で 1991年6月まで続いたととをする制度・。 「」を味する。 17世紀半ばにオランダ人がして以降,南アフリカでは白人による・政策が徐々にしていったが,1948年に政権を握ったはオランダ系白人()を基盤に,より徹底した隔離(差別)制度をつくり上げた。 そのねらいは,南アフリカの住民を白人,黒人(おもに),(白人と有色人種の混血),アジア人(おもに系人)の四つの人種グループに分類し,白人の絶対的優位を前提に政治,経済,社会,文化などあらゆる分野にわたって非白人を差別し(部分的アパルトヘイト),最終的には各人種を別個の社会へと(分離)してしまう(全面的アパルトヘイト)ことにあった。 アパルトヘイトのもとでは,有色人種のは認められず,集団地域法によって各人種の地域を分離し,パス法によって非白人に身分証明書その他を記載した照合手帳の常時携行を義務づけ,雑婚禁止法や背徳法によって白人と有色人種との婚姻や性的交渉を禁止するなど,厳格な政策がとられた。 また人口の圧倒的多数を占める黒人を早い時期に全面隔離する目的で 1959年バンツー自治促進法を制定し,1970年代後半以後,,,などの(ホームランド)への独立付与政策を進めた。 しかし国民党政府に対する国際的,圧力が強まり,国内でも(1976)以後黒人などの抵抗運動がしたため,政府はカラード,インド系人にそれぞれ選挙権を認め,白人議会のほかにカラード議会,インド人議会を設置する三院制憲法を 1983年に採択(1984実施),1985年以降雑婚禁止法,背徳法,パス法などを次々に撤廃し,1986年には黒人との権力分担を声明するにいたった。 1989年9月に P. に代わって F. が大統領に就任すると,改革は急速に進み,1990年2月には , PAC,統一民主戦線 UDF,共産党などの合法化,ネルソン・ ANC名誉議長(のち議長)の釈放,6月の非常事態宣言解除など,対話による問題解決に向けて条件整備が進められた。 10月に公共施設分離利用法が,1991年6月には人口登録法,土地法,集団地域法などの人種隔離(差別)基幹諸法が全廃され,アパルトヘイト体制が終わりを告げた。 1994年に南アフリカ史上初めて全人種参加による制憲議会選挙が実施された。 アフリカ人に対しては分離発展政策による「地域的分離」にまで達していた。 アパルトヘイトは政治、経済、社会の全分野にわたり、すべて法律化され、以下のように大別できる。 1 非白人の参政権のはく奪に関する法。 少数白人支配の基礎となっているが、1984年の人種別三院制議会のにより、カラードとインド人には参政権が与えられた。 2 白人の入植・定着に必要な土地関係法。 3 白人地域でのアフリカ人の移動・居住を制限する法。 4 職場で白人を保護する労働関係法。 5 差別のの1つを成す人種別教育に関する法。 6 以上の法のに対する非白人の反対運動を取り締まる治安関係法。 しかし86年までに、南ア政府は 3 4 を、91年には 2 5 も廃止、 6 の見直しを行った。 残された 1 は93年12月の暫定憲法発効により解消、94年4月に全人種の参加した制憲議会選挙が実施された。 林晃史 敬愛大学教授 / 2007年 出典 株 朝日新聞出版発行「知恵蔵」 知恵蔵について の解説 〈隔離〉を意味するで,とくに南アフリカ共和国の極端な人種隔離・人種差別の政策と制度全体をさす。 同国では少数の白人(517万)が,黒人(3036万),(白人と非白人の混血,344万),アジア人(主としてインド系,103万。 以上1994年推計)を政治的,経済的,社会的に差別してきた。 白人優越主義に基づくこの人種差別は,17世紀半ばのオランダ人の入植開始以降徐々に制度化されていったものである。 そして1948年の(ボーア人)を基盤とする国民党単独政権成立後,より徹底した人種隔離・差別政策・制度へと再編成され,アパルトヘイトと呼ばれるようになった。 