長江 り の。 長江(ちょうこう)とは

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: 河川 (揚子江) ダム湖 - ダム型式 堤高 185. 0 堤頂長 2309. 概要 [ ] ダムはのうち最も下流にあるの半ば(三斗坪鎮)に建設された。 貯水池は市街の上流の三斗坪鎮に始まり、街の下流にいたる約660kmに渡り、下流域の洪水を抑制するとともに、の水運の大きな利便性をもたらす。 このダムの建設によって、それまで重慶市中心部には3,000t級の船しか遡上できなかったのが、10,000t級の大型船舶まで航行できるようになった。 加えて、水力発電所は中国の年間消費エネルギーの1割弱の発電能力を有し、電力不足の中国において重要な電力供給源となる。 また、と比べ発電時の発生も抑制することができる。 しかし、その一方で建設過程における住民110万人の強制移住、各地に残る名所旧跡の水没、更には水質汚染やへの悪影響等、ダム建設に伴う問題も指摘されている。 ダムの詳細 [ ] 三峡付近の衛星写真。 中央左寄りが三峡ダムと発電所、閘門 三峡ダムの構想は、(Sun Yat-sen)によるものとされ、に『建国方策』の中で言及している。 以降、政府により調査が進められたものの、戦争や内戦により実現することなく白紙となった。 を経て、にが建国されると、政府は、に長江水利委員会を設置し予備調査を開始した。 調査はに完了し、に着工する方針が発表された。 しかし、や、さらには建設反対論などの影響により、しばらく計画は進展しなかった。 文化大革命が終結すると再び三峡ダムの構想が浮上し、には三峡ダム事業化調査報告が提出される。 これ以降、三峡ダムの建設を巡り賛否両論が噴出した。 、建設反対派の意見を掲載した『長江 長江-三峡工程論争』が出版されると、の議論にも影響を与え着工が延期になると一時表明された。 しかし、同年が起き同書の著編者は逮捕され、同書も発売禁止となる。 これ以降、建設反対論は抑制され建設賛成論が勢いを増す。 1988 - 1998年に首相をつとめたがその中心だったとされる。 、第7期全人代第5回会議は三峡ダムの建設を、出席者2,633名中、賛成1,767名、反対177名、棄権664名、無投票25名により採択した。 全会一致が基本である全人代において、これほどの反対・棄権が出るのは異例のことである。 同年5月から、建設予定地の住民の移住が始まった。 には三峡ダム建設の事業主体となる「長江三峡工程開発総公司」や資金集めのための「三峡証券」が設立された。 三峡ダムの建設工事は、1993年に準備工事が開始され、翌に着工式が行われるとともに、本工事が始まった。 には、長江の本流が堰止められ、第二期工事を開始した。 には、一部貯水(水位135m)と発電を開始し、第三期工事を開始した。 そして、三峡ダムの本体工事が完了した。 2009年に発電所等を含めた全プロジェクトが完成した。 年表 [ ] 三峡ダムのモデル。 右側に船が通るためのやが設けられる• 1919年 孫文、三峡ダム建設プロジェクト提唱 (戦争等により進展せず白紙に)• 1931年 (、死者13万5千人、家屋流失200万件)• 1950年 長江水利委員会設置、予備調査開始• 1954年 (長江大洪水、死者3万人・家屋流失100万人)• 1956年 調査完了、1963年着工方針発表、長江流域企画弁公室(長弁)設立 (中ソ対立・文化大革命・ダム建設反対論等により中断・進展せず)• 1983年 三峡ダム事業化調査報告提出 (以降、建設の賛否を巡り議論が続く)• 1989年 天安門事件直後、建設反対派の意見を掲載した『長江 長江-三峡工程論争』の著者、戴晴が逮捕され、同書も発売禁止となる• 1992年 全人代、三峡ダム着工を採択(出席者2,633名、賛成1,767名、反対177名、棄権664名、無投票25名)• 1993年 長江三峡工程開発総公司設立、第一期工事開始(準備工事開始)• 1994年 着工式(本工事開始)• 1997年 第一期工事完成、長江本流を堰止め、第二期工事開始• 1998年 (長江大洪水、死者1,320人)• 2003年 第二期工事完成、一部湛水一部発電開始、第三期工事開始• 2006年 三峡ダム本体完成• 2009年 完成• 2012年 水力発電フル稼働開始 三峡プロジェクトを推進する政治家 [ ] 中国指導部の元党総書記や元総理はいずれも発電技師出身のであり、 三峡プロジェクトを強力に推進している。 