「ねえ、おかしくないかな?」 時の上皇の寵姫、玉藻は焦っていた。 今日はこれから大陸から招いた特使との謁見が予定されている。 「もう、大きな鏡があればいいのに!」 茘の後宮にいた時に特使から貰った、あの見事な姿見があれば。 (つい昔の事を思い出しちゃう) 「大丈夫でございますよ。 いつもよりお美しいです」 女房がくすくす笑いながら答える。 「ひどーい!確かにいつも埃まみれだけどさ!」 とても高貴な身分とは思えぬ口ぶりと幼さの残る表情に、側仕えの女房は笑いを抑えられない様子だ。 「まだお時間はございますから、それほど慌てずとも」 「そっか。 早く会いたい、って気持ちばっかり先走るんだよね」 「仕方ございませんわよ。 玉藻さまの故郷の…お友達なのでしょう?」 「そう。 友達で、命の恩人」 故郷の街の灯りが脳裏に浮かび、玉藻の郷愁を誘う。 祭りの日に皆でお面の色付けをして被ったっけ。 響迂たち…大丈夫だったかな。 最後の日の冷たさも蘇り、玉藻の身体がぶるりと震えた。 「玉藻さま?大丈夫ですか?」 「うん、何でもない。 大丈夫」 (もう、楼蘭はいないんだ) 大丈夫。 私は玉藻。 そう自らに言い聞かせ、余所行きの顔を貼りつける。 「…無理。 嬉しくて笑っちゃう」 「よろしいと思いますよ?玉藻さまらしくて」 「うん…そうだよね。 よし、行こう!」 [newpage] それほど高くない天井は、何事も床に座って行なうこの国の文化に合わせたものだろう。 回廊と同じ板張りの間の、更に奥には草を編んで作った畳と呼ばれる敷物が置かれ、高貴な方と直接相対する事の無いよう御簾が掛けられている。 (子す…玉藻さまはかなり位の高い人物みたいですね) 猫猫は斜め前に座る夫に声を掛ける。 本来なら男女がこのように公の場で並ぶ事は無いらしいのだが、特例として同席を許された。 それでも、男尊女卑はこの国でも同様らしく半歩下がっての配置だ。 (…静かに。 猫猫がむくれていると、御簾の向こうからかたりと音がして、人の入ってきた気配がする。 「面を上げよ」 この場合、すぐに上げたら不敬にあたるんだっけ。 どうしたら良いのだろう。 夫の様子を見ようと少し顔を傾けたら…既に間近に懐かしい顔が迫っていた。 「猫猫、久し振り!」 [newpage] 「すっっっっごい怒られた」 「あははは。 だろうね」 猫猫が頭を下げていたあの一瞬で、子翠は御簾をかなぐり捨て、重い衣の裾をたくし上げ、どたばた床を鳴らして走り寄ったらしい。 「次の帝の御生母ともあろうお方が!だってさ」 「そうなの?ってか、子…じゃなかった、今は玉藻だっけ、子供いるんだ」 「うん。 生まれたばっか。 ほんとはさー、一緒に虫取りとかしたいんだけど、立場上難しいかなー」 「次の帝、って言ってたね」 「そう。 色々と複雑でさ。 今上はお優しいからうちの子も可愛がってくださるけど、周りの人間がね」 (国は違えどどこも同じか) 茘の主上とその東宮。 そして皇弟瑞月。 家族は皆仲良くやっているけれど、水面下で陰謀渦巻くのは望む望まないに関わらず、高貴な身分では避けられない事だ。 「ところで、そっちはどうなのよ?」 「な、何が?」 「んもう!しらばっくれちゃって!」 肘でうりうりとつつかれるが、何を話せと言うのだ。 特使として随伴した以上、半端な関係で無いのは重々承知だろうに。 「子供は?いるの?何人?」 「二人。 さすがに今回は置いて来たけど」 「そっかー。 旦那に似てる?」 「上の子はそっくり。 侍女が色香にやられて使い物にならずに困ってる」 「あはははは!想像つくわー」 まさか玉藻とこんな話が出来るとは思わなかった。 彼女は勿論そうだが、自分もすっかり変わったな、と猫猫は感慨に耽る。 (今は…幸せなのだろうか) [newpage] 二人並んで虫を探したあの日々はまるで幻だったのではないかと思える程に、遥か昔の事のように感じられる。 「翠苓は…元気?」 「ああ!うん。 皆元気でやってる。 えっと、玉藻の前に柘榴宮の主だった、阿多さまって覚えてるかな?あの方の離宮で一緒に暮らしてる。 趙迂だけは別の所にいるけど」 「趙迂?」 「あ、そっか。 名前変えたんだっけ。 子の一族の生き残りだってばれたら何かとまずいからさ、子供達は皆改名したんだよ」 「そう…それで趙迂…。 良い名だね」 名を変え生まれ変わり、新しい人生を謳歌しているんだ。 もうあの忌まわしい記憶に怯える事も無い。 (良かった…) 「翠苓もね、楽しそうだよ。 はじめはなかなか馴染めなくて堅かったけど、今じゃすっかり皆の良い姉貴分やってる。 うちの子達も懐いててさ、助かってるんだ」 「そう…。 何から何まで有難う。 猫猫」 旧友の肩口にぽすんと額をつける。 懐かしい薬の匂いと、上品な白檀の香り。 堪えきれずに、絹の衣をしとどに濡らしてしまった。 [newpage] 「ねえ玉藻。 今でも虫取りしてるの?」 先程子供の話をした時にそんな事を洩らしていたが、そういう所は相変わらずなのだろうか。 「うん!私から虫を取り上げると何も残らないでしょ」 「私の薬と同じだな」 「でしょ?そっちも相変わらず?」 「うん。 使われてなかった離宮を一つ改築して、薬草園を建ててもらった」 「そうなの?!」 「最初は宮の庭に植えてたんだけど収拾付かなくなって、いっそ建ててしまえ!って夫が」 「あの人も相変わらず猫猫莫迦なんだね…」 (…否定はしない) 「あ」 「ん?何?」 「簪…ごめん。 この国に渡る時に売り払っちゃった」 「いいよ。 私も『それでもいい』って言ったから。 願掛けが実って何よりだよ」 「願掛けか。 猫猫らしくないなと思ったんだよね」 (自分でも意外だった。 でも…願わずにはいられなかった) 「あの時、何を願ったの?」 「あなたの無事を」 本当は国に仇なす大罪人にこんな事を願ってはいけないのだろう。 