アパルトヘイトのねらいは,少数白人の絶対的優位の維持であり,そのために政治・経済・社会,文化など人間生活のあらゆる分野で非白人を差別し(部分的アパルトヘイト),最終的には非白人を人種グループごとに別個の社会へと隔離してしまう(全面的アパルトヘイト)ことであった。 1970年代半ばまでは非白人の参政権の否定(有権者分離代表法など),白人と非白人の結婚や性交渉の禁止(雑婚禁止法,背徳法),人種差別居住区の設定(集団地域法),非白人の移動の自由の制限(パス法)など人種差別的制度の拡充に力点が置かれていた。 しかし1975年のポルトガル植民地解体などによりアフリカ南部における南アの孤立が深まると,差別を緩和しながら人種隔離を急激に推し進める方向へ転換し,かねて黒人自治地域として設定されていたに次々に独立を付与し始めた。 しかし内外の非難,抵抗運動が強まるなかで,1983年憲法によりカラード,インド系人にも参政権を認め(人種別三院制議会),1985年以降雑婚禁止法,背徳法,パス法などの差別法を廃止していった。 さらに内外の圧力が一層高まるなかで,1991年6月大統領はついにアパルトヘイト全廃に踏み切った。 1994年4月に初の全人種選挙で成立した政権のもとで,ポスト・アパルトヘイト社会の構築が開始された。 かつての南アフリカ連邦、およびこれを継承した南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血住民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策であったが、1994年白人国家体制の崩壊とともに法律上は廃止された。 [鈴木二郎] 内容その内容は基本的には17世紀以来のものであるが、1913年の原住民土地法に登場したこの用語が、同国の人種隔離諸政策を包括する用語として広く使われ始めたのは、国民党(NP)が人種差別を制度的に強化した1948年以降である。 しかし政府はその後これを分離発展政策とよびかえた。 その理由は、アパルトヘイトのもつ暗いイメージを軽減することにあった。 政府によれば、伝統、文化、言語などの違う人種や種族は、それぞれ別の地域と社会に分離して、それぞれが固有の生活を営みつつ独自に発展すべきであると表向きには主張したが、その真のねらいは、少数の白人による政治的支配を維持し、安価な労働力を非白人から供給することにあった。 1971年に実施されたバントゥスタン(ホームランド)政策は、絶対多数の黒人を、国土の13%にすぎない辺境不毛の地に設けた種族別の居住地域10地区に住まわせ、名目上の自治権を与えて、最終的には名目だけの独立国として南ア市民権を奪い、経済的には白人に依存せざるをえない黒人を外国籍の出稼ぎ労働者として扱おうとするものであった。 黒人の反対にもかかわらず、トランスケイ、ボプタツワナ、ベンダ、シスケイの4地区は「独立」(1976~1981)させられたが、国際的には独立国として承認されなかった。 そのほか、参政権、政党・組合の結成、居住、結婚と肉体交渉、就職、賃金、教育、医療、宗教、公共施設、娯楽、スポーツなど、日常生活の隅々にわたって非白人を差別する政策が、無数の法と慣行で制度化されていた。 [鈴木二郎] 抵抗と弾圧もちろん国内での抵抗運動と海外からの支援は活発であったが、反対や違反は弾圧法規によって厳しく処罰されたり、慣行によって社会的制裁を受けた。 抵抗組織の非合法化、弾圧による死亡・投獄、令状なしの拘留、亡命が日常茶飯事であった。 これに対する国際世論は厳しかった。 その一端は、国連における経済制裁決議、実質的な国連からの締め出し、および1960年のシャープビル大虐殺(シャープビル事件)を追悼する国連による「人種差別撤廃の日」(3月21日)制定、また南アフリカ連邦を、イギリス連邦からの脱退と南アフリカ共和国創建(1961)に追い詰めたイギリス連邦加盟諸国の政策、さらにスポーツ界の南ア・ボイコットなどに示された。 こうした国際世論と国内での抵抗が相まって南アの政財界を追いつめ、南ア政府は国際経済からの孤立を避けるためにアパルトヘイトを廃止する方向に踏み切った。 