックスの在籍時代の応援歌が順に演奏される中、第1打席は2回先頭打者、2ストライクから3球目をライトフライ。 第2打席は4回裏1死一塁で4球目を空振り三振。 第3打席はオリックスが3-1とリードした6回裏1死一塁で5球目を右中間タイムリー二塁打(打点1)。 これが現役最後の安打・打点となった。 8回裏1死での最終打席は6球目を空振り三振に終わる。 対戦投手のは4打席18球全て直球を投げた。 清原は杉内にヘルメットを脱いで一礼し、空振りしたボールは記念球として、この試合で球審を務めたから清原に手渡され、清原はこのボールに『杉内へ 最高の球をありがとう 清原和博』とサインし杉内に贈った。 試合は4-1でオリックスが勝利した。 ウイニングボールは完投勝利を記録したから清原に手渡されたが、近藤がこの試合でプロ入り初の2桁勝利とを達成したことを知っていた清原は、このボールにもサインを入れて近藤に贈り返している。 試合終了後の引退セレモニーでは、オリックス選手会長の、阪神のから花束が贈呈され、シンガーソングライターのが清原が巨人時代から入場テーマ曲として使用していた「」 をの生演奏で熱唱した。 引退挨拶では自分が所属した西武・巨人・オリックス及び各球団ファン、そしてオリックス入団への道を開いた仰木彬に感謝の気持ちを述べ、最後に「今日、引退させて戴きます。 全国のプロ野球ファンの皆様、23年間、応援どうも有難うございました」と涙ながらに締めくくった。 その後場内を1周し、ホームベース上でオリックスの選手たちによって胴上げが行われた。 翌10月2日、オリックス球団は本人の希望で清原をとして申請し、同日から公示された。 オリックスはこの年2位に入り出場権を獲得したが、清原は出場の辞退を自ら申し入れた。 そのクライマックスシリーズ・第1ステージ (対)では選手の要望で清原のがベンチ内に掲げられ、清原本人もゲストルームから声援を送った。 引退後 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2016年5月) 2009年1月29日、(大阪本社)と専属としての契約を交わす。 2009年は評論家として活動していくこととなった。 また、同時に「将来的にまず二軍監督となってキャリアを積み、そして最終的には一軍監督として日本一になりたい」とも語っている。 併せて、現在は球団経営者を目指している桑田とは、監督同士としてKK対決をやりたい、という希望も語っている。 放送局との専属契約は結んでいないが、のにおける実況中継の特別解説者として出演した。 体調不良のため2次ラウンド2試合の出演を欠席したが、準決勝、決勝ラウンドには復帰。 日本の大会2連覇に際して「日本の皆さん! 日本万歳!! 」の叫びで豪快に中継を締めくくった。 上記の体調不良に関しては現役時代よりの左膝痛であり、同じ着座姿勢を取り続けられないためと報道されている。 その影響は、ラジオ局の、、TBSラジオ3局からの西武戦などの解説依頼を断っていた時期があった程である。 2009年4月より、『』で不定期ゲスト解説者としてプロ野球や各種スポーツの解説を担当。 2011年のプロ野球シーズンには、「」の30周年イメージキャラクターを兼ねる形で、西武戦のラジオ中継に解説者として出演した。 2010年7月24日、の当時放送されていた番組の企画にて、高校時代に戦ったの金岡康宏と対決(ヤフードームにて)。 清原がオリックスの現役時代のユニフォームで、金岡が当時の甲西高校のユニフォームで登場。 1度目の対戦結果は「フォアボール」だったが、その後清原の再戦アピールで勝負再開。 最終的には「三振」で金岡の勝利となった。 2013年には、でを大批判した事が話題になった。 評論家の傍ら、『』の(後に男気ジャンケン 大人買いの旅に改題)や『』などのバラエティ番組やテレビCMにも数多く出演している。 しかし、下記の薬物疑惑が報じられてからはテレビ出演する機会は激減し、男気ジャンケンにも出演しなくなった。 2015年に後述の通り、再び露出が増えてからはでが担当する時間帯において「男気じゃんけん」が行われ、久々の出演を果たした。 薬物疑惑騒動 [ ] 2014年3月、違法薬物使用疑惑が『』によって報じられ(2014年3月13日号) 、突撃取材に訪れた文春記者に暴行して録音機を破壊した事も同記事内で報じられた。 清原は薬については否定していて訴訟する意向を示し 、入院についてはのためであると語っており、毎日の血糖値測定と一日一回は注射が必要なことを明かした。 しかし、その後の週刊文春によると訴状は届いておらず 、アサヒ芸能の3480号のテリー伊藤との対談によると、恩師(具体名は明かされず)に説得されて訴訟は止めたとコメントした。 また、巨人との関係は引退後も折り合いが悪く、OBの集まりには招待状すら来なかったという事を明かした。 さらに、巨人とはこの年のイベントで揉めたことが報じられている。 (NPB)はこのような疑念に対して、過去のことで確証や根拠がない物として見過ごしてきた。 2015年2月28日の日刊スポーツ関西版の「猛虎の80年」の中では日刊スポーツ評論家としての契約が終了した事が明らかになった。 同年9月22日、離婚していた事をFAXで発表(離婚した明確な日は非公表)した。 2人の子の親権は元妻が持つ。 薬物疑惑が報じられた時期には、肩や足に刺青をしていたことも報道された。 著書の一冊である「反骨心」では、実は巨人時代から刺青を入れようと思っていた(その時は、母親に反対されたためしなかった)と書かれている。 2015年3月16日からを巡る遍路に取り組んだ。 「区切り打ち」と呼ばれる、行程を何度かに分けて歩く巡拝方法をとる。 この頃から再びテレビ出演するようになり 同年4月3日、『』に1年ぶりのテレビ出演。 「自分自身を否定するようになった」「ここまで悪く書かれるならいっそ死んでしまおうと思った」と当時を語り、「息子がいなかったら、この世にはいなかった」と語っていたことから、自殺まで考えていたことが明らかとなった。 また、当時小学生の次男が所属するチームの試合を毎回のように観戦・応援していた。 既に警視庁が後述のように内偵捜査していた2015年9月、のので開かれた少年野球大会では、他の保護者と談笑しながら次男に声援を送っていた。 その後、刺青や薬物に関しては、2015年8月28日に放送された「」内で真相(刺青は認めるものの、違法薬物に関しては「風邪薬はやりましたけど、(疑惑のような違法薬物の使用は)ないですよ」などと否定)を語った。 番組内では噂の出処について「やっぱり恨みつらみ買ってるんですよ。 