牧野 正幸。 ワークスアプリケーションズ、創業者の牧野正幸氏が退任

「クラウド市場」の今と「SaaSビジネス」の展望~寺田親弘×西澤亮一×間下直晃×牧野正幸

牧野 正幸

- 目次 -• 第24回 株式会社ワークスアプリケーションズ 代表取締役 CEO 牧野正幸 Masayuki Makino 1963年、兵庫県生まれ。 幼少のころから自分の納得のいかないことには絶対に従わない性格。 だだし試験などの成績は抜群で、高校は地元でも難関の公立校へ進学。 アルバイトとバイクレースに明け暮れるが、成績は常にトップクラスを堅持していた。 卒業後は、大手建設会社に就職。 ここで、ソフトウエア開発の仕事に出合う。 入社から1年半後、先輩が起業したシステム開発会社に転職。 大手外資系コンピュータメーカーに出向し、システムコンサルタントとして数々の大規模プロジェクトを手がけた。 その仕事を通じて、日本の大手企業向けERP(基幹業務パッケージソフト)の必要性を痛感。 1994年、有志による開発プロジェクトを発足した。 1996年7月、ワークスアプリケーションズ設立。 起業前に立てた事業計画どおり、5年後にJASDAQ市場に上場を果たした。 同社の中核製品であるERP「COMPANY」は人事・給与システムの分野でトップシェアを獲得。 現在も、極めて順調な成長を続けている。 ライフスタイル 好きな食べ物 自分流グルメにやってます 食べる物にはこだわっていますね。 まずいものを食べると苦痛を感じますから。 別にB級でもC級でもいい、寿司ならここ、肉ならここ、ラーメンならここと、 その店以外行かないと決めているジャンルもあります。 すでに3分の1くらいのジャンルは埋まったのですが、あと3分の2はまだ(笑)。 だから「あの店を越 える味はないか」と、未だ探し続けていますね。 趣味 トライアスロンですね 「頑張る」と「我慢」は同じような意味なんですが、ネガティブに、人にやらされるのが「我慢」。 ポジティブに、やらされる前に自分でやってやるというのが 「頑張る」。 私の中のキーワードのひとつにも「頑張る」という言葉があって、肉体的限界を追い求めるスポーツが好き。 だから今はトライアスロンにはまって いますね。 ほっとする時間 シガーでスローライフ気分を これだけ時間に追われる生活をしていると、どうしてもスローライフを生活の中に取り入れたくなるのです。 昔はタバコを吸っていたのですが、タバコは3秒で 吸えるじゃないですか。 でもシガーはゆっくりと時間をかけて楽しむもの。 私の場合、スローになりたいときはシガーです。 お気に入りの銘柄は 「COHIBA」です。 1週間休みがとれたら 赤道直下の暑い場所へ 今は正直、要らないです。 取ろうと思えばいつでも取れますから。 ただし、どうしても行けと言うなら(笑)、暖かい場所かな。 それも昼も夜も暑いくらいの、タイとかシンガポールとか、赤道直下の国がいいですね。 優秀な人材が活躍するフィールドを構築し、日本企業の情報投資効率を世界レベルへ! 世の中が必要としているにも関わらず、誰も手がけようとしないことがある。 なぜか? それは、目の前に立ちはだかる高いハードルを恐れるあまり、多くの人 たちは普通「できるか、できないか」という思考に陥ってしまうからだ。 しかし、私たち人類の過去の歴史を振り返ってみてほしい。 これまでいくつもの驚くべ き発明、生活を便利にする制度や仕組みが生まれているではないか。 そしていつもそこには、「できるか、できないか」という後ろ向きな思考ではなく、「やる か、やらないか」という前向きな思考を持った、ドン・キホーテのような挑戦心あふれるひとりの人間がいた。 今回紹介する、牧野正幸氏もまさにそのひとりで あると言えよう。 彼は、誰もが「100%失敗する」と断言した、日本版ERPをゼロから開発・販売し、約5年で国内シェアナンバーワンの製品に育て上げ た。 「私がやらなかったら、誰もやろうとしなかった。 それでは、日本の大手企業の国際競争力がなくなってしまうと考えたのです」。 そう言って笑う牧野氏 に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。 <牧野正幸をつくったルーツ. 1> 納得できないことはやらない。 小中では宿題を一度もしなかった 私が生まれ育ったのは兵庫県神戸市。 父は塾を経営していたのですが、「勉強しろ」と言われた記憶はないですね。 逆に「好きに生きろ」と。 それもあってか、小学校の6年間は一度も宿題をしませんでした。 授業の内容は理解していたし、テストでもしっかり点が取れているのに、なぜ宿題をしなければならないのかわからない。 やる意味が全く理解できなかった。 自分が納得できないことは、誰の言うことであれ絶対に聞きませんでしたから、常に先生とは衝突していましたよ。 よく怒られていました。 それでも絶対に聞かない(笑)。 そのくせ、授業中は落ち着きなく騒いでる。 関西はやはりお笑いの本場ですからね。 いつも人を笑わせることばかり考えているわけです。 宿題もしない、授業態度も悪い。 そんな生徒でしたから、 先生にとっては、本当にやりづらい存在だったと思います。 だから通知表の成績はいつも2と3ばっかり。 世の中には4とか5という評価は存在しないんじゃないかと思ってました(笑)。 あ、体育は4だったか。 宿題はいっさいしませんでしたが、本が好きでた くさん読んでいましたね。 小説とかいろいろです。 自分にわからないことができたら、すぐにそれを解決してくれる本を探してた。 そういった意味で、小学生時 代の僕の先生は本だったと言えるかもしれません。 頭の中で自分で考えた物語を空想することも、私の大好きな時間でした。 中学に上がっても、宿題と名がつくものは全くしませんでしたね。 でも、小学生のころとは違って、中学に入るとテストの点が重視されますよね。 私の 場合、テストで良い点を取ることができましたから、それに合わせて成績はぐんぐん上昇して行ったのです。 先生との確執もだんだんなくなりました。 内申もす ごく良くなったと思います。 そうやって楽しい学校生活を送りながらも、私の心の奥底には、何か重たいものがずっと横たわっていました。 それは、周囲と同じ ことをしている自分に対する嫌悪感のようなものだったと思います。 <牧野正幸をつくったルーツ. 1> 難易度の高い公立校へ。 卒業後は大手建設会社に就職 内申点も良くなり、勉強もできた。 だから、公立の普通科であればどこでも行ける感じでした。 さらに難しい私立を受験するという選択もあったのです が、残念ながら家はそれほど裕福ではなかったので、無理して行くのもどうかと。 そして、公立の中で当時もっとも競争率や難易度が高かった学校を選んだのです。 高校時代も、自分が世の中の大勢に溶け込んでいくことへの不安を感じ続けていました。 しかし、まだこの悶々とした気持ちを炸裂させてはいけない。 この不安 を克服するには、まだ自分は力不足だ。 そうやって自分を押さえ込んでいましたね。 「お前はやればできる」といつも私を応援していてくれた両親に恩返しをし たい、喜んでもらいたいという思いもあったのでしょう。 常に成績は1番を目指し、バイクのレースに 夢中になり、アルバイトもたくさん経験しました。 アルバイトではまたいろいろありました。 周囲と自分の時給の差に、納得がいかないわけです。 「どうやった ら自分の時給が上がるのか?」と上司に詰め寄ったりね。 今思えばそんなことでいちいち逆らってても仕方がないんだけど、上司から無茶なオーダーを引き出し て、それをクリアすることで時給を上げてもらったり……。 