この結果、制限職種、労働組合の登録、公共施設や娯楽施設の利用、教育費、スポーツチームへの参加などにおいてアパルトヘイトの一部が緩和され始めた。 しかしこれも、アジア系住民、カラードと黒人を分断する方策がつねに講じられてきたのである。 [鈴木二郎] アパルトヘイト体制の崩壊南アフリカ政府は、1960年のシャープビル事件後アフリカ民族会議(ANC)とパン・アフリカニスト会議(PAC)を非合法化し、1970年の「バントゥ・ホームランド市民権法」、翌1971年の「バントゥ・ホームランド制憲法」により黒人の分離発展政策を推し進めた。 一方、カラードとインド人に対しては1984年に人種別三院制議会を導入して参政権を復活した。 この人種別三院制議会発足を契機に黒人の反政府運動は高まった。 南ア政府は一部地域に非常事態宣言を発令して弾圧したため国際社会の非難が起こり、対南ア経済制裁が強化された。 このためボータ国民党政権は1985年に雑婚禁止法、背徳法、翌1986年にはパス法を廃止したが、一方では非常事態宣言を全土に拡大し反政府運動を弾圧した。 1989年9月大統領となったデクラークは従来の国民党(NP)政権の方針を転換し、黒人との交渉により将来の南アフリカを決めてゆく「対話路線」をとった。 この方針に基づき翌1990年2月にANC、PAC、南ア共産党を合法化し、ANC指導者(のち大統領)N・マンデラを釈放した。 続いて同年5月南ア政府はANCと予備交渉を行い、6月には非常事態宣言を解除した。 この結果、ANCは武力闘争停止を宣言した。 翌1991年2月、大統領デクラークは国会開会演説ですべてのアパルトヘイト法を廃止すると宣言し、6月には人口登録法、原住民土地法、集団地域法を廃止した。 南ア政府のこの動きに対して、EC(ヨーロッパ共同体、のちEU)、アメリカ、日本は次々と経済制裁を解除していった。 ついでアパルトヘイト廃止後の南アフリカの政体を話し合うため全18政党・組織が参加した民主南アフリカ会議が1991年12月と翌1992年5月に開催された。 しかしこの交渉中、ANC系組織とズールー人を基盤とするインカタ自由党(IFP)との武力衝突がトランスバール州(現ハウテン州など)、ナタール州(現クワズールー・ナタール州)で頻発し多くの死傷者が出、交渉はしばしば中断・延期された。 しかし1993年4月に多党交渉フォーラムが開かれ、26政党・組織が参加した。 このフォーラムにより選挙までの移行期の政体として全政党・組織が参加した暫定政府が同年12月に発足し、同時に暫定憲法を制定した。 この暫定憲法に基づき翌1994年4月、南ア史上初の全人種が参加した制憲議会選挙が実施され、5月にマンデラ新政権が樹立された。 [林 晃史] 民主化後の南アフリカ暫定憲法の権力分与条項に基づきマンデラ政権はANC、国民党、インカタ自由党との連立政権となった。 大統領マンデラは政治面では民族和解・協調を呼びかけ、経済面ではアパルトヘイト体制下で起こった白人・黒人間の格差の是正と経済制裁による経済不況からの回復を目ざした。 民族和解・協調のためアパルトヘイト体制下の政治的抑圧や人権侵害の真相を明らかにし、被害者の復権を目ざす真実和解委員会が1994年12月に発足し、公聴会が開かれ、次々に真相が暴露されていった。 一方、2年以内に新憲法を制定するという暫定憲法の規定に従い、1994年5月制憲議会が発足した。 焦点は中央集権国家か地方分権国家かであり、後者を主張するインカタ自由党は制憲議会から脱退した。 そして1996年5月に採択された新憲法では権力分与条項が削除されたため、国民党は連立政権から離脱した。 経済政策では富の再配分と経済成長を両軸とする復興開発計画(RDP)が実施されたが、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足からとくに再配分の実施は遅れ、黒人の新政権への不満は高まった。 