またの元総理は三峡工程建設委員会主任を兼ねている。 しかし、2006年5月20日に行われたダムの完工式には彼等は一人として出席していない。 この規模の国策事業の節目において最高指導部が欠席することは異例と言ってよく、その背景が注目されている。 利点 [ ] 三峡ダムのもっとも大きな目的は、長江のの抑制である。 三峡ダムの巨大な貯水量は、水量調節を容易にして洪水を抑制することが期待されている。 また、ダムによって水位がかさ上げされることにより、上記のように10,000トン級の船が四川盆地の玄関口である重慶市中心部にまでさかのぼることができるようになるほか、これまで三峡に多く存在していた航行の難所がすべて消失し、航行が容易になることによって航行可能な船舶の数も増加する。 長江の輸送可能量が増加することによって物流が円滑になり、西南部の拠点都市である重慶を拠点として、中国政府の進めるの起爆剤としても期待されている。 ダムの生み出す豊富な電力は、いわゆる計画の根幹の一つとなっており、三峡ダムで発電された電力は同計画の中ルートとして中国経済の心臓部であるをはじめとする地域へと送られている。 また、ダムによる水力発電は一度完成してしまいさえすれば火力発電に比べ二酸化炭素の放出量が大幅に少なくて済み、環境負荷が少ない。 このほか、2015年現在では計画段階にとどまっているものの、に完成した、漢水の丹江口ダムから北へと延びる計画の中線ルートに接続して、やといった水不足に悩むの諸都市へ水を送る計画も存在している。 名勝である三峡は水位がかなり上昇することで風景がだいぶ変化するものの完全に水没するわけではなく、渓谷自体は残るため、交通の便の改善に伴い観光客の増加も見込まれている。 観光に関してはダム自体が新しい観光名所となり、経済効果を生んでいる。 発電能力 [ ] 三峡ダム水力発電所は、70万32台を設置し2,250万の発電が可能である。 これは最新の原子力発電所や大型火力発電所では16基分に相当し、世界最大の水力発電ダムとなる。 三峡ダム水力発電所の年間発生電力量は1,000億であり、中国の電気エネルギー消費量が年間約5兆であるから、三峡ダムだけで中国の電気の2. この電力を石油を燃やした火力で作るとすれば、1年間に石油1,750万トン、CO排出5,450万トンという数値になる。 ちなみに、の一般家庭向け販売電力量はおよそ860億で、日本の年間電気エネルギー消費量は約1兆である。 ここで発電された電力は、中国政府の「西電東送」(西で発電して東へ供給する)計画の一環として、上海市などの長江デルタ地帯へと送られる。 実際の発電量は、2013年には837億kWh、2014年には988億kWhであった。 三峡ダムと匹敵するもう一つの巨大水力発電所である・間にあるの発電量は、2013年には986億kWh、2014年には878億kWhだった。 年間発電量の推移 年 発電機数 億kWh 2003 6 86. 07 2004 11 391. 55 2005 14 490. 90 2006 14 492. 50 2007 21 616. 00 2008 26 808. 12 2009 26 794. 70 2010 26 843. 70 2011 29 782. 90 2012 32 981. 00 2013 32 832. 70 2014 32 988. 00 問題点 [ ] 三峡ダム建設前と建設後の地形変化 住民の強制移住 [ ] 三峡ダムの貯水池は全長660㎞にも及ぶため、ダム湖に水没する地域は広大なものであり、多数の村落や都市が水没することとなった。 三峡地域は険しい山岳が長江の両岸に迫っている地域であるが、湖北省では宜昌市の、、の、重慶市では、、、などで中心市街地が水没した。 また人口数十万を数える中規模都市だった四川省万県市(現・重慶市)やなどでは市街地の大部分が水没している。 これらの水没した地区のうち、都市区域においては、隣接した斜面や山の上に新市街が建設され多くの住民が移住した。 着工前は、移住対象の住民は84万人であったが、最終的に2007年12月の時点で140万人が強制移住を余儀なくされた。 また2020年までに更に230万人が退去予定である。 こうした移住は、基本的には同一地域内での移住が原則であり、上記の都市のほか、農民も山間地を切り開いて作った新たな農地へと移住することとなっていた。 しかし、三峡地域はもともと地形の険しい地域であるため農業適地は開墾しつくされており、農民は急斜面の農業開発を余儀なくされた。 