やはり納得できないことがあるのが、許せないんですよ。 自分の無力さを感じていながらも。 そうやってもがきながらも、卒業のシーズンはやって来ます。 就職に関しては、学校推薦でどこでも好きな企業に入れる状況でした。 化学を学んでいたので、 メーカーに行こうかとも思ったのですが、目に留まったのが建設会社からの求人。 建設会社が化学出身者を求める意外性に面白さを感じました。 親の期待に応え たかったので、できるだけ大きくて有名な企業に入社したいと思っていました。 それで東証一部に上場している建設会社に入社することにしたのです。 入社後の 新入社員研修での成績はトップ。 そして大阪支社へ本配属となりました。 <人生で一度だけの挫折体験> 自分の無力さを痛感し、会社を退職。 知人が起業したベンチャー企業へ転職 自信満々で仕事に就いたのですが、製図が全然できない。 建設系の学部を出ている同期と比べて下手なのは当然としても、半年くらい勉強して頑張っても 全くうまくならない。 どんなに努力してもできないものに初めて出合い、このときはさすがに落ち込みました。 しかしその後、コンピュータ関連の部署に空きが 出まして、異動の辞令が。 これはラッキーでしたね。 そして、あるソフトウエアの開発に携わることになったのです。 コンピュータに触れるのは初めてでした が、ソフトウエアの面白さに私はぐんぐん引き込まれていきました。 ソフトウエア開発の仕事は面白 かった。 すごく集中できましたし。 でも、だんだん会社員としての自分のモチベーションが下がっていくのです。 私自身、いろいろな会社の問題点に気づいて、 それを解決したいと思うのですが、「そこまでお前が考えなくてもいい」「目新しいことに目を向けるな」という雰囲気。 もちろん周囲に頑張っている人はいる のですが、頑張らない人の方が出世していくという矛盾が会社にはありました。 そうすると誰も頑張ろうと思えないですし、本当にできる人のやる気はどんどん そがれてしまいます。 問題点に気づきながらも、見ぬふりをして、組織の色に染められていく……。 これからの人生、ずっとこの会社で我慢しながら生きていくことに耐えら れなくなった。 事前に父にも相談してみました。 「それもいいんじゃないか。 でも二度同じことをしたら絶縁だ」との返事。 自分はこの会社を変えたいと思って いるのに、変える事ができない。 自分がやりたいことができない、そして頑張れないなら、会社を辞めるしかない……。 そして、入社1年半後に会社を退職する 道を選択しました。 これが私の人生で1回だけの挫折経験です。 ちょうどその頃、大手家電メーカーでトップSEだった先輩が、独立して会社を立ち上げるという情報が。 私自身、ソフトウエアの仕事を極めてみたい と思っていましたので、その会社に移ることにしました。 優秀な人材が5、6人集った、小さいながらも高い技術力を武器とするベンチャー企業でした。 <東京へ~24時間戦う仕事人間> システムコンサルの仕事をとおして、この業界の矛盾点が見えてきた 入社後の数カ月かけてプログラム開発をほとんど把握し、次にSEを始めました。 そうやって1年くらい開発仕事を続けていたのですが、結果さえ出せば 何をやっても許される自由な社風の会社です。 そこで、ほとんど営業をしていなかったこともあり、私は顧客にシステムを提案販売する仕事を勝手に始めてみた のです。 それもほとんど飛び込み営業(笑)。 しかもこれがけっこう売れました。 そうこうしているうちに会社から、大手外資系コンピュータメーカーがシステ ムコンサルタントを募っているので、出向のかたちで行ってみないかという打診が。 当時はシステムコンサルタントの仕事内容自体よく理解していなかったと思 うのですが、何となく面白そうだと直感。 引き受けることにして、私は東京にやって来たのです。 ここでも難しいシステ ム開発案件や、トラブル案件など、一般社員が避けて通るような仕事を片っ端から引き受けていました。 社員の3倍、4倍以上の仕事量だったと思います。 その 頑張りの源泉は何だったかというと、昔から考えていた「問題解決」という自分の理念。 無限に自分で問題解決できる仕事が目の前に広がっているわけですか ら、猛烈に忙しかったですが本当に楽しかったですよ。 世のためになる仕事をしているという実感もありましたし。 この会社での7年間は、寝るのも忘れて仕事 に没頭していた時代です。 まさに高度経済成長時代の企業戦士なみ。 当時「趣味は何ですか?」と質問されていたら、間違いなく「24時間、仕事することで す」と答えていたでしょうね(笑)。 そんなある日、後輩からこう言われたのです。 「牧野さんの仕事振りは尊敬できるけど、牧野さんのようにはなりたくない」と。 プライベートに手抜き をしている自分のライフバランスのまずさに気づいてしまった。 それからというもの、失われた7年を取り戻すために死ぬほど遊びまくりました。 移動時間が もったいないので、六本木の小さなマンションに引越しまでして(笑)。 それでもやっぱり仕事は楽しいし手は抜きませんから、睡眠時間はどんどんなくなって いくんですけどね……。 システムコンサルタントの仕事をしているうちに、日本のソフトウエア業界が抱えていたある問題点が見えてきました。 日本企業、特に大手企業のシス テム開発には費用がかかりすぎているということ。 確かにクライアントの業務を楽にしたかもしれないけれど、システムの開発や維持には莫大な費用がかかって いて、経営的に見るとマイナスになっていることが多い。 確かに、SAPやオラクルのような基幹業務向けパッケージソフトは存在していましたが、これをその まま日本に持ち込んでカスタマイズしていくと、ゼロからシステムを開発する金額と変わらなかったりする。 つまり、日本の大企業にぴったりの業務用パッケー ジソフトが存在しないという、とても大きな問題点です。 世の中が必要としているのに誰もやらない。 それを実現することが起業の本質 <有志で開発プロジェクトを発足> 日本の大手企業を救済する!それを本業と肝に銘じて 1994年10月、7年半在籍したシステム開発会社を退職し、個人のシステムコンサルタントとして活動を始めた私は、知り合いのエンジニアたちに声 をかけてパッケージソフト開発プロジェクトの研究会を発足させました。 もちろん「日本の大手企業向けERPが存在しない」という、この大きな矛盾とも言う べき問題を解決するためです。 もうひとつ、私はコンサルタントの仕事をとおして社会貢献ができていると考えてはいましたが、そこは悲しいかな1人力。 やは りパッケージソフトをつくって世に広めるメーカー機能を構築する方が、社会貢献度は大きいじゃないですか。 これはどうしても成し遂げるべき事業であると考 えるようになったのです。 このパッケージソフトの開発には、日本の大企業の幅広い業務知識を有した人材、多 数の優秀なエンジニア、そして莫大な投資が必要となります。 とても私ひとりの手に負えるものではありません。 そこで、研究会でつくったパッケージソフトの 雛形を持って、大手システム開発企業に「この事業をやりませんか」と事業モデル自体を提案しました。 しかし、彼らは彼らでオーダーメイドのシステム開発の 仕事を受託しているわけですから、多額の費用と長い時間をかけてまで、その受託額を減らすようなパッケージソフトをつくりたがらないわけです。 これではい つまでたっても、本来は経営の効率化を図るためのIT化戦略が、大企業にとってはずっと大きなコストのまま。 正直、彼らに対して憤りすら覚えましたね。 そんなとき、研究会に参加していたトップエンジニアである石川芳郎が、「こうなったら自分たちで立ち上げよう」と言ってくれた。 