だがあの日の彼女の…降る雪の儚さにも似た友達の姿を、溶けて消してしまいたくないと思った。 「それと、また会えますように」 簪は戻って来なかったけど、願いは聞き届けられた。 それで良い。 また視界が滲む。 今度は二人とも。 「年取ると涙脆くなって駄目だね」 「そうだね」 「ようこそ、私の国へ」 「今更?!」 ひとしきり笑って泣いて、どちらともなく腹の虫が鳴りまた笑った。 上皇の数いる妃の一人だと玉藻は言うが、東宮の生母という立場もあり広大な敷地の中に幾つか邸が建てられている。 猫猫達にはその内の一軒を客用として宛がわれた。 「ふむ。 おまえ、あの十二単とか言う衣、着てみたか?」 「玉藻に借りて少しだけ。 重くてとてもじゃないけど歩けませんね」 「猫猫みたいな跳ねっ返りには抑止力になって良いかもな」 「失敬な」 茘に生まれて良かった。 あんなんじゃ薬草摘みになんてとても行けやしない。 多少流行もあるみたいで。 玉藻もはじめは頓珍漢な合わせ方をして、田舎者扱いされた、って」 「へえ。 面倒なものなのだな」 「ところで、瑞月さまは何を?」 「まあ、平たく言えば接待を受けていたな。 帝に拝謁して、その後は宴だ。 ここだけの話、退屈極まりない」 (そんな事言って良いのか?国賓なのに) 「この国は今…少し不安定なんだよなあ。 誰についたら得か、とか考える事はどの国の官僚も同じだ。 上皇派とみられる者達が俺に群がってきてな。 辟易したよ」 「そうか、玉藻と知り合いだからか」 「俺も玉藻と話したいなあ。 少し挨拶したきりだし」 かつては命を狙い狙われた間柄だ。 こんな風にのんびり相手を思うのも可笑しな話だ。 「聞いてみますね、玉藻に」 「ああ、頼む」 夫の絹糸のような髪を幾つかの房に纏め、寝る際に髪を入れる専用の箱に収める。 私よりよほど十二単が似合いそうだと思いながら、横たわるその懐に猫猫も潜り込んだ。 [newpage] あれから数日。 今日は街に出ると言うので下男下女用の衣を借り受け、瑞月に軽く火傷痕の化粧を施す。 まあ、ここで誰かに見つかった所でどうと言う事もないのだろうが、本人がやりたがるので仕方無い。 「猫猫ー、準備出来たー?」 騒がしく現れたこの邸の主に、瑞月が会釈する。 「…猫猫どうした、大丈夫か?」 瑞月が心配そうに覗き込み、猫猫の顔を両手で優しく包む。 「…すみません。 少し昔を思い出してしまって」 「辛いのか?」 「いえ、大丈夫です」 「なら良いが。 辛くなったらすぐに俺に言えよ?」 あーあ、と呆れたような声が聴こえ振り返ると、にやにやしながら玉藻がこちらを眺めている。 (忘れてた) 「私はお邪魔のようですなあ」 「は、早く行こう!」 ここが茘なら、毎度の事だと周りが見て見ぬ振りをしてくれるのだが。 こういう場面を久々に会う友達に見られるのは恥ずかしい。 (この国にいる間は控えなければ) 夫が臍を曲げそうだが、これは決定事項である。 [newpage] 市場の活気はどこも変わらない。 威勢の良い呼び込みと、交ざり合う色々な食材の匂い。 子供達が走り回り、値切りの交渉が時折聴こえてくる。 「玉藻、この辺りの人々は海のものを殆ど食べないの?」 「うん。 内陸だからね。 塩もあまり手に入りにくいかな」 「猫猫、何か気になる事でもあるのか?確かに海産物を扱う店が見当たらないが」 瑞月が思う事があるのか、猫猫に訊ねる。 ほんの数十分、街歩きをしながら気がついただけなので確証なんて無い。 だが、茘の内陸部で見られるものと同じ症状の人間が幾人もいたのが引っ掛かる。 「結論は急がなくて良い。 求めてもいないしな、今は。 ただ、憂いがあるなら吐き出せ。 黙って抱え込まれるよりはずっと良い」 「有難うございます。 では…。 海藻や塩に含まれる栄養素が足りないと、関節が痛んだり骨に異常が現れるのですが、それがかなりの人に見られるのです。 女性はより骨に隙間が多く脆いので、店番の小母さんなどは指の関節が変形したり、辛そうな人が何人もいましたね」 「そうなのか」 「本来なら海から塩を含んだ雲が雨を降らし、土地がそれを吸収して作物などからも栄養素を得られるのですが、この一帯は盆地なので降雨量自体少ないのではないでしょうか」 「確かに、あんまり雨は降らないかも」 茘より国土は狭いようだし、海に囲まれているから海産物などは苦労せずとも流通出来そうなものなのに。 「あまり運搬技術とか発達してないのかな?」 「んー、そういう訳でも無いと思うけど」 「この病はいずれ心の臓にも支障をきたすから、早めに対処した方が良いと思う」 「猫猫」 瑞月が首を横に振りながら、猫猫の思考を遮る。 「何とかしたいおまえの気持ちは良く解る。 だが、俺達の出る幕では無い」 「ですが…」 「俺達はこの国の人間では無い。 この国の問題は、この国自身で解決すべきだ。 無慈悲なようだがな。 助言くらいは出来るやも知れないが、内政干渉などもってのほかだ。 それに…玉藻」 「はい」 「恐らくだが、塩の流通に関して何か利権が絡んでいるのではないか?」 「…場所を変えましょうか」 [newpage] 邸に戻り、玉藻が詳しく実情を話してくれた。 「殿下はお気づきかも知れませんが、この国はまだまだ一枚岩では無いのです。 政権の中心であるこの地域に対して、塩を精製する地方豪族が出し渋ったり、値を釣り上げたりして優位に立とうと躍起になってる」 「塩は料理に欠かせないからな。 それを握る豪族と結託して一番先に利権を得た者が、中央でものし上がれるという訳だ」 「民の事など二の次なのですね」 「私がこの国に渡る少し前までは、そんな事無かったみたいなんだけどね。 逆にもう少し地方毎に独立してて、小競り合いくらいはあってもそれなりに平和だったみたい。 歌を詠んだり、野点をしたり」 「国の統一が図られているのかもな。 力を持てば、次はそれを大きく拡げたくなる。 