そいつらが言うんですよ」と語ったが、これ以降テレビ出演は激減した。 逮捕 [ ] 2016年2月2日午後8時48分頃、1の自宅マンションにて0. 1g(袋込の重さのため実際は0. 04g )を所持していたとして、午後11時過ぎに 違反(所持)容疑でにされた (捜査員が家宅捜索に入った際、清原は注射器とストローを各1本ずつ左手に持っており、捜査員に促されてテーブルの上に置いた)。 清原は「覚醒剤は私の物に間違いありません」と容疑を認めた。 警視庁は同日マンションを家宅捜索し 、覚醒剤以外にも注射器3本、と各1本、2台を含む計4台を押収した。 袋に入った覚醒剤と注射器1本がリビングテーブルの上にあり(注射器は袋が開封されたものもあった )、黒ずんだパイプが床の上に転がっていた。 警視庁組織犯罪対策第5課は、保存状態から覚醒剤は使いかけだった可能性が高いとみた。 清原は「自宅にあった注射器やガラスパイプは覚醒剤をやるときに使っていたものです」と覚醒剤の使用についても認め、摂取方法については「腕に注射したり、ガラスパイプであぶってすったりしていた」と供述した。 逮捕後、清原は持病の糖尿病の診察のためにの医療施設に行き、3日未明に警視庁本部に入り留置された。 逮捕直後に警視庁組織犯罪対策第5課は東京都内の病院で清原の尿を採取して科学捜査研究所に鑑定させ、翌3日に覚醒剤の陽性反応を確認した。 警視庁組織犯罪対策第5課は週刊文春による疑惑報道を受けて1年にわたる内偵捜査を続けた (密売人から覚醒剤を購入しているとの情報などを得て、立ち回り先で捜査員が行動を確認し続けていた)末、容疑が固まったとして踏み込み、その結果現行犯逮捕につながったという。 警視庁は逮捕前日の2月1日までに内偵捜査の一環で清原の家庭ごみを調べており、その中から覚醒剤の成分が検出されたことなどから 、それまでに積み上げてきた本人の行動や売買の情報から、覚醒剤の所持だけでなく使用の証拠も得られるタイミングと判断して2日夜に自宅の家宅捜索に踏み切った。 また、逮捕前日の2月1日に清原は車でに向かった後、東京都内のホテルに滞在した後自宅に戻ったが、ホテルに残されたティッシュの汗からも覚醒剤の成分が検出された。 警視庁は覚せい剤の入手先にが関与しているとみて調べた(清原は覚せい剤の入手先について「今は言いたくない」と供述していた )一方、清原を覚せい剤取締法違反(所持)容疑で2月4日午前にに送検した。 前述の通り疑惑が出てから一貫して否定していた中での逮捕であり、ファンの間からは「もったいない」「週刊誌で疑惑があることは知っていたが、憧れだっただけにショックだ」「日本を代表する野球選手なので、コーチや監督として活躍してほしかった」などの声が上がり 、球界からも「最近は連絡を取っていなかったが、もし報道通りなら、野球人として、一緒に戦ってきた仲間として、非常に残念でならない」(桑田)「2年前の週刊誌の報道が出た時、そんなことはないと信じていたのでなおさら驚いている。 事実なら体もボロボロになっているはず。 早く解決してほしい。 高校時代から素晴らしい先輩だった。 野球の現場に戻ってきてほしいとずっと思っていた」(立浪)「本当にびっくり。 噂が出た時も信じたくなかったが…」() 「驚いているとしか言いようがない」(・)「寂しいというか残念」()「僕らにもやりやすいように気遣ってくれた先輩なんで余計に残念です」()「(直接疑惑を否定されていただけに)裏切られた気持ちで悲しい」()「とにかく残念。 あれだけのスターがね」()などと衝撃の声が広がった。 一方、同じマンションの住民は夜間に清原が出掛けていく姿を何度か目撃しており「外で男性が待っていて合流していたこともあったが、明らかにおかしいという印象はなかった」と語り 、も「ああ、やっぱりと思わせる部分はある。 野球バカでは駄目だということ。 野球バカを俺は好きなんだけど、一人の人間として成長しないといけない」と語った。 (NPB)のは「言葉を失うの一言に尽きる。 元選手とはいえ、野球は特に青少年の憧れのスポーツの一つ。 現役を去ってからも、模範であり続けなければならない。 有害行為の禁止、反社会勢力の遮断、薬物の拒絶など、一層施策を強力に推し進めるほかない」との談話を発表した。 球界にとっては前年に発覚したに引き続き球界のイメージを大きく傷つける大スキャンダルとなり 、は2月3日の朝刊で「熊崎コミッショナーは球界からの排除などに力を注いできた。 野球賭博問題でも許されないものとして厳しい裁定を下した。 薬物問題についても球界は本当に大丈夫なのか今一度調査すべきであろう。 ファンの疑念、不振を晴らすことが第一だ」と報じた。 また、2月4日の・2016年度予算審議ではのがに対し「清原和博選手が覚せい剤所持容疑で逮捕されたことは青少年に与える影響が大きい」と質問、安倍は「甲子園での大活躍を見て多くの青少年が心を躍らせた。 かつては子どもたちのヒーローだった清原氏が逮捕されたことは残念だ。 今後も政府として薬物依存対策にしっかりと取り組んでいく」と答弁した。 2月23日、警視庁は覚せい剤取締法違反(使用)容疑で清原を再逮捕(容疑は、1月中旬から2月2日までの間に東京都内や周辺で覚せい剤を使用したこと)し、同日には東京地検が同法違反(所持)容疑で清原をにした。 その後、3月15日には使用の罪(2月1日頃港区内のホテル客室で覚せい剤を使用したとされる)でも追起訴された。 3月16日、清原のは東京地裁にを請求し 、その後地裁が許可し、清原が保釈金を納付したことから翌3月17日に逮捕から44日ぶりに保釈され、清原は糖尿病の治療のために夜にのに入院した。 4月1日に東京地検は「9月1日頃、群馬県内のホテルで密売人の男から覚せい剤約1. 2gを8万円で譲り受けた」として覚せい剤取締法違反の罪で清原を在宅のまま追起訴し、一連の捜査は終結した(同日には清原に覚醒剤を売った密売人の男も追起訴された)。 逮捕を受けて内の甲子園歴史館からは展示されていたバットなどが撤去されたほか、内のも定期的に行っていたユニフォームなどの展示を当面行わないことを決めた。 2015年11月25日からブログを始めており 、逮捕前日の2月1日までの2カ月間あまりに約190回にわたって身辺の出来事などを記していた。 家族と会えない孤独感や両親や友人との触れ合いなどをつづっていた が、逮捕後の3日午前に閉鎖された。 12月には子供と野球の練習を楽しみ、も参加した一日を「本当にうれしかった」と記述し、逮捕前日の2月1日午後11時過ぎにも、知人が描いた自らの似顔絵をアップロードしていた。 一方で1月19日には「(飲食店で)1人の男が俺を笑いながら指を指してきた。 