しかし、私と石川以外に最 低もうひとり、マーケティングとマネジメントに長けた人材の必要性を感じていました。 そこで思い当たったのが、私がこれまでの人生の中で一番優秀な人材と 思っていた阿部孝司です。 しかしこのとき、あるコンサルティングファームに在籍していた阿部には、ヘッドハンティングがかかっていて、一部上場企業の副社 長というポストに就くことがほぼ決まっていた。 そこを、「これは日本企業の競争力を高める社会貢献事業なんだ!」と一所懸命に口説きまして、彼を引きずり 込むことに成功します。 そして1996年7月、ワークスアプリケーションズを設立。 私と石川と阿部の3人が共同代表という、パートナーシップ経営の始まりです。 <100%失敗すると断言された起業> 計画どおり、起業5年後にJASDAQ上場。 中核製品も国内トップシェアを獲得 資金集めには相当苦労しました。 ベンチャーキャピタル(VC)を100社以上回りましたが、ほぼ全滅。 1996年当時は今とは相当状況が違ってい て、バブル経済が崩壊した後でもあり、VCは上場が見えている企業にしか投資しないという風潮でしたしね。 誰もが私たちの考えるパッケージソフトの必要性 をある程度認めはするのです。 でもSAPもオラクルなど世界でトップシェアを誇る製品も日本に上陸しているし、中堅や中小企業向けの製品もある。 だから牧 野の考えていることは100%うまくいかないというわけです。 そこだけは全員一致でした(笑)。 でも、それはただのあきらめであって、そんなあきらめで本 当にいいのかと。 必要性があって誰もやらないからこそやるべきじゃないですか。 日本企業はグローバ ルで戦っています。 欧米企業はITでコスト削減に成功しているのに、ITがコストのままである日本企業の国際競争力はそがれてしまいます。 だからVCやア ナリストからのネガティブファクターをほじくり返すような質問にも、しっかりとした正当性が語れるアカウンタビリティを完璧に用意していました。 そんな 中、私たちの考えに共感してくれたのがグロービスの堀義人代表でした。 3000万円の投資を約束してくれたのです。 投資価値を高めるために1年目から黒字化させること、5年後に上場していること。 設立当初に立てた事業計画は、ひとつひとつ狂わせることなく達成してきま した。 これは私たちが優等生であるからではなく、研究開発費を獲得するために毎年出資を受けなければならなかったからという背に腹を代えられない、やむを 得ぬ事情があったからなのです。 1年目の黒字もクリアでき、その後も毎年倍々の勢いで売上高も増 進。 当社の中核製品であるERP「CAMPANY」シリーズは年々強化され、人事・給与関連分野では50%を超えるトップシェアを獲得します。 ITバブル の崩壊、9. 11の同時多発テロの勃発という最悪の市況の中ではありましたが、計画とおり売上高約20億円、利益約4億円の数字で、2001年12月、 JASDAQ市場に上場しました。 <未来へ~ワークスアプリケーションズが目指すもの> これまでの延長はしないと決めた。 11年目からの再起業を決意! 私は、毎年大晦日の年またぎの時間を使って次の1年間を考えることにしているんですが、今年の個人的な目標がトライアスロンに燃えることでしたの で、11時55分から自宅を出て、近所を走りながら考えました(笑)。 設立から今年7月で丸10年。 今年は11年目に入りました。 これまでの10年間で爆 発的な成長をしてきたけれど、11年目もこの延長でいいのかと。 思い返せばこの会社を設立した当時 は、当然ですがゼロからのスタートでした。 しかし、今はとても優秀な人材がグループに1000人もいる。 シェアナンバーワンの製品もある。 上場企業約 500社の顧客をダイレクトに持っている。 もちろん上場もしたので資金も潤沢にある。 もしも、起業時に優秀な人材があと20人いて、製品ができていて、 10社のクライアントがあって、資金が1億円でもあったら、それはもう一気に成長できました。 でも、それらがなかったから苦労しながら、ひとつずつ大切に つくりながら、ここまでやってきたわけです。 そうだ、ここでいったん区切りをつけよう。 そしてここから再度、起業することに決めたのです。 どんどん新しい製品をつくって、優秀な人材をより多く採用していこう。 昨年までがワークス1. 0としたら、今年は一気にワークス2. 0に引き上げて、どん どん挑戦しよう。 投資家の方々にも、あるラインの売り上げと利益はコミットしますが、それ以外はすべて投資に向けることを宣言しました。 もうすでに新製品 のプロジェクトがいくつか走っています。 来年以降の興奮するフィールドはとてつもないものとなると確信しています。 ワークスアプリケーションズができる社会貢献とは何か? 私たちは、日本企業の情報投資効率を世界レベルへ高めること、優秀な人間が働きたくなるシリコン バレーのようなフィールドを提供すること。 この2つを会社の理念として掲げてきました。 どちらもある程度は実現できていると考えています。 もし、私たちが 引退するときには、会社を30分割くらいにして、ベンチャー企業に戻そうと思っています。 当社に集まった優秀な人材には、ゼロベースから会社を立ち上げて いく快感を与えてあげたいですし。 会社とは、人を育てるという社会貢献をすべき場所であると考えていますから。 <これから起業を目指す人たちへのメッセージ> 本気で起業を目指したいなら、問題解決能力を磨いておこう! ドリームゲート読者の方々に限らず、まず言っておきたいのは、起業すること自体を夢見るなということ。 起業なんて誰でもできる。 それよりも重要なことは、 世の中に欠けているものは何か、その上で誰もがやろうとしないことって何だろうと考えてみることです。 その何かを見つけて、「誰もやらないなら仕方ない、 俺がそれをやってやろう」。 そうすれば、あなたは唯一の存在になれるし、何ともかっこいいじゃないですか。 起業の本質とはそこにあると私は考えています。 もしも、その何かが見つからないなら、当社のようなベンチャー企業に入って、自分の力を蓄える期間を設けるといい。 その力とは問題解決をする力です。 ベン チャー企業では、次から次へと問題解決しなくてはいけない仕事が発生します。 問題解決能力を備えることができれば、世の中の矛盾や問題点が見つかったとき に、すぐに起業することができますから。 ちなみに当社には中途採用の制度として、「社会人インターンシップ」「MBAプログラム」「テクノロジスト養成特 待生」という3つのプログラムを用意しています。 各プログラムとも数ヶ月間かけて行う選抜型のスタイルです。 我こそはと思われる方は、ぜひチャレンジして みてください。 最後に学生の方々に一言。 いい会社は世の中にたくさん存在します。 ここでいういい会 社とは、誰が入ってもそれなりの成果が出せる会社であると考えてください。 もしも自分が考える人生設計の中に、絶対に起業はないという方は、そのような大 企業に行かれると良いでしょう。 簡単ではないですが、頑張ればある程度の成果を手にするこことができると思います。 ただし、自分の能力を根底から伸ばし て、いつか起業したいと思っているなら、大企業では無理です。 やはりベンチャー企業に入って、問題解決能力を高めるべきだと。 そしてベンチャー企業で成果 を出すことができて初めて、自分が起業したときにも成果が出せるのではないでしょうか。 <了> 取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン) 撮影:内海明啓.