権力者たる者、誰もが夢見る事だ」 「茘は恵まれた国なのですね…」 主上を始め、夫やその臣下達は国と民のために何が出来るか寸暇を惜しんで働いている。 そういう姿を知っているから、私だって夫を支えるため日々努力と研鑽を重ねるのだ。 「悔しいな…」 「悔しいが、何も出来ない。 いつか誰かが歪みに気づいて、正しい道を選ぶ事を願うのみだ」 「ごめんね、猫猫。 私からも上皇さまに話はしてみるけれど、どこまで変えられるか」 「ううん。 有難う。 こちらこそ、頑張ってとしか言えなくて…ごめんね」 [newpage] 茘に帰る前の晩、猫猫は玉藻と並んで床に就いていた。 「へへ。 後宮での雑魚寝を思い出すね」 「懐かしいな。 隣の子が寝相悪くてさ。 毎晩辛かったよ」 「私、歯ぎしり煩くて蹴られた事あるよ」 「それは…隣の子に同情するわ…」 髪が伸び大人の女性に成長した玉藻は、美しい微笑みを湛えて猫猫を見つめている。 「来てくれて有難うね、猫猫」 「うん。 会えてよかったよ、玉藻」 「またいつか、会えるかな」 「茘に来る事は…出来ないの?そちらからの特使も何度か来ているし」 私が来れたくらいだ、上皇の寵姫である玉藻なら簡単に許可が下りそうなものだが。 「猫猫、蝉ってね」 「うん?蝉?蝉ってあの昆虫の?」 「そう。 土の中に何年も何年も潜ったままで、地上に出る準備をするの。 長いものだと、十五、六年とか」 「そんなに?!」 「信じられない事にさ、それだけ準備して地上に出たのにたった二週間の命なの」 寂しさを隠すように玉藻が目を伏せる。 「私が茘を去ってから、七年?まだまだ地上に出る事は許されないよ。 きっと一生無理。 私の世界はもうあそこには無い」 (まあ、あれだけの事をしたしな…) 「それに、決めたの。 この国で何の後ろ楯も無い私が、七年で地上に出られた。 茘で果たせなかった、国をあるべき道へ正すという事。 それを願った父の想いの成就と、あなた達の国に母がやらかしてしまった事への贖罪を、この国で全うしたいの。 私の、この国で」 (そうか。 もう…私の知る子翠はいないんだな) 「子翠」 最後に一度だけ、そう呼びたかった。 「頑張れ。 私も向こうで頑張るから」 「うん。 元気で」 「おやすみ」 「うん、おやすみ」 繋いだ手はそのままに、寝息は規則正しく静寂を支配していった。 [newpage] 茘へ船で帰るには、風に逆らうため往路よりも多少時間が掛かる。 猫猫の心に様々去来する想いも風に浚われ翻弄される。 この旅で旧友に再会し、長い間埋められなかった隙間をどうにか出来ると思ったのだが、距離が拡がったのを思い知らされた。 「猫猫」 「瑞月さま」 「大丈夫か?」 「何か今回…心配ばかりされてますね、私」 「…寒くはないか」 「心が少し」 「そうか」 それだけ言うと、瑞月は猫猫を後ろからそっと包み込んだ。 「私はまだまだ子供でした」 「玉藻の事か?」 「彼女の覚悟を、私は解ってなかった」 「そうか」 「そして、瑞月さまや皆様…国を護る方々の覚悟を」 「難しいだろう?」 「そうですね。 正しい事を成そうとしても、時期が悪いと無駄に終わる。 その正しいと思う事すら、ひょっとしたら正しくないかもしれない」 「正義にとっては悪は悪だが、悪にとっては正義こそ悪だからな。 何を信じるか、己がどの立場にいるかによって同じものでも見え方は正反対になる」 「子昌が正にそうだったのでしょうね」 「…そうだな」 (必要悪、か) 「幸せか、と彼女に訊けなかった」 「ああ」 「何だか…私には訊く資格が無い気がして」 「その気持ちは伝わってるさ」 「だと良いのですが」 玉藻に課せられたものは、昔も今も重い。 何だかんだ夫にこうして護られている私が、それを訊くのは烏滸がましいと思えた。 「さよならも、言えなかった」 「そうか」 「言うべきでした。 彼女の歩く道に、もう私は必要無いのに」 「そうか」 「忌まわしい過去から、もう彼女は解放されるべきなのに」 もう、二度と会う事は無いだろう。 その方が良い。 「猫猫。 おまえは今、幸せか?」 「…だと思います」 「良かった。 ならばその幸せを全力で謳歌しろ。 玉藻の覚悟に恥じぬよう、胸を張れ。 俺も力になるから」 さようなら、大切な友達。 二週間と言わず、しぶとく生きて。 太い幹に掴まって、煩くわんわん鳴いて。 邪険にされたら小便でも引っ掛けて逃げてやれ。 私は私の国で、しぶとく生きるよ。 [newpage] [newpage] 「あっという間でしたね」 そうだね。 会えて良かった。 「…もっと感傷的になられるものとばかり」 私がそんな性格に見える? 「いえ、違いますわね」 でしょ? 「あちらに帰りたいとか…思われないのですか?」 もう、過去だから。 私はこれからを生きたいの。 「今、お幸せですか?」 退屈はしないね。 子供もいるし。 「猫猫さま、でしたっけ。 可愛らしい方でしたね」 良い子でしょ?自慢の友達だったんだ。 「そういえば、あの方」 あの方?猫猫のこと? 「いえ、その夫君の」 ああ。 かっこいいよね。 惚れたの? 「見目麗しいですが、頬の傷が勿体無いなと」 解ってないなあ。 あれが良いんじゃん。 「ええ?!そういうものなのですか?」 そうだよ。 ちなみにあの傷、私がつけたの。 「えええええ?!」 猫猫にちゃんと伝えれば良かったな。 私、ここで幸せだよ、って。 「ねえ、おかしくないかな?」 時の上皇の寵姫、玉藻は焦っていた。 今日はこれから大陸から招いた特使との謁見が予定されている。 「もう、大きな鏡があればいいのに!」 茘の後宮にいた時に特使から貰った、あの見事な姿見があれば。 (つい昔の事を思い出しちゃう) 「大丈夫でございますよ。 いつもよりお美しいです」 女房がくすくす笑いながら答える。 「ひどーい!確かにいつも埃まみれだけどさ!」 とても高貴な身分とは思えぬ口ぶりと幼さの残る表情に、側仕えの女房は笑いを抑えられない様子だ。 