また、このために土砂流出が激増し、がけ崩れなども多発するようになった。 このため、同一地域内ではなく遠く離れた地域への移住が推進されるようになった。 これら「三峡移民」の多くは充分な補償も受けられないまま貧困層へと転落しており社会問題となっている。 2002年には移住先からの帰郷を求めた元住民が逮捕される事件も発生している。 文化財・名所旧跡の水没 [ ] は中国の10元紙幣にも描かれるほどの中国を代表する名勝であり、は孤島化、など貴重な歴史資料でもある史跡は水没の危機があった。 文化財は合わせて1,108点が水没の影響を受けると予想され、史跡としての価値に応じ移住または放棄の処置がとられた。 白鶴梁は水没したが、2009年5月に水中博物館()として一般公開された。 地すべり・がけ崩れの発生 [ ] 地質が脆い場所に作られたダムに貯水を行うと、ダム湖斜面や周辺の地盤への水の浸透と強大な水圧により、地滑りやがけ崩れが発生することがある。 三峡ダムでは2008年末時点で132カ所で合計約2億立方メートルのがけ崩れが発生していたために、当局は水位を満水の175mにすることなく172. 5mで打ち切り、約2,000人を緊急避難させている。 その後、三峡ダム区地質災害防止作業指導事務室チームが調査を行った結果、5,386カ所で地滑りやがけ崩れなどの問題が発生するおそれがあることが判明した。 重慶市内の雲陽県涼水井地区では、2009年3月以降、川岸の430m、400万㎥にわたる土砂が崩落し、長江の主要航路に土砂が流れこむ恐れがあるとして厳重監視対象地域になっている。 同地区に近い村では、地盤の変動で民家が徐々に引き裂かれながら移動するなどの被害も出ている。 水質汚染 [ ] 三峡ダム湖の東南隅でゴミを集める作業 環境対策としては、三峡ダム地区( - )の汚水処理施設およびゴミ処理場の設置計画が2001年に了承され(建設費は国が負担) 、建設、稼働している。 しかし、人口3,000万人を超える重慶など上流域での、工業・生活排水対策が不十分であるので、ダムが「巨大な汚水のため池」になっている。 運営費は自治体負担のため、完成後稼働していない施設・処理場が多い。 国家環境保護局が2005年に行った調査では、「7割がまったく未稼働か、時々しか稼働していない」状態にあったという。 そのため、水のに大きな影響を及ぼすやの除去処理を行っていない施設も多い。 湖北省と重慶市は、対応策として施設運営費を「国8割、地方2割」とするよう求めている。 土砂堆積の懸念 [ ] 三峡ダムは、流入する土砂で埋没してしまうのではないかと懸念する意見もある。 これに対して当局は、三峡ダムは流域面積108. 4万平方Km、土砂流入 5. ダム決壊の危機 [ ] 2019年、中国国内のダム専門家がでに撮影したダムの基礎部分の写真とに撮影した写真を比較した際「2009年にはダムの基礎部分はまっすぐな直線になっているが、2018年には数ヶ所が湾曲している」と発表したことで、 三峡ダムに決壊の危機が迫っているとする声が高まった。 中国当局はこの指摘に対して事実を否定している。 なお、万が一決壊した場合はやなどの下流域の大都市に大きな被害をもたらし、中国経済に大ダメージを与えるとともに、中国国内の電力供給がストップすることで大規模な停電を引き起こす可能性がある。 洪水の危機 [ ] 2020年6月22日に、重慶市 直轄市 の水利当局は、長江水系の河川・綦江(きこう)の上流側での急激な増水によりダムの水位が危険な状態となったことを知らせる最高級水位の「洪水紅色警報」を出した。 その「史上最大規模の洪水」に見舞われるとの警告により市民4万人が避難したとされる。 脚注 [ ]• サーチナ 2012年7月5日. 2012年7月7日閲覧。 AFP 2012年7月6日. 2012年7月7日閲覧。 「世界地誌シリーズ2 中国」p110 上野和彦編 朝倉書店 2011年7月20日初版第1刷• Lin Yang 2007年10月12日. Time. News. sina. com. 2009年8月1日閲覧。 1992年4月4日 朝日新聞「中国全人代の三峡ダム決議 異例、大量の不同意票出る」• 「中国の世紀 鍵にぎる三峡ダムと西部大開発」p79 藤村幸義 中央経済社 平成13年12月25日初版発行• 「中国の世紀 鍵にぎる三峡ダムと西部大開発」p79 藤村幸義 中央経済社 平成13年12月25日初版発行• 「舟運都市 水辺からの都市再生」p40 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行• 「舟運都市 水辺からの都市再生」p39 三浦裕二・陣内秀信・吉川勝秀編著 鹿島出版会 2008年2月20日発行• 「世界地誌シリーズ2 中国」p110 上野和彦編 朝倉書店 2011年7月20日初版第1刷• Itaipu Binacional. 