完全に頭の中でブチキレた。 (中略)その瞬間を叩き割った」と記し、その際に怪我したとみられる右手の写真もアップロードしていた。 2016年5月17日に東京地裁で初公判が行われ、清原は「現役時代はストレスやプレッシャー、不安を野球で解決できたが、引退後は解決方法がなくなった。 膝の故障もあり薬物に負けてしまった。 申し訳ない」と述べ起訴内容を認めた。 用意された20席のを求めてファンら3769人が朝から雨の中裁判所近くのに集まり、抽選倍率は約188倍となった。 検察側は「遅くとも引退した2008年すぎ頃から覚せい剤を使い始め、以降繰り返し使っていた。 『やをしたかったが、引退後に声がかからず、心の隙間を埋めるために使った』という動機に酌量の余地はなく、再犯の可能性も高い」として懲役2年6か月を求刑したのに対し、清原の弁護人は情状酌量を求め即日結審した。 冒頭で清原は裁判官から職業を尋ねられると「無職です」と答え、被告人質問で清原は現役時代の覚醒剤の使用を否定した上で「寂しさや社会に適応できない自分から逃げていたのだと思います。 覚醒剤をやめられるよう、寿命が来るまで戦い続けたい」「プロ野球を目指す野球少年たちに申し訳ない。 野球界に大変うらぎりをして、大変申し訳ない」と謝罪した。 弁護側の情状証人としても出廷し「彼を今でも野球人だと思っている。 後輩たちに野球を教えてやってほしい。 2回目はないと信じている」と述べた佐々木は退廷する際に清原と握手を交わした。 同年5月31日に懲役2年6か月(執行猶予4年。 弁護側が求めていたはつかない)の有罪が下された。 判決公判の傍聴希望者は1713人で、21席の一般傍聴席数に対し約81倍の抽選倍率となった。 「覚醒剤への依存性は深刻で常習性も強い」と指摘された一方、甲子園を沸かせプロ野球を代表する打者として活躍するなど、野球界で社会的貢献をしてきたことや、逮捕後に事件報道で社会的制裁を受けたことなどから執行猶予が付けられた。 裁判官は法廷で「自助努力による更生がふさわしく、十分に立ち直りが可能」と述べた上で清原に対し「お父さんや親戚、全国の根強いファンが更生を望んでいることを忘れないで下さい。 息子さんたちのためにも覚醒剤をやめ、人の役に立つ存在になることを期待しています」と説諭した。 清原は判決後、傍聴席を振り返り「この度は申し訳ありませんでした」と頭を下げた。 検察側・弁護側ともに控訴期限の6月14日までにに控訴せず、清原の有罪判決が確定した。 なお、清原に覚醒剤を計2回(2015年9月1日ごろに群馬県太田市内のホテル客室内で約1. 2gを8万円で、翌年1月31日ごろに同士のコンビニエンスストア駐車場の車内で約0. 6gを4万円)密売した知人の45歳男(群馬県)は2016年7月5日、東京地裁(裁判官)から懲役3年、執行猶予5年、12万円(求刑は懲役3年及び追徴金12万円)の有罪判決を受けた。 その後 [ ] 有罪判決確定後の11月30日にが翌2017年1月16日に発表される2017年の入りの候補者を発表。 清原は2014年からプレーヤー部門で候補者入りしていたが、有罪判決が確定したことを受けて候補から除外された(殿堂対象者を選ぶ規定の中に「や誠実さを評価する項目」があり、それにふさわしくないと幹事会で判断したため)。 候補者を選定する競技者表彰委員会の幹事会が18人の全会一致で決めたもので、違反で有罪判決が確定したことによる候補者除外は1994年の以来2人目。 復帰の可能性は残されてはいるが「顕著な更生、および野球界、社会への貢献が必要になる。 道は険しい」という。 12月24日、が『』で逮捕後初となるインタビュー(VTR形式)を放送。 清原は事前に医療機関で尿検査を受けて陰性の証明書の発行を受け、黒いスーツ、白いYシャツ、紺色のネクタイ、七三分けの髪、逮捕時よりも色白の顔でインタビューに応じ、最初に「世の中の皆様、そして少年野球からプロ野球、名球会 、高校野球、野球ファンの皆様のことを大変失望させてしまい、罪を犯してしまい、本当に申し訳ありませんでした」と謝罪した後、「(覚醒剤を)やめられたという言い方はなかなか言いづらい。 一日一日、『今日は使わなかった。 じゃあ明日も頑張ろう』という積み重ねです」「本当に恐ろしい薬物。 怪物で悪魔で、そのささやきと闘い続けるというのは一生続くと思っている」「息子に会いたい」などと語ったほか、では「114番」と呼ばれていたこと、保釈後は自身に関する報道はほとんど見ていないことなどを明かした。 インタビューの詳細は12月29日放送の『ニュースキャスター 超豪華! 芸能ニュースランキング2016決定版』で放送される事が報じられ 、29日にインタビューが放送され 、逮捕よりも前に薬物で入院したため両親に知られてしまった事を語っており 、現役時代からの覚せい剤使用については否定したが、興奮作用のある薬物である (2007年に禁止)は使用していたことは告白した。 2017年4月8日、清原保釈時に運転手を務めた友人男性が遺体で見つかった。 警察は自殺とみている。 11日、清原は内で営まれた通夜に参列し、焼香を終えた後メディアの取材に応じた。 同年6月29日に発売された『』930号では、同誌のインタビューを受ける形で登場した。 その翌号から「告白」のタイトルで半生を振り返る形の連載が開始され 、2018年の7月まで連載された。 また、同月にはそれらをまとめて加筆や修正した著書が発売され、薬物の検査を行っており、うつ病の治療も行っていることが書かれている。 同著書は、2019年にはスポーツノンフィクションとしては異例の11万部を突破した。 8月には、佐々木との対談がスポーツ紙で掲載された。 また、同月に行われたの決勝を観戦していたことが報じられている。 2019年3月5日、母親を亡くす。 奇しくも清原の現役時代の背番号の3と5の日付であった。 翌2020年3月1日の厚生労働省主催「依存症の理解を深めるための普及啓発イベント」にも出演しており、清原と同じ2016年に薬物関連で逮捕された俳優の、歌手の、元アナウンサーのとともに登壇した。 2019年10月22日、11月30日に神宮球場で開催される試合形式の公開「2019」 で現場監督を務めることが報じられた。 同トライアウトは主催のものではなくワールドトライアウト社によるもので、NPBで戦力外通告となった選手、高校や大学、社会人のアマ選手、日本球界への移籍を志願する米大リーグのマイナーリーガーなども対象で、日米のスカウト・代理人などが招かれる。 清原は予選会での選手の選出、および本選での優秀選手の選考、トライアウトでの打順の決定などを任された。 