「まだお時間はございますから、それほど慌てずとも」 「そっか。 早く会いたい、って気持ちばっかり先走るんだよね」 「仕方ございませんわよ。 玉藻さまの故郷の…お友達なのでしょう?」 「そう。 友達で、命の恩人」 故郷の街の灯りが脳裏に浮かび、玉藻の郷愁を誘う。 祭りの日に皆でお面の色付けをして被ったっけ。 響迂たち…大丈夫だったかな。 最後の日の冷たさも蘇り、玉藻の身体がぶるりと震えた。 「玉藻さま?大丈夫ですか?」 「うん、何でもない。 大丈夫」 (もう、楼蘭はいないんだ) 大丈夫。 私は玉藻。 そう自らに言い聞かせ、余所行きの顔を貼りつける。 「…無理。 嬉しくて笑っちゃう」 「よろしいと思いますよ?玉藻さまらしくて」 「うん…そうだよね。 よし、行こう!」[newpage] それほど高くない天井は、何事も床に座って行なうこの国の文化に合わせたものだろう。 回廊と同じ板張りの間の、更に奥には草を編んで作った畳と呼ばれる敷物が置かれ、高貴な方と直接相対する事の無いよう御簾が掛けられている。 (子す…玉藻さまはかなり位の高い人物みたいですね) 猫猫は斜め前に座る夫に声を掛ける。 本来なら男女がこのように公の場で並ぶ事は無いらしいのだが、特例として同席を許された。 それでも、男尊女卑はこの国でも同様らしく半歩下がっての配置だ。 (…静かに。 猫猫がむくれていると、御簾の向こうからかたりと音がして、人の入ってきた気配がする。 「面を上げよ」 この場合、すぐに上げたら不敬にあたるんだっけ。 どうしたら良いのだろう。 夫の様子を見ようと少し顔を傾けたら…既に間近に懐かしい顔が迫っていた。 「猫猫、久し振り!」[newpage] 「すっっっっごい怒られた」 「あははは。 だろうね」 猫猫が頭を下げていたあの一瞬で、子翠は御簾をかなぐり捨て、重い衣の裾をたくし上げ、どたばた床を鳴らして走り寄ったらしい。 「次の帝の御生母ともあろうお方が!だってさ」 「そうなの?ってか、子…じゃなかった、今は玉藻だっけ、子供いるんだ」 「うん。 生まれたばっか。 ほんとはさー、一緒に虫取りとかしたいんだけど、立場上難しいかなー」 「次の帝、って言ってたね」 「そう。 色々と複雑でさ。 今上はお優しいからうちの子も可愛がってくださるけど、周りの人間がね」 (国は違えどどこも同じか) 茘の主上とその東宮。 そして皇弟瑞月。 家族は皆仲良くやっているけれど、水面下で陰謀渦巻くのは望む望まないに関わらず、高貴な身分では避けられない事だ。 「ところで、そっちはどうなのよ?」 「な、何が?」 「んもう!しらばっくれちゃって!」 肘でうりうりとつつかれるが、何を話せと言うのだ。 特使として随伴した以上、半端な関係で無いのは重々承知だろうに。 「子供は?いるの?何人?」 「二人。 さすがに今回は置いて来たけど」 「そっかー。 旦那に似てる?」 「上の子はそっくり。 侍女が色香にやられて使い物にならずに困ってる」 「あはははは!想像つくわー」 まさか玉藻とこんな話が出来るとは思わなかった。 彼女は勿論そうだが、自分もすっかり変わったな、と猫猫は感慨に耽る。 (今は…幸せなのだろうか) [newpage] 二人並んで虫を探したあの日々はまるで幻だったのではないかと思える程に、遥か昔の事のように感じられる。 「翠苓は…元気?」 「ああ!うん。 皆元気でやってる。 えっと、玉藻の前に柘榴宮の主だった、阿多さまって覚えてるかな?あの方の離宮で一緒に暮らしてる。 趙迂だけは別の所にいるけど」 「趙迂?」 「あ、そっか。 名前変えたんだっけ。 子の一族の生き残りだってばれたら何かとまずいからさ、子供達は皆改名したんだよ」 「そう…それで趙迂…。 良い名だね」 名を変え生まれ変わり、新しい人生を謳歌しているんだ。 もうあの忌まわしい記憶に怯える事も無い。 (良かった…) 「翠苓もね、楽しそうだよ。 はじめはなかなか馴染めなくて堅かったけど、今じゃすっかり皆の良い姉貴分やってる。 うちの子達も懐いててさ、助かってるんだ」 「そう…。 何から何まで有難う。 猫猫」 旧友の肩口にぽすんと額をつける。 懐かしい薬の匂いと、上品な白檀の香り。 堪えきれずに、絹の衣をしとどに濡らしてしまった。 [newpage] 「ねえ玉藻。 今でも虫取りしてるの?」 先程子供の話をした時にそんな事を洩らしていたが、そういう所は相変わらずなのだろうか。 「うん!私から虫を取り上げると何も残らないでしょ」 「私の薬と同じだな」 「でしょ?そっちも相変わらず?」 「うん。 使われてなかった離宮を一つ改築して、薬草園を建ててもらった」 「そうなの?!」 「最初は宮の庭に植えてたんだけど収拾付かなくなって、いっそ建ててしまえ!って夫が」 「あの人も相変わらず猫猫莫迦なんだね…」 (…否定はしない) 「あ」 「ん?何?」 「簪…ごめん。 この国に渡る時に売り払っちゃった」 「いいよ。 私も『それでもいい』って言ったから。 願掛けが実って何よりだよ」 「願掛けか。 猫猫らしくないなと思ったんだよね」 (自分でも意外だった。 でも…願わずにはいられなかった) 「あの時、何を願ったの?」 「あなたの無事を」 本当は国に仇なす大罪人にこんな事を願ってはいけないのだろう。 だがあの日の彼女の…降る雪の儚さにも似た友達の姿を、溶けて消してしまいたくないと思った。 「それと、また会えますように」 簪は戻って来なかったけど、願いは聞き届けられた。 それで良い。 また視界が滲む。 今度は二人とも。 「年取ると涙脆くなって駄目だね」 「そうだね」 「ようこそ、私の国へ」 「今更?!」 ひとしきり笑って泣いて、どちらともなく腹の虫が鳴りまた笑った。 上皇の数いる妃の一人だと玉藻は言うが、東宮の生母という立場もあり広大な敷地の中に幾つか邸が建てられている。 猫猫達にはその内の一軒を客用として宛がわれた。 