このため1996年6月、政府は経済成長を重視するマクロ経済成長戦略(GEAR)を発表、高い経済成長率によって再配分問題も解決しようとした。 この政策転換に対し、白人の南ア財界は歓迎したが、黒人はRDPからの逸脱として激しく非難した。 一方、大司教ツツを委員長とする真実和解委員会の最終報告書は1998年10月に公表された。 同報告書は人権侵害を行った人物や団体を指摘し、加害者に対し刑事訴追を要求した。 RDPとGEARの実施にもかかわらず南ア経済の回復は遅く、とくに黒人の失業問題は解決せず、このため社会犯罪が激化し、このことは先進諸国の対南ア投資、企業進出が進まない大きな原因となっている。 マンデラはこの総選挙を機に政界から引退した。 ムベキは引き続きGEARを押し進めるとともに、冷戦終結後、周縁化が進むアフリカ大陸を、援助よりは貿易と投資を通じて活性化させようとするアフリカン・ルネサンス構想を打ち出した。 【前史】ケープ植民地ではオランダ支配時代,すでに18世紀初めからアフリカ人の奴隷に対する差別政策が行われていたが,1814年のウィーン会議後,この地域がイギリス領になると,比較的リベラルなイギリス政府の諸施策で28年にパス法廃止,34年に奴隷解放令が発布された。 【形成期】1910年の南アフリカ連邦成立後,人口面で劣勢のイギリス系白人は支配体制確立をめざし,オランダ系白人(アフリカーナー)の協力を得るため,その差別政策を認めた。 その結果,1911年には最初の差別立法とされる鉱山労働法,13年には白人が全土の97%を占めるようにした先住民土地法,36年にはアフリカ人の参政権を奪った先住民代表法など,数多くの諸法が制定された。 【確立期】社会全体の体制としての確立は,1948年から始まった。 アパルトヘイトをスローガンに掲げた,保守的なオランダ系白人を支持基盤とする国民党が選挙の結果単独政権を獲得すると,雑婚禁止法・集団地域法・人口登録法・バントゥー教育法・公共施設分離法など,一連のアパルトヘイト法を矢継ぎ早に制定した。 アフリカ諸国の独立運動に加え,世界中で人種隔離政策への非難が高まるなか,アパルトヘイト諸法を国家基盤に据えたこの国は,1961年イギリス連邦を脱退して南アフリカ共和国を成立させ,国内では人種別居住地隔離のホームランド政策を徹底させた。 【抵抗から終焉へ】アフリカ民族会議(ANC)を中心とする抵抗運動は,1960年代以降,シャープビル虐殺事件(1960),蜂起(1976)などを通じて高まった。 また1967年12月,国際連合総会は同国に対する経済制裁を採択した。 の強化(1985)に加えて,国内のアフリカ人労働組合や白人・インド人・カラード(白人との混血)を含んだ市民グループによる広範な反アパルトヘイト運動が高揚し,1980年代後半からボタ政権に対する反政府運動が高まった。 1989年からのデクラーク政権はアフリカ人との対話をすすめ,90年にANCのリーダーのひとりネルソン=マンデラの釈放,非合法化されていた反アパルトヘイト組織の合法化を行い,91年6月,最後まで残っていたアパルトヘイトの根幹法である人口登録法・集団地域法・先住民土地法の3法を廃し,法的にアパルトヘイト体制が終焉した。 体制廃絶に向けての経済的・社会的課題は残されているものの,1994年の全人種による制憲議会選挙の結果,マンデラが大統領に就任した。 1999年6月の選挙で,大統領はANC議長のターボ=ムベキに交替した。 また同年3月,南アフリカのシャープビルという町でのアパルトヘイト政策に反対する平和的集会に対し同国政府が強権で臨み,流血の惨事 が発生したため,国連安全保障理事会は,南アフリカの事態が国際的摩擦に発展し,継続すれば国際の平和と安全を危うくすると決議した。 さらに60年には18ヵ国が植民地から独立し,アフリカの16ヵ国がその秋一挙に国連に加入した。 … 【南アフリカ】より …東部の一角にレソト王国を包み,ナミビア中西部のウォルビス・ベイ,はるか南東方インド洋上のプリンス・エドワード諸島を領有する。 第2次世界大戦後,アフリカ人への主権移行がアフリカ各地で次々に実現している状況のなかで,少数白人による人種差別政策をつづけて譲らず,アフリカ統一機構 OAU はもちろん,国連におけるたび重なる非難決議を無視し,世界から孤立した存在となった。 しかし,長く,また多くの犠牲を伴った反アパルトヘイト運動と国際的な環境の変化にともなって,アパルトヘイトの廃止が進み,94年には初の全人種参加選挙による新政権が発足。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.