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ワークスアプリケーションズの牧野CEOが退任、取締役も退く予定

牧野 正幸

- 目次 -• 第24回 株式会社ワークスアプリケーションズ 代表取締役 CEO 牧野正幸 Masayuki Makino 1963年、兵庫県生まれ。 幼少のころから自分の納得のいかないことには絶対に従わない性格。 だだし試験などの成績は抜群で、高校は地元でも難関の公立校へ進学。 アルバイトとバイクレースに明け暮れるが、成績は常にトップクラスを堅持していた。 卒業後は、大手建設会社に就職。 ここで、ソフトウエア開発の仕事に出合う。 入社から1年半後、先輩が起業したシステム開発会社に転職。 大手外資系コンピュータメーカーに出向し、システムコンサルタントとして数々の大規模プロジェクトを手がけた。 その仕事を通じて、日本の大手企業向けERP(基幹業務パッケージソフト)の必要性を痛感。 1994年、有志による開発プロジェクトを発足した。 1996年7月、ワークスアプリケーションズ設立。 起業前に立てた事業計画どおり、5年後にJASDAQ市場に上場を果たした。 同社の中核製品であるERP「COMPANY」は人事・給与システムの分野でトップシェアを獲得。 現在も、極めて順調な成長を続けている。 ライフスタイル 好きな食べ物 自分流グルメにやってます 食べる物にはこだわっていますね。 まずいものを食べると苦痛を感じますから。 別にB級でもC級でもいい、寿司ならここ、肉ならここ、ラーメンならここと、 その店以外行かないと決めているジャンルもあります。 すでに3分の1くらいのジャンルは埋まったのですが、あと3分の2はまだ(笑)。 だから「あの店を越 える味はないか」と、未だ探し続けていますね。 趣味 トライアスロンですね 「頑張る」と「我慢」は同じような意味なんですが、ネガティブに、人にやらされるのが「我慢」。 ポジティブに、やらされる前に自分でやってやるというのが 「頑張る」。 私の中のキーワードのひとつにも「頑張る」という言葉があって、肉体的限界を追い求めるスポーツが好き。 だから今はトライアスロンにはまって いますね。 ほっとする時間 シガーでスローライフ気分を これだけ時間に追われる生活をしていると、どうしてもスローライフを生活の中に取り入れたくなるのです。 昔はタバコを吸っていたのですが、タバコは3秒で 吸えるじゃないですか。 でもシガーはゆっくりと時間をかけて楽しむもの。 私の場合、スローになりたいときはシガーです。 お気に入りの銘柄は 「COHIBA」です。 1週間休みがとれたら 赤道直下の暑い場所へ 今は正直、要らないです。 取ろうと思えばいつでも取れますから。 ただし、どうしても行けと言うなら(笑)、暖かい場所かな。 それも昼も夜も暑いくらいの、タイとかシンガポールとか、赤道直下の国がいいですね。 優秀な人材が活躍するフィールドを構築し、日本企業の情報投資効率を世界レベルへ! 世の中が必要としているにも関わらず、誰も手がけようとしないことがある。 なぜか? それは、目の前に立ちはだかる高いハードルを恐れるあまり、多くの人 たちは普通「できるか、できないか」という思考に陥ってしまうからだ。 しかし、私たち人類の過去の歴史を振り返ってみてほしい。 これまでいくつもの驚くべ き発明、生活を便利にする制度や仕組みが生まれているではないか。 そしていつもそこには、「できるか、できないか」という後ろ向きな思考ではなく、「やる か、やらないか」という前向きな思考を持った、ドン・キホーテのような挑戦心あふれるひとりの人間がいた。 今回紹介する、牧野正幸氏もまさにそのひとりで あると言えよう。 彼は、誰もが「100%失敗する」と断言した、日本版ERPをゼロから開発・販売し、約5年で国内シェアナンバーワンの製品に育て上げ た。 「私がやらなかったら、誰もやろうとしなかった。 それでは、日本の大手企業の国際競争力がなくなってしまうと考えたのです」。 そう言って笑う牧野氏 に、青春時代からこれまでに至る経緯、大切にしている考え方、そしてプライベートまで大いに語っていただいた。 <牧野正幸をつくったルーツ. 1> 納得できないことはやらない。 小中では宿題を一度もしなかった 私が生まれ育ったのは兵庫県神戸市。 父は塾を経営していたのですが、「勉強しろ」と言われた記憶はないですね。 逆に「好きに生きろ」と。 それもあってか、小学校の6年間は一度も宿題をしませんでした。 授業の内容は理解していたし、テストでもしっかり点が取れているのに、なぜ宿題をしなければならないのかわからない。 やる意味が全く理解できなかった。 自分が納得できないことは、誰の言うことであれ絶対に聞きませんでしたから、常に先生とは衝突していましたよ。 よく怒られていました。 それでも絶対に聞かない(笑)。 そのくせ、授業中は落ち着きなく騒いでる。 関西はやはりお笑いの本場ですからね。 いつも人を笑わせることばかり考えているわけです。 宿題もしない、授業態度も悪い。 そんな生徒でしたから、 先生にとっては、本当にやりづらい存在だったと思います。 だから通知表の成績はいつも2と3ばっかり。 世の中には4とか5という評価は存在しないんじゃないかと思ってました(笑)。 あ、体育は4だったか。 宿題はいっさいしませんでしたが、本が好きでた くさん読んでいましたね。 小説とかいろいろです。 自分にわからないことができたら、すぐにそれを解決してくれる本を探してた。 そういった意味で、小学生時 代の僕の先生は本だったと言えるかもしれません。 頭の中で自分で考えた物語を空想することも、私の大好きな時間でした。 中学に上がっても、宿題と名がつくものは全くしませんでしたね。 でも、小学生のころとは違って、中学に入るとテストの点が重視されますよね。 私の 場合、テストで良い点を取ることができましたから、それに合わせて成績はぐんぐん上昇して行ったのです。 先生との確執もだんだんなくなりました。 内申もす ごく良くなったと思います。 そうやって楽しい学校生活を送りながらも、私の心の奥底には、何か重たいものがずっと横たわっていました。 それは、周囲と同じ ことをしている自分に対する嫌悪感のようなものだったと思います。 <牧野正幸をつくったルーツ. 1> 難易度の高い公立校へ。 卒業後は大手建設会社に就職 内申点も良くなり、勉強もできた。 だから、公立の普通科であればどこでも行ける感じでした。 さらに難しい私立を受験するという選択もあったのです が、残念ながら家はそれほど裕福ではなかったので、無理して行くのもどうかと。 そして、公立の中で当時もっとも競争率や難易度が高かった学校を選んだのです。 