「ふむ。 おまえ、あの十二単とか言う衣、着てみたか?」 「玉藻に借りて少しだけ。 重くてとてもじゃないけど歩けませんね」 「猫猫みたいな跳ねっ返りには抑止力になって良いかもな」 「失敬な」 茘に生まれて良かった。 あんなんじゃ薬草摘みになんてとても行けやしない。 多少流行もあるみたいで。 玉藻もはじめは頓珍漢な合わせ方をして、田舎者扱いされた、って」 「へえ。 面倒なものなのだな」 「ところで、瑞月さまは何を?」 「まあ、平たく言えば接待を受けていたな。 帝に拝謁して、その後は宴だ。 ここだけの話、退屈極まりない」 (そんな事言って良いのか?国賓なのに) 「この国は今…少し不安定なんだよなあ。 誰についたら得か、とか考える事はどの国の官僚も同じだ。 上皇派とみられる者達が俺に群がってきてな。 辟易したよ」 「そうか、玉藻と知り合いだからか」 「俺も玉藻と話したいなあ。 少し挨拶したきりだし」 かつては命を狙い狙われた間柄だ。 こんな風にのんびり相手を思うのも可笑しな話だ。 「聞いてみますね、玉藻に」 「ああ、頼む」 夫の絹糸のような髪を幾つかの房に纏め、寝る際に髪を入れる専用の箱に収める。 私よりよほど十二単が似合いそうだと思いながら、横たわるその懐に猫猫も潜り込んだ。 [newpage] あれから数日。 今日は街に出ると言うので下男下女用の衣を借り受け、瑞月に軽く火傷痕の化粧を施す。 まあ、ここで誰かに見つかった所でどうと言う事もないのだろうが、本人がやりたがるので仕方無い。 「猫猫ー、準備出来たー?」 騒がしく現れたこの邸の主に、瑞月が会釈する。 「…猫猫どうした、大丈夫か?」 瑞月が心配そうに覗き込み、猫猫の顔を両手で優しく包む。 「…すみません。 少し昔を思い出してしまって」 「辛いのか?」 「いえ、大丈夫です」 「なら良いが。 辛くなったらすぐに俺に言えよ?」 あーあ、と呆れたような声が聴こえ振り返ると、にやにやしながら玉藻がこちらを眺めている。 (忘れてた) 「私はお邪魔のようですなあ」 「は、早く行こう!」 ここが茘なら、毎度の事だと周りが見て見ぬ振りをしてくれるのだが。 こういう場面を久々に会う友達に見られるのは恥ずかしい。 (この国にいる間は控えなければ) 夫が臍を曲げそうだが、これは決定事項である。 [newpage] 市場の活気はどこも変わらない。 威勢の良い呼び込みと、交ざり合う色々な食材の匂い。 子供達が走り回り、値切りの交渉が時折聴こえてくる。 「玉藻、この辺りの人々は海のものを殆ど食べないの?」 「うん。 内陸だからね。 塩もあまり手に入りにくいかな」 「猫猫、何か気になる事でもあるのか?確かに海産物を扱う店が見当たらないが」 瑞月が思う事があるのか、猫猫に訊ねる。 ほんの数十分、街歩きをしながら気がついただけなので確証なんて無い。 だが、茘の内陸部で見られるものと同じ症状の人間が幾人もいたのが引っ掛かる。 「結論は急がなくて良い。 求めてもいないしな、今は。 ただ、憂いがあるなら吐き出せ。 黙って抱え込まれるよりはずっと良い」 「有難うございます。 では…。 海藻や塩に含まれる栄養素が足りないと、関節が痛んだり骨に異常が現れるのですが、それがかなりの人に見られるのです。 女性はより骨に隙間が多く脆いので、店番の小母さんなどは指の関節が変形したり、辛そうな人が何人もいましたね」 「そうなのか」 「本来なら海から塩を含んだ雲が雨を降らし、土地がそれを吸収して作物などからも栄養素を得られるのですが、この一帯は盆地なので降雨量自体少ないのではないでしょうか」 「確かに、あんまり雨は降らないかも」 茘より国土は狭いようだし、海に囲まれているから海産物などは苦労せずとも流通出来そうなものなのに。 「あまり運搬技術とか発達してないのかな?」 「んー、そういう訳でも無いと思うけど」 「この病はいずれ心の臓にも支障をきたすから、早めに対処した方が良いと思う」 「猫猫」 瑞月が首を横に振りながら、猫猫の思考を遮る。 「何とかしたいおまえの気持ちは良く解る。 だが、俺達の出る幕では無い」 「ですが…」 「俺達はこの国の人間では無い。 この国の問題は、この国自身で解決すべきだ。 無慈悲なようだがな。 助言くらいは出来るやも知れないが、内政干渉などもってのほかだ。 それに…玉藻」 「はい」 「恐らくだが、塩の流通に関して何か利権が絡んでいるのではないか?」 「…場所を変えましょうか」[newpage] 邸に戻り、玉藻が詳しく実情を話してくれた。 「殿下はお気づきかも知れませんが、この国はまだまだ一枚岩では無いのです。 政権の中心であるこの地域に対して、塩を精製する地方豪族が出し渋ったり、値を釣り上げたりして優位に立とうと躍起になってる」 「塩は料理に欠かせないからな。 それを握る豪族と結託して一番先に利権を得た者が、中央でものし上がれるという訳だ」 「民の事など二の次なのですね」 「私がこの国に渡る少し前までは、そんな事無かったみたいなんだけどね。 逆にもう少し地方毎に独立してて、小競り合いくらいはあってもそれなりに平和だったみたい。 歌を詠んだり、野点をしたり」 「国の統一が図られているのかもな。 力を持てば、次はそれを大きく拡げたくなる。 権力者たる者、誰もが夢見る事だ」 「茘は恵まれた国なのですね…」 主上を始め、夫やその臣下達は国と民のために何が出来るか寸暇を惜しんで働いている。 そういう姿を知っているから、私だって夫を支えるため日々努力と研鑽を重ねるのだ。 「悔しいな…」 「悔しいが、何も出来ない。 いつか誰かが歪みに気づいて、正しい道を選ぶ事を願うのみだ」 「ごめんね、猫猫。 私からも上皇さまに話はしてみるけれど、どこまで変えられるか」 「ううん。 有難う。 こちらこそ、頑張ってとしか言えなくて…ごめんね」 [newpage] 茘に帰る前の晩、猫猫は玉藻と並んで床に就いていた。 