2015年1月2日閲覧。 Xinhua 2014年1月1日. 2015年1月2日閲覧。 Business News Americas. 2015年1月5日. 2015年1月5日閲覧。 Cepn. com. 2009年8月1日閲覧。 [ ]• Chinaequip. gov. cn 2010年1月8日. 2010年4月29日時点の [ ]よりアーカイブ。 2010年8月20日閲覧。 2011年9月1日時点の [ ]よりアーカイブ。 2015年4月8日閲覧。 2015年4月8日閲覧。 2015年4月8日閲覧。 2015年4月8日閲覧。 「中国の世紀 鍵にぎる三峡ダムと西部大開発」p165 藤村幸義 中央経済社 平成13年12月25日初版発行• 「中国の世紀 鍵にぎる三峡ダムと西部大開発」p177 藤村幸義 中央経済社 平成13年12月25日初版発行• 2002年7月21日 朝日新聞「中国・三峡ダム移民、帰郷求めた40人を逮捕」• 2003年5月8日 朝日新聞「文化財の『救出』急ぐ 中国・三峡ダム始動:上」• サーチナ. 2010年6月15日. 2011年2月16日閲覧。 「中国の世紀 鍵にぎる三峡ダムと西部大開発」p141 藤村幸義 中央経済社 平成13年12月25日初版発行• NEWSポストセブン. 2019年11月24日閲覧。 (nifty ニュース、2020年6月23日) [] 関連項目 [ ]• - 同様に大規模な住民の強制移住が行われた。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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三峡ダムの下流には武漢市や上海市がある。 中国当局は80年に一度規模の大洪水だと警告を発している。 心配なのは、重慶を流れる長江の下流にある世界最大の水力発電ダム「三峡(さんきょう)ダム」(湖北省宜昌市三斗坪)の強度だ。 中国水利部当局も「ブラックスワン」(起こる可能性は確率的に非常に低いが、起これば極めて大きな衝撃を引き起こす事象)に例えて強い懸念を示すほどだ。 すでに南部は折からの集中豪雨で水浸しになっている。 中国中央気象台が6月24日に発表したところでは、6月に入ってすでに連続23日、暴雨警報を出しているという。 24日も広い範囲にわたって「暴雨イエローアラート」が発令された。 暴雨は貴州、広西、湖南、江西などで大規模洪水を引き起こし、さらに今後数日、集中豪雨が続くと予報されている。 今年(2020年)の洪水被害の被災都市はすでに26の省、自治区、直轄市におよび、被災者数は1122万人。 長江沿いの湖北省の680のダム湖、安徽省の299のダム湖は制限水位を超えており、目下全力で放水による水位調節を行っているが、もはや洪水防止の役にはたっていない。 安徽省の六安市などは村ごと水に沈んでいるところがいくつもある。 中国応急管理部は6月23日までに657. 1万人に緊急避難を指示、21. 3万人に対して緊急生活救助を行っている。 だがすでに9300以上の家屋が倒壊し、17. 1万以上の建物が損壊。 農作物の被害は86. 1万ヘクタールにおよび、直接的経済損失は241億元に上るという。 重慶の住民「こんな大洪水はみたことがない」 中国メディアの報道を総合すると、重慶周辺における洪水被害が6月22日以降かなり深刻で、重慶市水文観測総合ステーションは綦江(きこう)区に「洪水レッドアラート」を発令した。 これは1940年このステーションができて以来初めてのレッドアラートだ。 この日午後、重慶市綦江は基準水位を5メートルほど超えた。 華僑系通信社中国新聞の記者が綦江区をリポートしていたが、重慶都市部と綦江区をつなぐ橋を警察が守備し、人や車両の交通を止め、両岸には警戒線が張られて、人が近づかないようにされていた。 川沿いの土地はほとんど黄土色の濁流にのまれており、川から道路へあふれでた水はさらに居住区の建物内に絶え間なく浸水していているという。 重慶の多くの道路は冠水し、軌道交通は寸断され、綦江濱江路一帯の建物店舗は浸水被害を受け、一部地域では土石流も発生していた。 