高校時代も、自分が世の中の大勢に溶け込んでいくことへの不安を感じ続けていました。 しかし、まだこの悶々とした気持ちを炸裂させてはいけない。 この不安 を克服するには、まだ自分は力不足だ。 そうやって自分を押さえ込んでいましたね。 「お前はやればできる」といつも私を応援していてくれた両親に恩返しをし たい、喜んでもらいたいという思いもあったのでしょう。 常に成績は1番を目指し、バイクのレースに 夢中になり、アルバイトもたくさん経験しました。 アルバイトではまたいろいろありました。 周囲と自分の時給の差に、納得がいかないわけです。 「どうやった ら自分の時給が上がるのか?」と上司に詰め寄ったりね。 今思えばそんなことでいちいち逆らってても仕方がないんだけど、上司から無茶なオーダーを引き出し て、それをクリアすることで時給を上げてもらったり……。 やはり納得できないことがあるのが、許せないんですよ。 自分の無力さを感じていながらも。 そうやってもがきながらも、卒業のシーズンはやって来ます。 就職に関しては、学校推薦でどこでも好きな企業に入れる状況でした。 化学を学んでいたので、 メーカーに行こうかとも思ったのですが、目に留まったのが建設会社からの求人。 建設会社が化学出身者を求める意外性に面白さを感じました。 親の期待に応え たかったので、できるだけ大きくて有名な企業に入社したいと思っていました。 それで東証一部に上場している建設会社に入社することにしたのです。 入社後の 新入社員研修での成績はトップ。 そして大阪支社へ本配属となりました。 <人生で一度だけの挫折体験> 自分の無力さを痛感し、会社を退職。 知人が起業したベンチャー企業へ転職 自信満々で仕事に就いたのですが、製図が全然できない。 建設系の学部を出ている同期と比べて下手なのは当然としても、半年くらい勉強して頑張っても 全くうまくならない。 どんなに努力してもできないものに初めて出合い、このときはさすがに落ち込みました。 しかしその後、コンピュータ関連の部署に空きが 出まして、異動の辞令が。 これはラッキーでしたね。 そして、あるソフトウエアの開発に携わることになったのです。 コンピュータに触れるのは初めてでした が、ソフトウエアの面白さに私はぐんぐん引き込まれていきました。 ソフトウエア開発の仕事は面白 かった。 すごく集中できましたし。 でも、だんだん会社員としての自分のモチベーションが下がっていくのです。 私自身、いろいろな会社の問題点に気づいて、 それを解決したいと思うのですが、「そこまでお前が考えなくてもいい」「目新しいことに目を向けるな」という雰囲気。 もちろん周囲に頑張っている人はいる のですが、頑張らない人の方が出世していくという矛盾が会社にはありました。 そうすると誰も頑張ろうと思えないですし、本当にできる人のやる気はどんどん そがれてしまいます。 問題点に気づきながらも、見ぬふりをして、組織の色に染められていく……。 これからの人生、ずっとこの会社で我慢しながら生きていくことに耐えら れなくなった。 事前に父にも相談してみました。 「それもいいんじゃないか。 でも二度同じことをしたら絶縁だ」との返事。 自分はこの会社を変えたいと思って いるのに、変える事ができない。 自分がやりたいことができない、そして頑張れないなら、会社を辞めるしかない……。 そして、入社1年半後に会社を退職する 道を選択しました。 これが私の人生で1回だけの挫折経験です。 ちょうどその頃、大手家電メーカーでトップSEだった先輩が、独立して会社を立ち上げるという情報が。 私自身、ソフトウエアの仕事を極めてみたい と思っていましたので、その会社に移ることにしました。 優秀な人材が5、6人集った、小さいながらも高い技術力を武器とするベンチャー企業でした。 <東京へ~24時間戦う仕事人間> システムコンサルの仕事をとおして、この業界の矛盾点が見えてきた 入社後の数カ月かけてプログラム開発をほとんど把握し、次にSEを始めました。 そうやって1年くらい開発仕事を続けていたのですが、結果さえ出せば 何をやっても許される自由な社風の会社です。 そこで、ほとんど営業をしていなかったこともあり、私は顧客にシステムを提案販売する仕事を勝手に始めてみた のです。 それもほとんど飛び込み営業(笑)。 しかもこれがけっこう売れました。 そうこうしているうちに会社から、大手外資系コンピュータメーカーがシステ ムコンサルタントを募っているので、出向のかたちで行ってみないかという打診が。 当時はシステムコンサルタントの仕事内容自体よく理解していなかったと思 うのですが、何となく面白そうだと直感。 引き受けることにして、私は東京にやって来たのです。 ここでも難しいシステ ム開発案件や、トラブル案件など、一般社員が避けて通るような仕事を片っ端から引き受けていました。 社員の3倍、4倍以上の仕事量だったと思います。 その 頑張りの源泉は何だったかというと、昔から考えていた「問題解決」という自分の理念。 無限に自分で問題解決できる仕事が目の前に広がっているわけですか ら、猛烈に忙しかったですが本当に楽しかったですよ。 世のためになる仕事をしているという実感もありましたし。 この会社での7年間は、寝るのも忘れて仕事 に没頭していた時代です。 まさに高度経済成長時代の企業戦士なみ。 当時「趣味は何ですか?」と質問されていたら、間違いなく「24時間、仕事することで す」と答えていたでしょうね(笑)。 そんなある日、後輩からこう言われたのです。 「牧野さんの仕事振りは尊敬できるけど、牧野さんのようにはなりたくない」と。 プライベートに手抜き をしている自分のライフバランスのまずさに気づいてしまった。 それからというもの、失われた7年を取り戻すために死ぬほど遊びまくりました。 移動時間が もったいないので、六本木の小さなマンションに引越しまでして(笑)。 それでもやっぱり仕事は楽しいし手は抜きませんから、睡眠時間はどんどんなくなって いくんですけどね……。 システムコンサルタントの仕事をしているうちに、日本のソフトウエア業界が抱えていたある問題点が見えてきました。 日本企業、特に大手企業のシス テム開発には費用がかかりすぎているということ。 確かにクライアントの業務を楽にしたかもしれないけれど、システムの開発や維持には莫大な費用がかかって いて、経営的に見るとマイナスになっていることが多い。 確かに、SAPやオラクルのような基幹業務向けパッケージソフトは存在していましたが、これをその まま日本に持ち込んでカスタマイズしていくと、ゼロからシステムを開発する金額と変わらなかったりする。 つまり、日本の大企業にぴったりの業務用パッケー ジソフトが存在しないという、とても大きな問題点です。 世の中が必要としているのに誰もやらない。 