「へへ。 後宮での雑魚寝を思い出すね」 「懐かしいな。 隣の子が寝相悪くてさ。 毎晩辛かったよ」 「私、歯ぎしり煩くて蹴られた事あるよ」 「それは…隣の子に同情するわ…」 髪が伸び大人の女性に成長した玉藻は、美しい微笑みを湛えて猫猫を見つめている。 「来てくれて有難うね、猫猫」 「うん。 会えてよかったよ、玉藻」 「またいつか、会えるかな」 「茘に来る事は…出来ないの?そちらからの特使も何度か来ているし」 私が来れたくらいだ、上皇の寵姫である玉藻なら簡単に許可が下りそうなものだが。 「猫猫、蝉ってね」 「うん?蝉?蝉ってあの昆虫の?」 「そう。 土の中に何年も何年も潜ったままで、地上に出る準備をするの。 長いものだと、十五、六年とか」 「そんなに?!」 「信じられない事にさ、それだけ準備して地上に出たのにたった二週間の命なの」 寂しさを隠すように玉藻が目を伏せる。 「私が茘を去ってから、七年?まだまだ地上に出る事は許されないよ。 きっと一生無理。 私の世界はもうあそこには無い」 (まあ、あれだけの事をしたしな…) 「それに、決めたの。 この国で何の後ろ楯も無い私が、七年で地上に出られた。 茘で果たせなかった、国をあるべき道へ正すという事。 それを願った父の想いの成就と、あなた達の国に母がやらかしてしまった事への贖罪を、この国で全うしたいの。 私の、この国で」 (そうか。 もう…私の知る子翠はいないんだな) 「子翠」 最後に一度だけ、そう呼びたかった。 「頑張れ。 私も向こうで頑張るから」 「うん。 元気で」 「おやすみ」 「うん、おやすみ」 繋いだ手はそのままに、寝息は規則正しく静寂を支配していった。 [newpage] 茘へ船で帰るには、風に逆らうため往路よりも多少時間が掛かる。 猫猫の心に様々去来する想いも風に浚われ翻弄される。 この旅で旧友に再会し、長い間埋められなかった隙間をどうにか出来ると思ったのだが、距離が拡がったのを思い知らされた。 「猫猫」 「瑞月さま」 「大丈夫か?」 「何か今回…心配ばかりされてますね、私」 「…寒くはないか」 「心が少し」 「そうか」 それだけ言うと、瑞月は猫猫を後ろからそっと包み込んだ。 「私はまだまだ子供でした」 「玉藻の事か?」 「彼女の覚悟を、私は解ってなかった」 「そうか」 「そして、瑞月さまや皆様…国を護る方々の覚悟を」 「難しいだろう?」 「そうですね。 正しい事を成そうとしても、時期が悪いと無駄に終わる。 その正しいと思う事すら、ひょっとしたら正しくないかもしれない」 「正義にとっては悪は悪だが、悪にとっては正義こそ悪だからな。 何を信じるか、己がどの立場にいるかによって同じものでも見え方は正反対になる」 「子昌が正にそうだったのでしょうね」 「…そうだな」 (必要悪、か) 「幸せか、と彼女に訊けなかった」 「ああ」 「何だか…私には訊く資格が無い気がして」 「その気持ちは伝わってるさ」 「だと良いのですが」 玉藻に課せられたものは、昔も今も重い。 何だかんだ夫にこうして護られている私が、それを訊くのは烏滸がましいと思えた。 「さよならも、言えなかった」 「そうか」 「言うべきでした。 彼女の歩く道に、もう私は必要無いのに」 「そうか」 「忌まわしい過去から、もう彼女は解放されるべきなのに」 もう、二度と会う事は無いだろう。 その方が良い。 「猫猫。 おまえは今、幸せか?」 「…だと思います」 「良かった。 ならばその幸せを全力で謳歌しろ。 玉藻の覚悟に恥じぬよう、胸を張れ。 俺も力になるから」 さようなら、大切な友達。 二週間と言わず、しぶとく生きて。 太い幹に掴まって、煩くわんわん鳴いて。 邪険にされたら小便でも引っ掛けて逃げてやれ。 私は私の国で、しぶとく生きるよ。 [newpage] [newpage] 「あっという間でしたね」 そうだね。 会えて良かった。 「…もっと感傷的になられるものとばかり」 私がそんな性格に見える? 「いえ、違いますわね」 でしょ? 「あちらに帰りたいとか…思われないのですか?」 もう、過去だから。 私はこれからを生きたいの。 「今、お幸せですか?」 退屈はしないね。 子供もいるし。 「猫猫さま、でしたっけ。 可愛らしい方でしたね」 良い子でしょ?自慢の友達だったんだ。 「そういえば、あの方」 あの方?猫猫のこと? 「いえ、その夫君の」 ああ。 かっこいいよね。 惚れたの? 「見目麗しいですが、頬の傷が勿体無いなと」 解ってないなあ。 あれが良いんじゃん。 「ええ?!そういうものなのですか?」 そうだよ。 ちなみにあの傷、私がつけたの。 「えええええ?!」 猫猫にちゃんと伝えれば良かったな。 私、ここで幸せだよ、って。
次の湯浴みの手伝いをしていたら、そのまま湯殿で押し倒された。 明かりはあるし、床は固く濡れているし、そもそもここはそういう用途の場所じゃないぞ、この変態め!と心の中で毒づきながら抵抗していたら、思いがけないことを言われた。 「いい目をするようになったよな」 「は?」 「飢えた雌の目だ」 「は?」 努めて白けた目をしたつもりだが、そう言われた瞬間になぜかカーッと顔が熱くなり、余裕を失って結局好きにされた。 その時以来、自分がおかしい。 婚儀を終えて諸々が落ち着いてきたこの頃、夫となった瑞月の多忙もまた始まった。 当初は毎夜早く帰ってきては求められる上に、そのしつこさに疲弊し、帰って来るなと内心思ったくらいだったが、最近その願いが通じたのか、起きている時間に顔を合わせる日が減った。 (きっとそのせいだ) ふと気付くと、雑巾を握り締めたまま、湯殿の一件を思い出し、ぼんやりしている自分がいた。 (昼間っから何を…) また、カッと顔が火照る。 頭を振って、火照りの元となった記憶を頭から追い出すが、気付くとまた思考が逆戻りしている。 