同年の12月からは、「ワールドトライアウト2019」でコーチを務めたのYouTubeチャンネルの動画に出演したことで話題になった。 また、2020年の2月には巨人時代のチームメイトだったのチャンネルの動画にも出演した。 選手としての特徴 [ ] 打撃 [ ] 中堅から右方向へ打つのがうまい。 当初は内角のボールを苦手としていたが、フォームをコンパクトにしたことで内角のボールに無理なく対応できるようになった。 右翼方向にも打球が良く伸び、2001年9月8日のヤクルト戦では東京ドームの右中間にある看板に流し打ちで当てている。 勝利打点王や最高出塁率の獲得経験はあるが、打者の三冠タイトルである首位打者、本塁打王、打点王の獲得経験は無い。 通算525本塁打は本塁打王を獲得していない選手の中では史上最多である。 チーム打撃に徹する選手であり、西武時代の監督であるは清原について「『無冠の帝王』なんて言われたりしたが、西武で一緒に野球をやっていた時、何年間も連続して優勝したチームの4番を務めてくれた。 相当な重圧だったはず。 これこそ、彼しか持っていない立派な『タイトル』だと僕は思いますね。 彼ほどチームの勝利に喜びを感じていた選手はいなかったんじゃないかな。 打点や本塁打などタイトルを取れそうな時もあったが、自分の記録よりチーム勝利に貪欲だった。 本塁打より犠飛が欲しい場面というものがある。 そんなベンチの期待に応えようとする選手だった」と語っており 、PL学園時代の監督であるも「巨人時代に長嶋監督が『清原ほどチーム打撃に徹する選手はいない』と話しておられた。 高校時代も自分本位にやるなら、もっと本塁打数は多かった。 チームのために頑張ってきた結果」と振り返っている。 一方で、 は「清原は素質だけでプレーして来た選手であり、真摯に野球に取り組んでいれば、王貞治の本塁打記録を抜く可能性もあった」「鉄は熱いうちに打てという。 清原に人間教育をしなかった森が悪い」とも述べており、通算525本の本塁打数で終わる選手ではなかったと見る向きも多い [ ]。 現役中10度のリーグ優勝、8度の日本シリーズ優勝を経験しているが、シーズンおよび日本シリーズMVPの獲得経験は無い。 シーズンMVP選手を選出する際の得票数では2位に3回つけている(1986年、1位は、1990年、同・、1992年、同・)。 日本シリーズについては、優秀選手賞を3回、敢闘賞を2回獲得している。 2000本安打、500本塁打、1500打点を達成した打者は日本プロ野球史上清原を含めても6人しかおらず(他は、、、、)、通算本塁打数は歴代5位、通算打点数は歴代6位に位置している。 しかしながら清原はこの6人の中で唯一、打者の三冠タイトル(首位打者、本塁打王、打点王)の獲得経験が一度も無い(3割を2回しか経験しておらず、6人の中で通算打率がもっとも低い)。 また、オールスター戦に強く、オールスター戦通算打率1位(100打数以上対象)・通算本塁打2位・通算打点1位・通算塁打1位・通算得点1位という記録を残している。 オールスターMVP受賞最多記録(7回)も保持しており、現役時代は「お祭り男」の異名を取った。 故障離脱があった年も多かった中、1986年にプロデビューしてから2006年まで二桁本塁打を記録した長打力に加え、シーズン100四球を2度、最多四球を4度記録するなど選球眼が良かった。 通算1346四球は王と落合と金本に次いで歴代4位(2019年度シーズン終了時点)の記録で、通算打率. 272に対して通算出塁率は. 389、OPS. 909を記録。 また、サヨナラや満塁の場面に非常に強く、通算サヨナラ本塁打12本・通算サヨナラ安打20本・通算サヨナラ満塁本塁打2本(、、、と並ぶタイ)の日本プロ野球最多記録を保持している。 一方で通算1955三振 と通算196 も日本プロ野球最多記録となっている(2019年度シーズン終了時点)。 西武入団時、自分に合うサイズのがなく困っていたところ、に同球団で引退したのヘルメットを発見し、これがピッタリ合ったため着用。 その後、引退まで23年間チームが変わる度に色を塗り直しながらこのヘルメットを使い続けた。 巨人在籍時の2005年5月10日には、オリックスのからを受け、ヘルメットの西武時代の塗装が飛び散った。 なお、ヘルメットは、大きな衝撃を受けたものを引き続き使用すると、本来の衝撃吸収性を発揮しないことがあるため、このような使い方は不適切である。 1999年オフに肉体改造を行ったが、これはその前年にで来日したと食事した際、彼の体を見て衝撃を受け、清原自身も周りに認めてもらえるようパワーアップするという思いから実践に至った。 また、グリーニーもこの頃から服用していた。 なお、この改造は筋力アップを主体としていたため走り込みはやらないことが多く、これが下半身のアクシデントに繋がったとも語っている。 また、筋力アップを主眼に置いたトレーニングであるのは既出の通りだが、医師であり、清原のファンである斎藤真嗣は著書で「清原は140kgのベンチプレスを持ち上げたが、あの体格ならば、最低でも160kgは持ち上げないと及第点とは言えない」と語っており、第一の目的である筋力の向上さえもトレーニング理論にかなっておらず、失敗していたことが示唆されている。 守備・走塁 [ ] キャリア初期から中期にかけての西武時代は打撃だけではなく守備や走塁にも定評があり、初年度の1986年夏までに正として定着。 西武時代にを5度受賞している。 ルーキー時代の清原は当初と併用の一塁手であったが、片平より守備が安定していたためレギュラー起用に繋がった。 また、1990年のペナントレースでは、日本シリーズなどでは指名打者制度がない試合でらが一塁を担当し、清原が、正三塁手のがを守ることが数度あったが、三塁もそつなくこなす守備力を持っていた。 その守備力は巨人移籍後も評価されていた為、1999年には11試合で三塁手の守備に就いている。 走塁面ではシーズン二桁盗塁を二度マークしたことがあり、盗塁王になれた可能性を期待されたこともある。 人物 [ ] 清原の人物像について、西武時代の関係者からは、「実に純枠な男である」(森祇晶 )、「素顔は少々シャイな感じで、それでいてよく気がつく、気持ちのとても優しい男」(渡辺久信 )などという声がある。 の野球マンガには20代前半のころ描かれることが多かったが、短躯でシュールな言動の桑田との凹凸コンビで振り回される、一本気な大男キャラクターとなっており、このころのマスコミイメージを反映している。 だが、巨人へ移籍した頃から、日焼、短髪、などファッション傾向に変化が出始め、「」のニックネームが定着するようになった。 