次の歴旅ライターのまえてぃーです。 突然ですが、みなさんは「お前肌の色が他の人と違うから一緒に生活したらダメ」って言われたらどうします? さらには、 「お前、背が低いから 高いから みんなと一緒の学校に行っちゃダメ」 「お前、目の色がみんなと違うからみんなと一緒の地域に住んじゃダメ」 「お前の親、みんなと違うからお前も違うに決まってるからここにいちゃダメ」 …何も悪いことなんてしていないのに、こんなこと言われたらどうしますか? ただ、生まれた瞬間から持っていたものを否定され、嫌われ、差別される。 そんな風に世間から言われたらどんな気持ちがしますか? 今回ご紹介したい場所はここ、 南アフリカ「アパルトヘイト ミュージアム」。 そんなアパルトヘイトについて考えるとき、きっとあなたは生まれた意味を考える。 人と人は共存できないのか。 区別することに何の意味があるのか。 差別することが何を生み出すのか。 そして、それでも人の強さを信じたい。 自由であることを思い出したい。 人種を超えて手を取り合える日が来ることを願わずにはいられない。 魂が震える南アフリカ「アパルトヘイトミュージアム」 ぜひ最後までご覧ください。 南アフリカの国旗。 1488年、世界はあの大航海時代。 スペインやポルトガルがヨーロッパを超えてアフリカやアジア進出を目指していた時代に、ポルトガルがアフリカ最南端「喜望峰」を発見。 1600年代、オランダが南アフリカの現ケープタウンを植民地化し、占領しました。 1700年代後半になると、金やダイヤモンドなどの鉱山物を巡りイギリスが介入。 オランダはイギリスへ植民地を壌土しました。 南アフリカには多数のイギリス人が移住。 力を持つイギリス人、つまり白人と、それ以外の人 以下、非白人 に国民は二極化されていきました。 第二次世界大戦以降、世界は脱植民地を唱え始め、1960年代は「アフリカの年」と呼ばれるほど、アフリカの国々が支配されていたヨーロッパの国々から独立を果たしていくわけですが、南アフリカだけはそれが難しかったのです。 なぜなら、南アフリカ政府は世界と真逆なほど、人種差別をより強固にしていったからです。 1948年に政権を握った国民党は、絶対白人優位主義を唱え「制度」を作りました。 例えば、非白人の政治への介入はもちろん、経済面や文化や生活、福祉、教育など・・。 例えば、白人が就ける仕事に非白人は就けない。 白人が通える学校に非白人は通えない。 入れないレストラン。 乗れないバス。 座れないベンチ。 生活のあらゆるものが「人種」という肌の色で区別され、一方は優位に、一方には禁止をし、このような流れで「差別大国」が出来上がっていきました。 非白人の多くの髪の毛の質はパーマのような人が多い。 ので、髪の毛にボールペンが刺さって止まったら非白人、テーブルマナーを白人なら知っているので知らない人は非白人。 このアパルトヘイト制度は、 なんと、1991年まで続きました。 1991年と言えば日本では平成3年。 ジュリアナが流行、音楽界では「ラブストーリーは突然に」「どんなときも」「愛は勝つ」」「SAY YES」など今でも誰もが知っているような曲が生まれ、SMAPがデビューした年でもあります。 文化面で大きく花が開いていた頃、遠く離れた、でも同じ地球のとある国では、人々は分断を進め、生まれた場所や肌の色で差別された人々は、あらゆる選択肢を排除され、生きることに価値を見出せない状況が続いていました。 