それを実現することが起業の本質 <有志で開発プロジェクトを発足> 日本の大手企業を救済する!それを本業と肝に銘じて 1994年10月、7年半在籍したシステム開発会社を退職し、個人のシステムコンサルタントとして活動を始めた私は、知り合いのエンジニアたちに声 をかけてパッケージソフト開発プロジェクトの研究会を発足させました。 もちろん「日本の大手企業向けERPが存在しない」という、この大きな矛盾とも言う べき問題を解決するためです。 もうひとつ、私はコンサルタントの仕事をとおして社会貢献ができていると考えてはいましたが、そこは悲しいかな1人力。 やは りパッケージソフトをつくって世に広めるメーカー機能を構築する方が、社会貢献度は大きいじゃないですか。 これはどうしても成し遂げるべき事業であると考 えるようになったのです。 このパッケージソフトの開発には、日本の大企業の幅広い業務知識を有した人材、多 数の優秀なエンジニア、そして莫大な投資が必要となります。 とても私ひとりの手に負えるものではありません。 そこで、研究会でつくったパッケージソフトの 雛形を持って、大手システム開発企業に「この事業をやりませんか」と事業モデル自体を提案しました。 しかし、彼らは彼らでオーダーメイドのシステム開発の 仕事を受託しているわけですから、多額の費用と長い時間をかけてまで、その受託額を減らすようなパッケージソフトをつくりたがらないわけです。 これではい つまでたっても、本来は経営の効率化を図るためのIT化戦略が、大企業にとってはずっと大きなコストのまま。 正直、彼らに対して憤りすら覚えましたね。 そんなとき、研究会に参加していたトップエンジニアである石川芳郎が、「こうなったら自分たちで立ち上げよう」と言ってくれた。 しかし、私と石川以外に最 低もうひとり、マーケティングとマネジメントに長けた人材の必要性を感じていました。 そこで思い当たったのが、私がこれまでの人生の中で一番優秀な人材と 思っていた阿部孝司です。 しかしこのとき、あるコンサルティングファームに在籍していた阿部には、ヘッドハンティングがかかっていて、一部上場企業の副社 長というポストに就くことがほぼ決まっていた。 そこを、「これは日本企業の競争力を高める社会貢献事業なんだ!」と一所懸命に口説きまして、彼を引きずり 込むことに成功します。 そして1996年7月、ワークスアプリケーションズを設立。 私と石川と阿部の3人が共同代表という、パートナーシップ経営の始まりです。 <100%失敗すると断言された起業> 計画どおり、起業5年後にJASDAQ上場。 中核製品も国内トップシェアを獲得 資金集めには相当苦労しました。 ベンチャーキャピタル(VC)を100社以上回りましたが、ほぼ全滅。 1996年当時は今とは相当状況が違ってい て、バブル経済が崩壊した後でもあり、VCは上場が見えている企業にしか投資しないという風潮でしたしね。 誰もが私たちの考えるパッケージソフトの必要性 をある程度認めはするのです。 でもSAPもオラクルなど世界でトップシェアを誇る製品も日本に上陸しているし、中堅や中小企業向けの製品もある。 だから牧 野の考えていることは100%うまくいかないというわけです。 そこだけは全員一致でした(笑)。 でも、それはただのあきらめであって、そんなあきらめで本 当にいいのかと。 必要性があって誰もやらないからこそやるべきじゃないですか。 日本企業はグローバ ルで戦っています。 欧米企業はITでコスト削減に成功しているのに、ITがコストのままである日本企業の国際競争力はそがれてしまいます。 だからVCやア ナリストからのネガティブファクターをほじくり返すような質問にも、しっかりとした正当性が語れるアカウンタビリティを完璧に用意していました。 そんな 中、私たちの考えに共感してくれたのがグロービスの堀義人代表でした。 3000万円の投資を約束してくれたのです。 投資価値を高めるために1年目から黒字化させること、5年後に上場していること。 設立当初に立てた事業計画は、ひとつひとつ狂わせることなく達成してきま した。 これは私たちが優等生であるからではなく、研究開発費を獲得するために毎年出資を受けなければならなかったからという背に腹を代えられない、やむを 得ぬ事情があったからなのです。 1年目の黒字もクリアでき、その後も毎年倍々の勢いで売上高も増 進。 当社の中核製品であるERP「CAMPANY」シリーズは年々強化され、人事・給与関連分野では50%を超えるトップシェアを獲得します。 ITバブル の崩壊、9. 11の同時多発テロの勃発という最悪の市況の中ではありましたが、計画とおり売上高約20億円、利益約4億円の数字で、2001年12月、 JASDAQ市場に上場しました。 <未来へ~ワークスアプリケーションズが目指すもの> これまでの延長はしないと決めた。 11年目からの再起業を決意! 私は、毎年大晦日の年またぎの時間を使って次の1年間を考えることにしているんですが、今年の個人的な目標がトライアスロンに燃えることでしたの で、11時55分から自宅を出て、近所を走りながら考えました(笑)。 設立から今年7月で丸10年。 今年は11年目に入りました。 これまでの10年間で爆 発的な成長をしてきたけれど、11年目もこの延長でいいのかと。 思い返せばこの会社を設立した当時 は、当然ですがゼロからのスタートでした。 しかし、今はとても優秀な人材がグループに1000人もいる。 シェアナンバーワンの製品もある。 上場企業約 500社の顧客をダイレクトに持っている。 もちろん上場もしたので資金も潤沢にある。 もしも、起業時に優秀な人材があと20人いて、製品ができていて、 10社のクライアントがあって、資金が1億円でもあったら、それはもう一気に成長できました。 でも、それらがなかったから苦労しながら、ひとつずつ大切に つくりながら、ここまでやってきたわけです。 そうだ、ここでいったん区切りをつけよう。 そしてここから再度、起業することに決めたのです。 どんどん新しい製品をつくって、優秀な人材をより多く採用していこう。 昨年までがワークス1. 0としたら、今年は一気にワークス2. 0に引き上げて、どん どん挑戦しよう。 投資家の方々にも、あるラインの売り上げと利益はコミットしますが、それ以外はすべて投資に向けることを宣言しました。 もうすでに新製品 のプロジェクトがいくつか走っています。 来年以降の興奮するフィールドはとてつもないものとなると確信しています。 ワークスアプリケーションズができる社会貢献とは何か? 私たちは、日本企業の情報投資効率を世界レベルへ高めること、優秀な人間が働きたくなるシリコン バレーのようなフィールドを提供すること。 この2つを会社の理念として掲げてきました。 