こうした人物像の変遷の果ての先述の有罪判決(2016年)を受けて、西武入団直後の森監督ら西武側の指導者の人間教育などに、その原因を求める声もある( 、 )。 また「タイトルを獲りたい」「周りに認められたい」という思いが人一倍強かったゆえ、その呪縛に陥ったという分析もある。 ニックネーム [ ]• お祭り男(高校時代は甲子園、プロではオールスター・ゲームや日本シリーズなどの大舞台で活躍し、さらに通算サヨナラ本塁打と通算サヨナラ安打も歴代1位であることなどから付けられた)• キヨマー(西武入団当時に活躍していた阪急の強打者に対抗できる位の活躍を期待された為)• 番長または球界の番長• だんじりファイター(の一つである八木だんじり祭より命名。 がよく使用した) 交友関係 [ ] との関係は、ケガなどで苦しみ不調に陥っていた1999年から始まる。 その後彼の曲「」を入場テーマ曲として使用。 清原が引退を最初に伝えたのも長渕であった。 当時はお互いを「和博」「剛さん」と呼び合う仲であった。 先述の薬物事件報道が原因で音信不通になったことが示唆され、2015年8月に『ダウンタウンなう』に出演した際、から当時ネットで浮上した「長渕と清原が居酒屋で殴り合いの喧嘩に発展した」という都市伝説を問われて否定したものの、疎遠になったことは婉曲に認めていた。 2015年10月に取材を受けた際に長渕との交友が途絶えていることを告白していたと、逮捕後の2016年2月に報じられた。 、、と親交がある。 また、西武時代には観戦のためを訪れ、・親子を西武球場に招待している。 元夫人との間に2人の息子がいる(2014年に離婚)。 離婚後も息子たちの事は気にかけており「野球選手になってほしい」と語ったこともある。 巨人のスーパースターとして同じく名を馳せていた松井秀喜とは、お互いの実力を認め合ってはいたが、性格の不一致からあまり仲は良くなかったとされる。 しかし、松井がに挑戦する際には「俺はお前を誇りに思う。 いつまでも応援しているぞ! 」と激励のを送っている。 の経営する居酒屋には何度か訪れるなど引退後も付き合いがあり、大久保は有罪後に執行猶予が付いて放免された清原の近況を語ったことがある。 とも現役時代から付き合いがあり 、佐々木は前述の通り清原の裁判に証人として出廷したことがあり 、清原の有罪後の生活を語った事がある。 詳細情報 [ ] 年度別打撃成績 [ ] 126 471 404 66 123 18 1 31 236 78 6 3 4 3 49 2 11 109 8. 304. 392. 584. 976 130 536 444 66 115 25 3 29 233 83 11 4 0 2 80 6 10 88 10. 259. 382. 525. 907 130 551 451 97 129 21 0 31 243 77 5 4 0 3 82 7 15 102 10. 286. 410. 539. 949 128 557 445 92 126 22 2 35 257 92 7 2 0 2 94 5 16 60 13. 283. 424. 578 1. 001 129 560 436 99 134 19 2 37 268 94 11 5 0 4 105 6 15 85 7. 307. 454. 615 1. 068 126 539 448 73 121 20 0 23 210 79 3 3 0 2 80 1 9 77 12. 270. 390. 469. 858 129 556 464 82 134 17 0 36 259 96 5 3 0 3 85 0 4 98 13. 289. 401. 558. 959 128 540 448 66 120 15 1 25 212 75 3 2 0 2 84 1 6 120 9. 268. 389. 473. 862 129 565 455 78 127 29 0 26 234 93 5 1 0 5 100 9 5 117 12. 279. 411. 514. 925 118 505 404 63 99 13 3 25 193 64 2 0 0 2 90 1 9 111 6. 245. 392. 478. 870 130 563 487 67 125 30 0 31 248 84 0 2 0 0 70 0 6 122 14. 257. 357. 509. 866 130 550 462 65 115 24 0 32 235 95 0 0 0 7 69 3 12 152 7. 249. 356. 509. 865 116 470 384 67 103 14 0 23 186 80 1 0 0 11 67 1 8 76 13. 268. 379. 484. 863 86 323 263 39 62 12 0 13 113 46 0 0 0 4 46 0 10 68 12. 236. 365. 430. 795 75 252 216 41 64 10 0 16 122 54 0 0 0 3 25 0 8 51 6. 296. 385. 565. 950 134 552 467 67 139 29 0 29 255 121 0 1 1 4 65 2 14 140 20. 298. 396. 546. 942 55 174 148 24 47 1 0 12 84 33 0 0 0 1 18 2 7 36 1. 318. 414. 568. 981 114 403 341 47 99 9 0 26 186 68 0 0 0 4 42 0 16 97 9. 290. 390. 545. 935 40 120 101 18 23 2 0 12 61 27 0 0 0 0 15 0 4 41 4. 228. 350. 604. 954 96 375 321 42 68 6 0 22 140 52 0 1 0 3 41 0 10 111 6. 212. 317. 436. 753 67 241 203 21 45 7 0 11 85 36 0 0 0 1 36 1 1 83 6. 222. 340. 419. 759 22 25 22 0 4 2 0 0 6 3 0 0 0 0 3 0 0 11 0. 182. 280. 273. 553 通算:22年 2338 9428 7814 1280 2122 345 12 525 4066 1530 59 31 5 66 1346 47 196 1955 198. 272. 389. 520. 