ここに、まえてぃーが旅をする前からずっと行ってみたかった場所がある。 それが、「アパルトヘイト ミュージアム」。 長く制度化されたアパルトヘイトの歴史と内容、そして非白人たちが自由と権利を勝ち取るまでの戦いの様子をその目で見ることができる博物館です。 注目していただきたいのは入り口! チケット売り場でチケットを買うとすぐ入り口があります。 チケット売り場を出て、入り口へ向かいます。 そしてその入り口は二つに分かれています。 それは、 「WHITES」or 「NON-WHITES」に。 つまり「白人」か「非白人」かです。 観光客は自分の肌の色に関係なく、どちらから入るかを選ぶことができます。 みんな面白半分で「どっちから入ろうかな~」と考えながら中へ吸い込まれています。 しかし、入ったら最後、私たちは一気に人種差別の持つ闇と歴史の重みを感じずにはいられませんでした。 実はこのミュージアムの入り口。 中に入るとそのまま白人と非白人のコースに分かれ、お互いの顔は鉄格子で阻まれ、姿こそ見えるけれど 行き来が出来ないようになっているのです! そんなことは知らず、まえてぃーは「非白人」の入り口から入ろうかと考えていました。 ふとその時、白人の親子が入り口へ向かっていきました。 40歳くらいのお父さんと、7歳くらいの女の子の親子でした。 女の子が楽しそうに、「パパ、私は非白人のところから入るね~」とキラキラした笑顔で入って行きました。 そして、「じゃあパパは白人側から入るね」と、女のことは別の入り口へ。 まえてぃーは女の子のすぐ後から非白人の入り口から入りました。 すると、、、。 入り口を超えてもお父さんと出会えない状況に愕然とする女の子。 きっと入り口から出たらすぐにパパと手を繋げると思っていたのでしょう。 パパも同じでいつまで続くか分からない鉄格子の道に戸惑いを隠せません。 鉄格子にしがみつき、「パパ、そっち行きたい」と泣きそうになる女の子。 鉄格子の道にはこの道がいつまで続くのかなど書かれていません。 もちろん事前にも告知されません。 あるのは白人とそれ以外を分けるために使われていた標識と、黒人たちに配られる「黒人証明書」の展示のみでした。 アパルトヘイト ミュージアムの展示物 アパルトヘイトミュージアムでは、この前半部分しか写真撮影は許されていません。 しかし、中盤・後半にかけて出会うことができる資料や映像、非白人たちの想いは今を自由に生きる私たちに忘れていた自由の大切さと偉大さを教えてくれます。 住む場所を決められ、街の中心には住めず、川の近くや土壌がしっかりしていない場所に居住地として閉じ込められる。 反抗したら容赦なく逮捕・暴行の対象となり処刑された人々もいた。 展示物に足枷があった。 展示物に処刑場の模型があった。 展示物の映像に差別される子どもたちがいた。 展示物の映像に声を上げ差別と闘う姿があった。 そして引きずられ、殴られ、蹴られ、血を流す姿があった。 展示物の映像に自由を勝ち取る姿があった。 白人と黒人が手を握り合う姿があった。 時間を忘れて食い入るように見つめ続けた時間でした。 南アフリカ最大都市:ヨハネスブルグというところ まえてぃーはどうしてもこの南アフリカのヨハネスブルグに来たかった。 このアパルトヘイトミュージアムにどうしても来たかったからだ。 ヨハネスブルグをネットで調べると、ホテルから出たらすぐ強盗に会う、とか、道には血まみれの人がよく倒れてる、とかそんな恐怖な出来事しか書かれていない。 確かに以前はそうだったのかもしれないし、今でも夜や小さな路地に入るのは危険も感じる。 しかし、私がヨハネスブルグで出会った人はみんな優しかった。 お店の人に道を聞くと、商品を買わないのにとても丁寧に教えてくれた人がいた。 タクシーなら私が呼んであげると自分のスマホを貸してくれた人がいた。 バスを待ってる間、乗れるまで道路の向こうで見守ってくれた人がいた。 そして、それを白人の人にもしていた。 アパルトヘイトが終わってまだ約30年。 