どちらもある程度は実現できていると考えています。 もし、私たちが 引退するときには、会社を30分割くらいにして、ベンチャー企業に戻そうと思っています。 当社に集まった優秀な人材には、ゼロベースから会社を立ち上げて いく快感を与えてあげたいですし。 会社とは、人を育てるという社会貢献をすべき場所であると考えていますから。 <これから起業を目指す人たちへのメッセージ> 本気で起業を目指したいなら、問題解決能力を磨いておこう! ドリームゲート読者の方々に限らず、まず言っておきたいのは、起業すること自体を夢見るなということ。 起業なんて誰でもできる。 それよりも重要なことは、 世の中に欠けているものは何か、その上で誰もがやろうとしないことって何だろうと考えてみることです。 その何かを見つけて、「誰もやらないなら仕方ない、 俺がそれをやってやろう」。 そうすれば、あなたは唯一の存在になれるし、何ともかっこいいじゃないですか。 起業の本質とはそこにあると私は考えています。 もしも、その何かが見つからないなら、当社のようなベンチャー企業に入って、自分の力を蓄える期間を設けるといい。 その力とは問題解決をする力です。 ベン チャー企業では、次から次へと問題解決しなくてはいけない仕事が発生します。 問題解決能力を備えることができれば、世の中の矛盾や問題点が見つかったとき に、すぐに起業することができますから。 ちなみに当社には中途採用の制度として、「社会人インターンシップ」「MBAプログラム」「テクノロジスト養成特 待生」という3つのプログラムを用意しています。 各プログラムとも数ヶ月間かけて行う選抜型のスタイルです。 我こそはと思われる方は、ぜひチャレンジして みてください。 最後に学生の方々に一言。 いい会社は世の中にたくさん存在します。 ここでいういい会 社とは、誰が入ってもそれなりの成果が出せる会社であると考えてください。 もしも自分が考える人生設計の中に、絶対に起業はないという方は、そのような大 企業に行かれると良いでしょう。 簡単ではないですが、頑張ればある程度の成果を手にするこことができると思います。 ただし、自分の能力を根底から伸ばし て、いつか起業したいと思っているなら、大企業では無理です。 やはりベンチャー企業に入って、問題解決能力を高めるべきだと。 そしてベンチャー企業で成果 を出すことができて初めて、自分が起業したときにも成果が出せるのではないでしょうか。 <了> 取材・文:菊池徳行(アメイジングニッポン) 撮影:内海明啓.

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ワークスAPに対する14億円訴訟と情報誌の「経営不振」指摘、その深層を牧野CEOに聞く

牧野 正幸

勇ましい経営判断ですけど、これを有言実行できる経営者はそう多くないでしょう。 「経営者にとって大切なのは利益を出し続けること」。 そう考えている人のほうが多そうです。 でも、ワークスアプリケーションズ代表の牧野さんはかつて「利益か成長か」の二択で、MBOによって、迷わず「成長」を選択しました。 そこにあったのは「正しきことを貫く」という想い。 同社代表の牧野さんに「正しさ至上主義」に傾倒する理由を聞きました。 継続成長のための知恵が詰まったインタビューです。 それ以降、今日まで、経営者として大変なこともあったのではないですか。 大変だったとは思わないが、大きな変化はあった。 ライフスタイルを完全に仕事に寄せたことだ。 特に、新製品を打ち出した以降のこの2年間は、仕事とプライベートの比率を9:1にしている。 経営者になる以前の20代、圧倒的な成長を遂げたかった若い時も仕事とプライベートの比率を9超:1未満に設定していた。 30代以降は7:3、40代では5:5にした。 そして、50代になったいま、20代の時のようにまた9:1で仕事中心に戻したというわけだ。 だが、60代になったら仕事の比率は3割くらいにするつもりだ。 ある時期は仕事に時間を割き、ある時期はプライベートに集中する。 トータルで人生のバランスをとるのだ。 なぜ意外なのか。 人生は仕事とプライベートでできている。 プライベートをないがしろにするのは、人生の半分を捨てることと同じではないか。 カン違いすべきでないのは、プライベートは休憩ではない。 私は仕事もプライベートも必死に集中している。 そんな人生より、仕事でもプライベートでも主役であり続ける。 そんな生き方をしたいとは思わないか。 私は、仕事もプライベートも、人生を面白く語れる人になりたい。 しかし、時々いるんだよ、仕事を主にしている人でプライベートは休憩だと考えている人が。 それは間違いだ。 時間配分は時々で違っていていい。 当社の社員にいつも言っているのだが「プライベートが主だ」という人がいたっていい。 どちらも集中し、本気であるならば、という絶対条件がつくが。 仕事のためにプライベートを捨てる、逆にプライベートのために仕事は我慢して耐えるなんて、私にとっては地獄だね。 プライベートを休憩だと思ったら粗大ごみ扱いされる。 逆にプライベートを重視するあまり、仕事を単なる金儲けの手段だと思ったら、その瞬間から仕事は辛いものになるだけだ。 もちろん、人生には休養も必要だ。 私も海外のビーチでのんびり本を読んで過ごすこともある。 しかし、時々だからいいのであり、毎日、浜辺でぼんやりしていなければならないのだとしたら、そんなのはまっぴらだ。 私にとって、休憩、休養は寝ている時間だけで十分だ。 ところで、あらためてMBOに踏み切った理由を教えてください。 MBOに踏み切ったのは2011年。 その2年ほど前から成長率が5%くらいに落ちていて、これはよくないと思っていたからだ。 低空飛行となった短期的な要因としてはリーマン・ショックによるIT投資の落ち込みなどがある。 しかし、本質的にはそういうことではない。 日本の株主は投資先企業に利益と成長の両方を求める。 それに私が経営者として応えようとしたためだった。 成長しつつ利益を出し続ける。 理論的にはそのとおりだが、実際には利益を重視すると成長性を犠牲にせざるをえないことがある。 もちろん、成長しつつ利益を出し続けている勢いのある会社もある。 MBO以前の当社もそうだった。 だが、戦略的に考えると、成長投資するか、それとも投資しないで利益を担保するのか。 それはトレードオフの関係にあるのだ。 しかし、自分のなかでは株主の期待に応えて利益を上げたい気持ちが強かった。 そうすると、成長のアクセルも踏んでいるのだが、アクセルを踏みつつ利益重視でブレーキもかけるという状況が絶えず起きる。 こんな中途半端な状況を変えるきっかけとなったのがリーマン・ショックだった。 単純な話だ。 