909• 各年度の 太字はリーグ最高、 赤太字はNPBにおける歴代最高 タイトル [ ]• :2回 (1990年、1992年)• :1回 (1988年) 表彰 [ ]• (1986年)• :3回 (一塁手部門:1988年、1990年、1992年)• :5回 (一塁手部門:1988年、1990年、1992年 - 1994年)• :5回 (1986年9月 野手部門:1990年8月、1992年9月、1994年5月、2001年6月)• 優秀選手賞:3回 (、、)• 日本シリーズ敢闘賞:2回 (、)• 特別表彰:2回 (会長特別賞:1986年 功労賞:2008年)• 記念表彰 (2009年)• :1回 (1986年) 記録 [ ]• 初記録• 初出場:1986年4月5日、対2回戦()、6回表にとして出場• 初安打・初本塁打・初打点:同上、9回裏にから左中間へソロ• 初先発出場:1986年4月8日、対1回戦()、8番・一塁手として先発出場• 初盗塁:1986年5月15日、対南海ホークス8回戦(西武ライオンズ球場)、2回裏に二盗(投手:藤本修二、捕手:)• 節目の記録• オールスター戦• オールスター戦通算打率:. 365(100打数以上では、歴代1位タイ)• オールスター戦通算本塁打:13本(歴代2位タイ)• オールスター戦通算打点:34(歴代1位)• オールスター戦通算得点:26(歴代1位タイ)• オールスター戦通算塁打:96(歴代1位)• その他• シーズン20本塁打以上:16回(1986年 - 1998年、2001年、2003年、2005年 歴代3位タイ)• 通算サヨナラ本塁打:12本(歴代1位)• 通算サヨナラ安打:20本(歴代1位)• 通算死球数:196死球(歴代1位)• 通算三振数:1955三振(歴代1位)• 通算満塁本塁打:11本(歴代9位タイ)• 通算サヨナラ満塁本塁打:2本(歴代1位タイ)• 3 (1986年 - 1996年)• 5 (1997年 - 2008年) 関連情報 [ ] 野球以外での表彰 [ ] ファッション関連• (男性部門:2006年) その他• 流行語部門金賞 (1986年、「新人類」、・と共同で受賞)• 市民栄誉賞 (2004年) 出演したテレビ番組 [ ]• () 第1回(1995年1月1日) - 総合7位 第3回(1997年1月2日) - 総合5位 第7回(2001年1月1日) - 総合12位、THE TUG-OF-WAR優勝、POWER FORCE優勝 この年のPOWER FORCEの準決勝ではと1分半にも及ぶ死闘を演じ、番組史上の名勝負の一つとしてたびたび取り上げられる。 (、2009年2月15日、2010年3月21日、2013年2月16日)• 2010秋スペシャル()• (フジテレビ、2010年12月7日)• (フジテレビ、2011年1月3日、2013年1月3日) - 2011年・最強軍団、2013年・チーム男気でそれぞれ出演。 春爛漫!! 豪華名曲SP(フジテレビ、2011年3月28日)• SP(フジテレビ、2011年10月08日)• 内 (フジテレビ、2011年11月10日) - レギュラー出演(第2回大会より)。 (、2012年1月1日、2013年1月1日) - 第9弾・チーム番長、第10弾・チーム日焼け番長でそれぞれ出演。 いずれもとのチームで出演。 結果は2度とも 「三流芸能人」だった。 (フジテレビ、2012年1月2日) - 第27回・率いるネプチューンチームで出演。 (、2012年3月19日、2012年7月23日、2013年2月4日)• (フジテレビ、2012年5月19日、10月14日)• (フジテレビ) 2012年7月3日の回で逃走成功し、150万円を手に入れた。 2013年1月6日、13日の回で転倒し、小指を骨折し全治4週間となった。 (テレビ朝日、2012年7月1日、2013年6月30日)• (日本テレビ、2012年8月19日)• (、2012年10月3日)- 初司会• THE GOLDEN BATTLE 2012(関西テレビ、2012年12月26日) - 、、、を率いてとソフトボールで対決した。 (フジテレビ、2012年12月30日)• ジャイアントキリング2(フジテレビ、2012年12月30日) - と腕相撲で対決し敗れた。 翌年のジャイアントキリング3では桜庭和志と再戦し、見事リベンジを果たす。 には敗れた。 大晦日スポーツ祭り! KYOKUGEN(TBS) 2012年12月31日 - と野球で対決し、8打席目に本塁打を打った。 2013年12月31日 - 前年同様本塁打に挑戦し、から本塁打を打った。 (フジテレビ、2013年1月9日)• (TBS、2月10日)• (TBS、7月5日)• (日本テレビ、8月22日、2015年11月19日)• 大陸アドベンチャー!! 巨大生物を捕獲せよ!! (TBS、12月29日) - Mc担当。 (テレビ朝日、2014年1月20日) - に出演。 (日本テレビ、2015年6月28日、10月11日)• (フジテレビ、2015年8月28日)• 2時間スペシャル これが中居君の野球愛(フジテレビ、2015年12月31日) - 立浪和義、片岡篤史、橋本清、松井稼頭央と共に出演した。 (フジテレビ、2016年1月7日)• (フジテレビ、2016年1月16日、その他複数回に出演) - 野村弘樹と共に生出演した。 (フジテレビ、2016年1月24日) 出演した舞台 [ ]• ミックスモダン大作戦~結束~(、2006年3月10日) - 当時のオリックス・バファローズ主要選手が出演したの舞台。 後の2006年6月21日に『NGKにバファローズがやって来た! 』(、YRBY-50047)としてDVD化。 テレビCM [ ] 入団以来、所属球団の西武が副業禁止への一環として選手の出演を禁止されていたが、フリーエージェント宣言による他球団流出対策としてこの規則が廃止となった事から、清原が初めて全国CMに出演する事が出来たのは、CM出演解禁された入団8年目の1993年オフの事である。 「スーパーカップ」 - 初のCM。 「ビタシーゴールド」 - 西武から巨人移籍後も出演。 セールスコピーは「飲むところ敵なし」• 「スーパーマグナムドライ」(2003年)• 用「」- 豪傑に扮した。 機・機 - 架空の球団「フィールズ」の投手として登板。 打者に本塁打を打たれて、悔しそうな顔を浮かべる。 巨人からオリックス移籍後も出演。 「麺の達人」 - プロ野球引退後初のCM出演。 CM内で現役時代の試合のプレーが流れる。 「」 、と共演• - ベガスベガス「番長祭」(2011年)• - 「スカパー! 野球王道 全国」篇。 との共演。 (2012年~2013)• - と共演。 (2013年・2015年~2016年1月 ) 著書 [ ]• 『男道』、2009年1月 /、2010年8月、。 - 1967年の誕生から2008年の現役引退までの清原の自伝。 第一章を中学まで過ごした生まれ故郷の「岸和田」、第二章を高校時代に過ごした「富田林」、第三章を西武時代の「所沢」、第四章を巨人時代の「東京」、第五章をオリックス時代の「大阪」と名付けている。 『反骨心』、2009年8月。。 - 巨人時代の苦悩や、選手時代の終盤を中心に書いた自伝。 『清原和博:魂の言葉』、2009年12月。。 - 引退までに数多く残した発言を掲載。 『清原和博:告白』文藝春秋、2018年7月27日。。 - 岸和田リトルリーグ時代から2018年5月頃までの様子を執筆した物。 『魂問答』共著、、2019年12月。。 関連書籍 [ ]• 『西武ライオンズ・清原和博 : オリジナル報道グラフ』著、ダックス、1986年。。 『ヤングレオ清原和博』著、、1986年10月。。 『清原和博の真実 : 21世紀に王手をかけた男』著、(Tokuma books)、1986年11月。。 『ルーキー : もう一つの清原和博物語』著、、1987年4月。。 『清原和博vs桑田真澄 : スーパーグラフ』編、()、1987年5月。。 『野球少年キヨマー : 清原和博』著・絵、、1988年5月。。 『清原和博打倒「巨人軍」宣言!! 』清原番記者グループ著、リム出版(Lucky books)、1989年9月。。 『清原和博の「まっすぐでこい! 」』永谷脩著、ネスコ(NESCO books)、1990年4月。。 『ミスターを超える男 : 清原和博の1826日』永谷脩著、、1991年7月。。 『桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう』著、、1994年12月。 『鎧袖一触・清原和博 : 私と清原の11年間』著、(ラインブックス)、1997年4月。。 『夢一途 : 清原和博11年目の選択』永谷脩著、未来出版、1997年4月。。 『男、清原どこへ行く : 不良番長の野球バカ一代』著、、2001年10月。。 『清原和博野球バカ一代』増訂版、(ゴマ文庫)、2009年1月。。 『おう、ワイや! 『キヨのほろりええ話』といかしたナイン編著、、2005年2月/改訂版、(宝島sugoi文庫)、2008年12月。。 『清原和博 : 夢をつらぬく情熱のバッター』著、(素顔の勇者たち)、2005年4月。。 『清原和博番長伝説 : 1985~2008 : 『Friday』が追い続けた24年間』編集部編、講談社、2008年11月。。 『清原和博 : 1983-2009 : 完全復刻版』文藝春秋(Sports Graphic Number plus)、2009年9月。。 『完本清原和博』Sports Graphic Number編、文藝春秋(文春文庫)、2010年8月。。 『だんじり』清原和博監修・脚本・画、()、第一巻、2011年8月19日。。 /第二巻、2012年2月17日。。 『清原和博への告白 甲子園13本塁打の真実』著、文藝春秋(Sports Graphic Number Books)、2016年12月。 関連映像作品 [ ]• 『清原和博 2000』(VHS、、2000年11月)VPVH-69342• 『ホームランアーチスト清原和博500本塁打の軌跡』(DVD、・バップ、2005年6月)VPBH-12359• 『清原和博怪物伝説:23年間の我が野球道』(DVD、映像企画部・、2009年3月)PCBG-51241 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 後に、当時・広陵高校の捕手であるが2017年の夏の大会で6本を打ってこの記録を塗り替えている。 同大会では()が先に4本打っていた。 ただし、セ・リーグであれば阪神の他にも、自分を指名してくれた中日ドラゴンズでもよかったと、自著「反骨心」で語っている。 一位だけではなく、どの順位にも清原はいないなど、巨人が清原を獲得する気は全くなかった。 [ — ]• 清原自身も著書で、当時の巨人が投手整備が急務だったこと、巨人側が確実に1位指名をすると確約していたわけではなかったことを認めている。 ただ、その当時の自分は若く、その事実を認めることができなかったと述懐している。 清原自身も、この時期を「自分の黄金期」と自身の著書『男道』で振り返っている。 日本人選手で1シーズン150三振を記録した選手がいるのは初であり、2004年にが更新するまで日本人最多記録保持者であった。 清原のシーズン152三振は2019年現在も巨人の球団記録である• 「反骨心」でも触れられているが、一茂の名前は伏せられていた。 直球勝負にこだわっていたのはこの時だけではなく、2014年7月31日発売の雑誌「Sports Graphic Number」858号では、スライダーで三振した時に相手投手が直球を投げなかったため卑怯だと発言したことがあると桑田が証言している。 また、オリックス時代にも紅白戦で金子千尋がイチローに対して変化球を投げた時には、金子に対して直球で勝負しろと叱責したことがある。 ただし、自著「反骨心」では2004年の時点で戦力外通告されることを前もって知らされていたとのこと。 「死にたいくらいに憧れた 花の都大東京」の一節を、自分が子供の頃から巨人軍に憧れていた事に重ね合わせたもの。 名球会からの除名には至らなかった。 現役引退した翌2009年度より制定された表彰。 歴代最多安打・本塁打の記録保持者としての功績を讃えての記念表彰となった。 ただし、番組内では骨折したことは言及されず、スポーツ新聞で事前に報道されていた。 出典 [ ]• 国内情勢研究会『』『』 1. 幼少期=王パジャマと長嶋パジャマ• 著者・平井勉『素顔の勇者たち 夢を貫く情熱のバッター 清原和博』2005年、11頁。 - Number Web、2009年8月14日(永谷脩)• - TOYOTA Athlete Beat - 藤木直人、伊藤友里 - TOKYO FM 80. 0MHz 14. 週刊ベースボールONLINE• - スポーツ報知 蛭間豊章記者の「Baseball inside」• (1984年8月11日付 日刊スポーツ)• - スポーツニッポン、2017年8月21日• - アサ芸プラス、2016年8月21日• - スポーツ報知、2016年2月5日• (1985年3月30日付 日刊スポーツ)• デイリースポーツ 2015年5月19日発信 2015年5月20日閲覧• 産経WEST 2015年7月8日15時46分• スポニチアネックス• スポニチアネックス. 