根深いものはまだあるかもしれないが、人が人であるということ、人が人であろうとすること、肌の色に惑わされず、中はみな同じ臓器を持つ人間であり、同じ心をもつ生き物だということ。 そんなことを教えてもらえる場所です。 日本にいると、人種に関する差別は実感することはないかもしれませんが、それでもやはり「生まれ」や「性別」、「経歴」や「学歴」で差別があると感じることはあるのではないでしょうか。 名前も家族構成も性格も考えも「違う」人と一緒に遊んで楽しかったり、語り合ったり、時にはケンカをして傷つけあうこともあったかもしれない。 でも、分かり合えた喜びもあれば、乗り越えた絆もあったはず。 さいごに:「ネルソン・マンデラ」という人について アパルトヘイトについて話すとき、絶対に知っておきたい人がいる。 アパルトヘイト撤廃を訴え続け、1962年に国家反逆罪として逮捕、終身刑となり絶海の孤島、ロベン島の刑務所に収監されます。 それから実に 28年もの間を刑務所で過ごし、それでも差別と闘い続け、希望を持ち続け、釈放後、南アフリカの大統領となった人物です。 「生まれた時から、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。 人は憎むことを学ぶのだ。 もし憎しみを学べるのなら、 愛を教えることもできる。 愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心に届く」 彼の残した言葉です。 憎しみは学ぶもので、愛は教えるもの。 学んでしまった憎しみを、また差別することに抵抗がなくなってしまったことも、愛に変えていけることができる。 そして、それができるのは、今を生きる大人たちだとと言われている気がします。 cookie. floor Date. floor Date. toGMTString ,document.
次のアフリカーンス語で「分離」という意味をもつアパルトヘイト。 白人以外の人種の政治的・社会的権利を奪い、居住区まで指定した差別的政策です。 南アフリカでは長期にわたって施行され、その対象となったのは黒人のほか、インド人やパキスタン人などの有色人種。 国家の予算を減らすため、安くて大量の労働力を確保しようと限定的な居住区に押し込み、白人の絶対的優位を示しました。 そもそも南アフリカで政権を握っていた白人は、かねてからそこに住んでいたわけではありません。 植民地としてオランダからイギリスに譲渡されたことをきっかけに、白人の人口が徐々に増えていき、実権を握りはじめたのです。 彼らは自分たちに有利な法律を制定し、白人以外の人種を差別することで、南アフリカでの立場を向上させていきました。 アパルトヘイトの背景には、南アフリカの発展に大きく影響を与えた鉱山の開発があります。 1860年代に世界最大の金脈が発見され本格的な開発がスタートしましたが、鉱石が地中深くに存在していたため、採掘と運搬のために大量の人手と時間を必要としていました。 労働者の確保が最大の課題となっていたのです。 これを解消するために制定されたのが、「グレン・グレイ法」というもの。 黒人の共同利用の禁止、黒人を一定地域に集める、1年間のうち3ヶ月以上雇用されていない黒人には課税する、などを取り決め、労働力を得ようとします。 この法律はグレン・グレイ地方でのみ通用するものでしたが、アパルトヘイトの原点ともいわれ、1910年に南アフリカ連邦が成立して以降も、同様の意図をもった法律がさまざまな場所え制定されました。 その後、1913年に制定された「原住民土地法」では、人口の大多数を占めていた黒人を南アフリカ全土の9%ほどの土地に居住するよう制限。 さらに、第二次世界大戦後におこなわれた総選挙でオランダ系白人が所属する国民党が勝利したことで、「アパルトヘイト」という政策のかたちが次々と固められます。 こうして南アフリカは、人種隔離国となっていったのでした。 アパルトヘイトの内容 政策の内容の特徴は、白人の優遇と有色人種への制限です。 