リーマン・ショックのあとだったから、そんなに利益が出なくてもどのみちまわりからなにも言われない(笑)。 その機をとらえて一気に投資にシフトし、中期的な成長を目指すことを決断したのだ。 しかし、いくら「中期的に成長する」「中期の成長のために短期の利益を犠牲にする」と説明しても、当たり前のことだが短期的に成長するわけではないので、株価は下がり続けた。 さらに投資を継続していくと、赤字も十分にありえた。 中期成長のために投資をすると株主の価値がどんどん毀損される。 そんな状況だった。 だから、非上場企業として利益を考慮せず、成長のための投資をしていくことが正しい。 そう判断し、MBOに踏み切ったのだ。 なぜですか。 日本だけではなく、世界に革新をもたらすためには、いまの規模では小さすぎるからだ。 グローバルで戦っていくためには、長期的な視野で研究開発を行い、売上高を上げ、さらに研究開発投資の規模を大きくし、より売上高を上げていく。 そんな循環をつくり、企業規模を大きくしていく必要がある。 だから利益よりも成長なのだ。 もうひとつ、私が成長を重視するのは、優秀な人材を集め続けるためだ。 優秀な社員たちを成長させるためには、彼らを興奮できるフィールドに置き続けなければならない。 成長しないということは停滞するということだ。 停滞したフィールドに成長はないし、興奮もない。 当社は創業以来、優秀な人材だけを集めることで成長してきた会社だ。 だから、より成長することで社員たちを刺激し続けられる会社であることは、当社にとって生命線でもある。 優秀な人材は停滞している会社には集まらない。 より自分が成長できる環境にしか優秀な人材は集まらないからね。 半分は合っているが、半分は正確ではない。 優秀な人材を集めたうえで、彼らがプロフェッショナルとして自由に、自分の意思で働ける環境を経営者はつくらなければならないのだ。 そうでなければ、彼らは引く手あまたの人材なのだから、あっという間に辞めて行ってしまう。 報酬もきちんと処遇すべきだ。 シリコンバレーに比べて、日本の場合、優秀な人材に支払っている報酬は低すぎる。 これでは定着しようがない。 能力を正しく認めて、適正な報酬を支払うべきだ。 当社の場合、ここ3年ほどで社員の平均報酬を30%上げた。 シリコンバレーでは、スタートアップの時こそストックオプションなどを駆使しながら、給与は抑制されているが、ある程度の規模になると急激にハネ上がる。 少なくとも日本のように、生涯賃金がいつまでも大企業より絶対的に低いベンチャーは存在しない。 こんな現実を是正せずに優秀な人材を集めても、いつか会社を離れていく。 そこはシビアに考えなければいけない。 私自身はダンディズムという言葉を使ったことはない。 経営者やそこで働いている人がどう考えるか、という問題だ。 ただ、私は経営者にはプリンシプル(原理原則、主義)が絶対必要だと考えている。 それがないと経営は成り立たないからだ。 ただし、プリンシプルは他人に強制すべきものではない。 私はこう思う、ということに過ぎない。 たとえば、ウルトラマンがそうだ。 どういうことでしょう。 ウルトラマンは正義であり、正義の味方だと私は思う。 しかし、人によってはそう見ない人もいるだろう。 変身したらすぐにスペシウム光線を放って怪獣をやっつければいいじゃないか。 なのに、なぜ怪獣を投げたり蹴ったりするんだ。 そのせいでビルが破壊されるではないか。 ビルのなかに人がいたら、大変ではないか。 そう言うわけだ。 しかし、怪獣が暴れまわったら地球は滅亡する。 それを防ぐために戦っているウルトラマンは、だから正義なのだ。 それでも「いや、ウルトラマンは必ずしも正義ではない」と主張する人もいるだろう。 そうした意見も私は尊重する。 考え方は人それぞれだ。 ただし、私は私が正しいと思ったことだけを貫く。 それが私のプリンシプルだ。 なかなかしんどそうです。 その通りだ。 確かにしんどい。 そもそもプリンシプルをもつ状況こそ、不自然な状況、不自然体だ。 いついかなるときも、プリンシプルで自分を律し、縛らなければいけないからね。 逆に、「自然体でやりましょう」とかいう言葉もあるが、それはプロ中のプロだけに許されることだ。 いつもは不自然体で自分を鍛え、勝負所では自分の能力をすべて発揮するため自然体で臨む。 それがプロの戦い方だからだ。 一方で、普段は自分を律していない、不自然体で自分を鍛えていない人が言う自然体とは、私から言わせると「ただサボれ」「努力なんかしなくていい」「楽しければいいんだ」と言っているようにしか聞こえない。 もちろん、自然体でみんな仲良しこよしでやっていくのも悪くない。 そういう考えの人が集まる集団だったら、それはそれでいいだろう。 しかし、多くの人に与える影響というものを考えたとき、私はそのやり方が正しいとは思えない。 ひとつの方法としてはありえるかもしれないが、99. 9%の会社が自然体の仲良しこよしになったら、世の中は潰れてしまうだろう。 時には現実に迎合したり、妥協することも成功の確率を高めるためには必要なんじゃないでしょうか。 その通りだ。 正しいジャッジをすればいつもうまく行くとは限らない。 迎合し、妥協すれば成功の確率を高められるんじゃないか。 と思うことも往々にしてある。 しかし、それでも私は自分の考える正しいジャッジをしたい。 迎合や妥協はせずに、正しいことは何かを考え、それだけを選びたいと思っているのだ。 私が正しいと考えたジャッジをした結果、失敗したこともあった。 だが、それで損をしたとは思っていない。 失敗も含めて、全部、得をしたと考えている。 失敗した結果、苦労するのは自分だ。 苦労すれば、その分、楽しい話ができるじゃないか。 成功談より失敗談の方が楽しいものだ。 …そういえば、このインタビューの冒頭で「MBOをしたことでどんな変化があったんだ」という質問があったな。 言い忘れていたが、仕事中心のライフスタイルにシフトしたことのほかに、もうひとつ、大きな変化があった。 それは葉巻をやめて、シガリロにしたことだ。 仕事が忙しくなり、やたらと海外出張も増え、太い葉巻をゆったりくゆらせる時間がなくなったからだ。 しかし、シガリロは私にある問題を突きつけている。 すきま時間を使ってくゆらせることができるのがシガリロのメリットなのだが、そうなると「ちょっと一服」といったタバコ感覚に近いものがあるのだ。 そんな安っぽい感覚をもつことは、自分の生き方として受け入れられない。 正しくない。 崩れている。 自分を律しているつもりでも、人間はどこかで崩れてしまうものだ。 崩れていることに気づいたら、また努力をすればいい。 その繰り返しを続けることが、正しいのだ。

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