2007年10月7日. 2012年9月12日閲覧。 日刊スポーツ. 2016年1月13日閲覧。 著、「闘い」の方程式 トップを目指し続けた男の「人生哲学」 文庫ぎんが堂 、イースト・プレス、2018年、153頁• スポーツニッポン. 2007年9月23日. 2012年9月12日閲覧。 スポーツ報知 2015年 10月11日22時2分配信 2015年10月27日閲覧• 日刊スポーツ 1990年12月13日 2015年10月27日閲覧• スポニチアネックス. 2012年5月3日. 2012年7月9日閲覧。 『清原和博 告白』、2018年、93頁、• 著『監督論 日本シリーズを制した27人の名将』、2013年。 127頁。 日刊スポーツ 1996年11月16日• 日刊スポーツ 2000年5月25日. 2009年12月31日時点のよりアーカイブ。 2019年12月28日閲覧。 清原和博「告白」 p. 126-128• 清武英利『巨魁』ワック、2012年。 104-108頁。 『Sports Graphic Number』632号、26頁、雑誌26854-7・28• スポニチアネックス 2012年7月14日• 東京スポーツ 2012年12月15日• 清武英利『巨魁』ワック、2012年。 112頁。 清原和博「告白」 p. 138• 清武英利 『巨魁』 ワック、2012年、107-108頁• スポーツ報知 報知新聞社. 2008年10月2日. の2008年10月15日時点におけるアーカイブ。 [ ]• 日刊スポーツ 2008年10月2日• (2008年10月4日時点の) - NPB• リアルライブ 2014年3月14日11時45分• 週刊文春2014年8月14日・21日号38頁• スポニチアネックス. 2015年5月12日. 2015年5月12日閲覧。 ORICON STYLE 2015年4月2日• デイリーニュースオンライン 2015年8月30日• スポーツ報知. 2016年2月3日0時47分. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年5月18日閲覧。 2016年2月3日0時47分. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年2月4日閲覧。 『中日新聞』2016年2月6日朝刊31面「群馬で覚せい剤購入か 清原容疑者 都内ホテルから成分」• 『東京新聞』2016年2月5日朝刊6面「衆院予算委 論戦の焦点 2016. - 国会会議録検索システム• 『中日新聞』2016年2月23日夕刊11面「清原容疑者を再逮捕 覚せい剤使用 所持罪で起訴」• 『中日新聞』2016年3月16日朝刊29面「覚せい剤使用疑い 清原容疑者追起訴」• 『中日新聞』2016年3月16日夕刊11面「清原被告の保釈を請求」• 『中日新聞』2016年3月18日朝刊34面「清原被告を保釈『必ず更生』」• 『中日新聞』2016年4月2日朝刊33面「清原被告を追起訴 東京地検、捜査終結」• 産経WEST. 2016年2月22日. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年2月23日閲覧。 産経WEST. 2016年2月22日. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年2月23日閲覧。 ORICON STYLE 2016年2月3日12時51分. 2016年12月1日時点のよりアーカイブ。 2016年2月23日閲覧。 産経新聞. 2016年5月17日20時57分. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年5月18日閲覧。 産経新聞. 2016年5月17日20時57分. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年5月18日閲覧。 産経新聞. 2016年5月17日18時44分. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年5月18日閲覧。 朝日新聞. 2016年5月31日. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年6月2日閲覧。 産経新聞. 2016年6月15日7時26分. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年12月2日閲覧。 2016年6月16日. の2016年12月1日時点におけるアーカイブ。 2016年12月1日閲覧。 『中日新聞』2016年7月5日夕刊10面「清原元選手知人に有罪」• 2016年12月1日. の2016年12月2日時点におけるアーカイブ。 2016年12月1日閲覧。 2016年11月30日. の2016年12月2日時点におけるアーカイブ。 2016年12月1日閲覧。 - SANSPO. 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"俺の苦言を聞け! 悟空出版. 41~48• 太田肇著『「」の呪縛』新潮社、2019年、。 ライブドアニュース 2015年8月29日11時2分• スポニチアネックス. 2016年2月8日. 2016年2月11日閲覧。 スポニチアネックス 2015年5月12日• 時事通信 2009年11月3日• 64頁。。 - 清原特集 巨人復刻ニュース : nikkansports. com• 『2000』1999年12月発売、860頁。 岸和田市 2009年3月3日. 2017年12月4日閲覧。 産経WEST 産業経済新聞社. 2016年5月31日. 2017年12月4日閲覧。 エキサイトニュース. 90s チョベリー 2015年9月22日. 2020年6月9日閲覧。 アサ芸プラス. 2016年2月5日. 2016年5月18日閲覧。 関連項目 [ ]• - 元社会人野球選手の実弟。 - 巨人時代からのテーマ曲。 - 本人公認の芸人。 - 主人公のモデルになったギャグ漫画。 - 主人公のモデルになったギャグ漫画。 (通称『番長日記』) - 雑誌FRIDAY・週刊現代に不定期で掲載されていた、清原の写真に推測での清原の心理描写を加えた記事。 外部リンク [ ]• - NPB. jp 日本野球機構• 選手の各国通算成績 、.

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