白人に対しては、 ・参政権 ・環境のよい居住区 ・高いレベルの教育 ・衛生管理と医療設備が完備された施設 これらが与えられるような法整備がおこなわれ、また給料も黒人の6倍から21倍もの額を支給されていたそうです。 一方の黒人や有色人種へは、 ・参政権のはく奪 ・異なる人種間の恋愛、結婚の禁止 ・居住地域の限定、分離 ・身分証明書の携帯の義務付け ・施設の利用の制限 などの措置がとられます。 アパルトヘイトによって、「裕福な白人」と「貧しい黒人・有色人種」という二極化が進行していきました。 この政策をとくに後押ししていたのが、白人のなかの貧困層たち。 彼らの間では排他的思想が蔓延し、自分たちが貧しいのは黒人のせいだという意識を強く持つようになっていたのです。 人種差別が国家的政策として長期にわたり実行されたのは、富裕層だけでなく、貧困層の白人までもが加担したことが大きく関係しています。 ネルソン・マンデラの反アパルトヘイト運動 1918年に、南アフリカのクヌ村という場所で首長の息子として生まれたネルソン・マンデラ。 幼少期から部族社会の闘争の歴史などを学び、また洗礼を受けてキリスト教徒として育ちました。 1944年、「アフリカ民族会議」という政党に入党したことから、彼の反アパルトヘイト運動は本格化していきます。 黒人のみが義務付けられていた身分証明書を焼くなど非暴力を貫いていましたが、1962年に武装闘争路線に変更。 たちまち国家反逆罪で逮捕されました。 ここから彼は、30年近くもの長い期間、牢獄生活を送ることになります。 刑務所内では、アパルトヘイトを主導していたアフリカーナーの歴史や言語を学んだり、少佐が好んでいるラグビーを勉強したりし、相手への敬意の姿勢を崩さなかったそう。 1990年に釈放されたときは、およそ70歳。 ケープタウンでおこなわれた釈放後の第一声には、10万人もの聴衆が集まり、祝福したといいます。 その後も当時の白人大統領デクラークとともにアパルトヘイト撤廃運動を続け、1993年にノーベル平和賞を受賞。 1994年には南アフリカ史上初めてすべての人種が参加する選挙がおこなわれ、大統領に就任しました。 彼は「仕返し」というものをせずにアパルトヘイトを終わらせます。 国際社会も多大なる賞賛を受け、2013年に95歳でその生涯を終えました。 マンデラは民族の和解を呼びかけ、協調を促し、格差の是正に努めました。 土地改革として黒人と白人間の不平等なの配分を見直し、衛生施設など富の再配分を目指します。 しかし財源不足で所得の是正が追い付かず、社会犯罪は増えるばかりでした。 一方でスポーツにおいては、1998年に サッカーワールドカップ初出場。 2010年にはアフリカ大陸で初開催を果たします。 多くの雇用を生んでインフラの整備が進みました。 ただ現在もまだまだ貧困層は多く存在し、格差が無くなったとは言えません。 さらに世界的に見ても犯罪がもっとも多い地域のひとつといわれるほど治安が悪く、多くの問題を抱えていることも理解しておかなければならないでしょう。 全人種の共存を望んだネルソン・マンデラ 日本貿易振興機構(ジェトロ)の駐在員としてアパルトヘイト前後の南アフリカを見てきた著者。 主に経済データを用いて、異なる人種間で共存する社会づくりの難しさと、グローバル化が加速する世界のなかの南アフリカを解説しています。 アパルトヘイト政策が廃止され、正当な権利を白人以外も得ることができた南アフリカ。 しかし、権力者による搾取や政治的腐敗がやまない現状をみると、アパルトヘイトからの解放が必ずしもすべての解決にはつながっていなかったことがわかります。 生々しい現状を知る貴重な資料としておすすめ。 彼らが抱える問題に、私たち読者はどのようなサポートをしていくべきなのでしょうか。 考えるきっかけになるはずです。 国家規模でおこなわれた人種差別。 その恐ろしさと危険性を、私たちはあらためて知る必要があるでしょう。
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