お陰で掃除が進まない。 (水蓮様に怒られる~) 必死に目前の拭き掃除に集中し、何とか事無きを得たが、数日経ってもその傾向は変わらず、むしろひどくなっていった。 何しろ、夫を思い出すだけで、顔が熱くなるようになってきたのだ。 いや、むしろそれが普通の反応とすら言える至高の美貌の持ち主なのだが、今まで無効だったはずの自分がなぜこうなっているのか。 幸い、まともに顔を合わせていないので、特に問題にはなっていないが、毎日の掃除洗濯等をこなす能率は下がっており、1人相撲状態で苦労している。 誰かに相談出来れば良いのだが、相談するのも気恥ずかしい。 と思っていたら、 「小猫、最近ぼーっとしているけど、大丈夫?やっぱり慣れない生活に疲れた?」 バッチリ水蓮様に心配された。 「大丈夫です。 たぶん」 そうとしか言えない。 「でも、しょっちゅう顔が赤いし、熱でもあるんじゃない?小猫、自分のことには鈍そうだもの」 そう言って、額に手を当てられる。 「いえ、熱はないと…」 よくわからないが、アワアワと慌ててしまう。 「じゃあ、何で顔が赤いのかしら?」 そう言われた時、運悪く、また熱が顔に上ってきた。 「どうしたの?真っ赤?」 「自分でもわからないんです。 でも、とにかく気恥ずかしいので、そっとしておいて頂いた方が、早く引くかと…」 「気恥ずかしい?」 一瞬困惑顔になった水蓮様だが、次の瞬間には、何かに気付いた様子で、ニヤニヤ笑いになる。 「わかった。 そっとしておいてあげましょう」 そのしたり顔に、また熱が上がった。 そして、遂に、まともな時間に旦那様が帰ってきてしまった。 「お帰りなさいませ」 顔を伏せて、何とかやり過ごす。 「やっとお前の声が聞けたな」 嬉しそうな甘い声に、また顔が火照るのを感じ、顔を上げられない。 「どうした?」 そりゃそうだ。 不審がられる。 それはわかっているが、居たたまれず逃げ出してしまった。 さぞかし、困惑させただろう。 が、耐えられない。 さあ、何処に逃げ込もう、と、ちょっと立ち止まった途端、グイッと肩と腕を捕まえられた。 「何だ?何か怒らせ…って、顔、真っ赤…」 遂にバレた。 どうしていいかわからず、そのままその場に蹲った。 結局捕まったまま、寝室へ連行され、尋問を受けた。 「どうしたんだ?何故逃げる?何故そんなに顔が赤い?」 「わかりません」 俯いたまま、そう答えた。 「熱でもあるのか?」 水蓮様と同じ心配をされ、額に手を当てられるが、ついでに顔を覗き込まれ、また、顔に熱が集まる。 「うわあぁぁ」 思わず顔を覆って突っ伏すと、呆気にとられた雰囲気が伝わってくる。 「すみません。 ちょっと1人でほっておいてもらえると、治ると思うので…」 必死にそう訴えるが、相手は動く気配がない。 「照れて、る?いや、お前に限ってそれは…」 「わあぁぁぁ!」 「え、本当に?」 雲行きが怪しい。 声が嬉しそうに変わった。 恐れた通り、無理矢理顔を覆っていた手を引き剥がされ、かなり赤くのぼせているだろう顔をまともに見られる。 勿論、耐えられず、こちらはぎゅっと目を瞑ったままだ。 「目を開けろ」 「無理です」 「いいから、開けてみろ」 「嫌です」 「何故だ?」 「余計に顔が火照ります。 動悸もします。 無理です」 ククク、と、忍び笑いが聞こえてくる。 こっちは必死だというのに、こんちくしょう! 「笑わないでください!こっちは必死なんです!」 「いつからだ?」 「はい?」 「いつからそうなった?」 「えっと…」 元になった湯殿の一件を思い出し、また火照りがひどくなる。 「最後に顔を合わせた時は、まだこうではなかったはずだから…」 勝手に遡られている。 まずい。 「あぁ、あの日だな」 見えないのに、ニヤリと笑っているのだろうと推測がつく。 「そんなに、湯殿が恥ずかしかったか?」 「違います!」 「まぁ、いい。 それは些細なことだ。 何でそうなっているか、教えてやろうか?」 「結構です!」 余計に恥ずかしいことを言われる気がして、必死に首を振ったが… 「そういうのを、恋煩いという」 「違います」 「違わない」 「うぅ…」 薄々わかっていたが、告知を受けるとやはり衝撃を覚える。 「面白いな。 普通は、恋から始まって、落ち着いた頃に結婚に至るものだが、逆だ」 「もう、わかりましたから、勘弁してください。 1人にしてください」 恥ずかしくて死にそうだ。 「嫌だ。 かわいいからな」 「もう、耐えられないので、いっそ殺してください。 毒がいいです」 「そうか、わかった」 あれ?ヤケに素直に…と思ったが、口の中へ流し込まれたのは、明らかに甘い吐息と、艶めかしい舌の感触で… 「どこが毒ですか…」 「毒だ。 60年くらいかけて効いてくる」 「絶対違う!」 バタバタと暴れて抗議を示すが、大きな体躯の下に敷かれた痩せぎすの体では、反撃の効力はない。 「ちょっとは我慢しろ。 俺は年単位で煩って、だいぶ苦しんだんだ」 「うぅ…」 「猫猫…」 優しく名を呼ばれ、何となく心が落ち着く。 「やっと煩ってくれたなら、本望だ」 「病名がわかったなら、治します!」 「無理だろ、だって…」 頬に掌の感触がつたう。 「恋につける薬は無いって、昔から言うぞ」 「うわあぁぁー!」 恋煩いが落ち着くまで、この後結構な期間苦しんだ。
次の湯浴みの手伝いをしていたら、そのまま湯殿で押し倒された。 明かりはあるし、床は固く濡れているし、そもそもここはそういう用途の場所じゃないぞ、この変態め!と心の中で毒づきながら抵抗していたら、思いがけないことを言われた。 「いい目をするようになったよな」 「は?」 「飢えた雌の目だ」 「は?」 努めて白けた目をしたつもりだが、そう言われた瞬間になぜかカーッと顔が熱くなり、余裕を失って結局好きにされた。 その時以来、自分がおかしい。 婚儀を終えて諸々が落ち着いてきたこの頃、夫となった瑞月の多忙もまた始まった。 当初は毎夜早く帰ってきては求められる上に、そのしつこさに疲弊し、帰って来るなと内心思ったくらいだったが、最近その願いが通じたのか、起きている時間に顔を合わせる日が減った。 (きっとそのせいだ) ふと気付くと、雑巾を握り締めたまま、湯殿の一件を思い出し、ぼんやりしている自分がいた。 (昼間っから何を…) また、カッと顔が火照る。 頭を振って、火照りの元となった記憶を頭から追い出すが、気付くとまた思考が逆戻りしている。 お陰で掃除が進まない。 (水蓮様に怒られる~) 必死に目前の拭き掃除に集中し、何とか事無きを得たが、数日経ってもその傾向は変わらず、むしろひどくなっていった。 何しろ、夫を思い出すだけで、顔が熱くなるようになってきたのだ。 いや、むしろそれが普通の反応とすら言える至高の美貌の持ち主なのだが、今まで無効だったはずの自分がなぜこうなっているのか。 幸い、まともに顔を合わせていないので、特に問題にはなっていないが、毎日の掃除洗濯等をこなす能率は下がっており、1人相撲状態で苦労している。 誰かに相談出来れば良いのだが、相談するのも気恥ずかしい。 と思っていたら、 「小猫、最近ぼーっとしているけど、大丈夫?やっぱり慣れない生活に疲れた?」 バッチリ水蓮様に心配された。 「大丈夫です。 たぶん」 そうとしか言えない。 「でも、しょっちゅう顔が赤いし、熱でもあるんじゃない?小猫、自分のことには鈍そうだもの」 そう言って、額に手を当てられる。 「いえ、熱はないと…」 よくわからないが、アワアワと慌ててしまう。 「じゃあ、何で顔が赤いのかしら?」 そう言われた時、運悪く、また熱が顔に上ってきた。 「どうしたの?真っ赤?」 「自分でもわからないんです。 でも、とにかく気恥ずかしいので、そっとしておいて頂いた方が、早く引くかと…」 「気恥ずかしい?」 一瞬困惑顔になった水蓮様だが、次の瞬間には、何かに気付いた様子で、ニヤニヤ笑いになる。 「わかった。 そっとしておいてあげましょう」 そのしたり顔に、また熱が上がった。 そして、遂に、まともな時間に旦那様が帰ってきてしまった。 「お帰りなさいませ」 顔を伏せて、何とかやり過ごす。 「やっとお前の声が聞けたな」 嬉しそうな甘い声に、また顔が火照るのを感じ、顔を上げられない。 「どうした?」 そりゃそうだ。 不審がられる。 それはわかっているが、居たたまれず逃げ出してしまった。 さぞかし、困惑させただろう。 が、耐えられない。 さあ、何処に逃げ込もう、と、ちょっと立ち止まった途端、グイッと肩と腕を捕まえられた。 「何だ?何か怒らせ…って、顔、真っ赤…」 遂にバレた。 どうしていいかわからず、そのままその場に蹲った。 結局捕まったまま、寝室へ連行され、尋問を受けた。 「どうしたんだ?何故逃げる?何故そんなに顔が赤い?」 「わかりません」 俯いたまま、そう答えた。 「熱でもあるのか?」 水蓮様と同じ心配をされ、額に手を当てられるが、ついでに顔を覗き込まれ、また、顔に熱が集まる。 「うわあぁぁ」 思わず顔を覆って突っ伏すと、呆気にとられた雰囲気が伝わってくる。 「すみません。 ちょっと1人でほっておいてもらえると、治ると思うので…」 必死にそう訴えるが、相手は動く気配がない。 「照れて、る?いや、お前に限ってそれは…」 「わあぁぁぁ!」 「え、本当に?」 雲行きが怪しい。 声が嬉しそうに変わった。 恐れた通り、無理矢理顔を覆っていた手を引き剥がされ、かなり赤くのぼせているだろう顔をまともに見られる。 勿論、耐えられず、こちらはぎゅっと目を瞑ったままだ。 「目を開けろ」 「無理です」 「いいから、開けてみろ」 「嫌です」 「何故だ?」 「余計に顔が火照ります。 動悸もします。 無理です」 ククク、と、忍び笑いが聞こえてくる。 こっちは必死だというのに、こんちくしょう! 「笑わないでください!こっちは必死なんです!」 「いつからだ?」 「はい?」 「いつからそうなった?」 「えっと…」 元になった湯殿の一件を思い出し、また火照りがひどくなる。 「最後に顔を合わせた時は、まだこうではなかったはずだから…」 勝手に遡られている。 まずい。 「あぁ、あの日だな」 見えないのに、ニヤリと笑っているのだろうと推測がつく。 「そんなに、湯殿が恥ずかしかったか?」 「違います!」 「まぁ、いい。 それは些細なことだ。 何でそうなっているか、教えてやろうか?」 「結構です!」 余計に恥ずかしいことを言われる気がして、必死に首を振ったが… 「そういうのを、恋煩いという」 「違います」 「違わない」 「うぅ…」 薄々わかっていたが、告知を受けるとやはり衝撃を覚える。 「面白いな。 普通は、恋から始まって、落ち着いた頃に結婚に至るものだが、逆だ」 「もう、わかりましたから、勘弁してください。 1人にしてください」 恥ずかしくて死にそうだ。 「嫌だ。 かわいいからな」 「もう、耐えられないので、いっそ殺してください。 毒がいいです」 「そうか、わかった」 あれ?ヤケに素直に…と思ったが、口の中へ流し込まれたのは、明らかに甘い吐息と、艶めかしい舌の感触で… 「どこが毒ですか…」 「毒だ。 60年くらいかけて効いてくる」 「絶対違う!」 バタバタと暴れて抗議を示すが、大きな体躯の下に敷かれた痩せぎすの体では、反撃の効力はない。 「ちょっとは我慢しろ。 俺は年単位で煩って、だいぶ苦しんだんだ」 「うぅ…」 「猫猫…」 優しく名を呼ばれ、何となく心が落ち着く。 「やっと煩ってくれたなら、本望だ」 「病名がわかったなら、治します!」 「無理だろ、だって…」 頬に掌の感触がつたう。 「恋につける薬は無いって、昔から言うぞ」 「うわあぁぁー!」 恋煩いが落ち着くまで、この後結構な期間苦しんだ。
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