重慶は断崖に刻まれるように道路や商業ビルや集合住宅がたつ高低差のある都市開発が特徴だが、濁流が高所の道路からあふれて、瀑布のように崖下に流れおちる映像がツイッター上で拡散されている。 山城重慶變水城,三峽大壩危險了! pic. twitter. 私たちは逃げることができたが、間に合わなかったらと思うとぞっとする」と恐怖を語っていた。 綦江城区の洪水の水位はアパートに2階くらいにまで来ている。 空中撮影でみると、水面に信号のてっぺんがかろうじて見えているような報道写真もある。 重慶に隣接する貴州省の被害も深刻で、通信が不通となり、橋がいたるところで崩壊。 水道電気、道路が寸断され、やはり土石流の危険に住民たちがおののいている。 三峡ダムの洪水防止機能に疑問の声 そして今、地域の人々が非常に不安に思っているのは三峡ダムが、この大量の豪雨増水に耐えきれるのだろうか、ということだ。 三峡ダム(出所:) 中国湖北省衛星テレビが6月21日に報道したところによると、連日の豪雨の影響で、三峡ダムの水位が上昇、増水期の制限水位をすでに2メートル超えて147メートルに達したという。 三峡ダムの貯水庫には6月20日に毎秒2万6500立方メートルの水が流れ込んだ。 これは前日の19日より毎秒2万500立方メートル多いそうだ。 水位は20日の段階で147メートルに接近していた。 湖北省宜昌市は6月11日に、三峡ダムの水位を145メートルの増水期制限水位まで下げたと発表した。 例年より早めに洪水防止のための貯水調節を行い、6月8日に前倒しで221. 5億立方メートルの水を下流域に排出して145メートル(正確には144. 99メートル)にまでに下げたのだ。 この調節放水の量は西湖(杭州にある世界遺産の湖)1550個分という膨大なものである。 三峡ダムの堤防の高さは185メートルで、蓄水期はおよそ175メートルまで水がためられている。 これを長江の増水期前に145メートルまで水位をさげて、増水に備えるのだ。 この30メートルの水位差が、長い中国の歴史で繰り返されてきた長江の大洪水を防止する役割を果たすといわれてきた。 三峡ダムは長江の洪水防止のための大国家プロジェクトとして建設された(1993年着工、2009年完成)。 本来5つの機能(発電、南水北調、水運、地域発展、洪水防止)を持たせて造られたが、中でも長江流域の増水期に備えた洪水防止システムの役割への期待が一番大きい。 だが実のところ、このダムには設計上のさまざまな問題が指摘されている。 その1つが、実はそんなに洪水防止機能がないのではないか、ということだ。 三峡ダムでは昨年に堤防がゆがんで見えるという写真がネットで話題になった。 中国当局は「このゆがみは計算上予測されたもので、堤防の強度に影響はない」とわざわざ発表して噂を打ち消したが、これまで中国当局が三峡ダムのリスクや問題について正しくアナウンスしたことはないので、多くの周辺住民は決して安心できていない。 そして現在、ダムの水位が147メートル程度とアナウンスしているのに、下流域でも上流域でもひどい洪水が起きている。 30メートル分の水をため込めるはずではなかったのか。 三峡ダムが決壊したら何が起きるか 中国水利部の葉建春副部長は6月11日の全国洪水防止会議で、中国は全面的に河川の増水期に入り、江南、華南、西南東部では6月2日以降、今年最大強度、最大範囲、最長の豪雨に見舞われていると発表。 珠江流域の西江、北江、長江流域の湘江、鄱陽湖水系、浙江銭塘江水系の一部など24省148河川ですでに洪水が起きており、一部河川の洪水は歴史的記録を塗り替えるような規模だと警告していた。 こうした状況から中国水利部は、ダム決壊、山崩れ、洪水の3大リスクに備えて警戒せよとの要請を出した。 このとき葉建春が言ったセリフが不穏な内容だった。 中国水利当局者のこのブラックスワン発言に、多くの人たちは、三峡ダム決壊のことを指しているのだと思ったのは言うまでもない。 三峡ダムの下流は中国の最も都市と人口が密集している地域。 万が一にも、三峡ダムが決壊すれば被災者は少なくとも4億人以上に達し、およそ30億立方メートルの土砂が三峡ダム下流域を襲い、上海までが水浸しになる、と言われている。 大規模停電が起き、しばらくは復旧できまい。 また、長江流域は中国経済実力の40%が集中する。 つまり中国経済も潰滅し、その回復には数年かかるだろう。 農業だって潰滅だ。 三峡ダムの位置。 長江の上流には重慶市、下流には武漢市、上海市がある また三峡ダム下流域には解放軍のロジスティクス部隊の駐屯地が集中すると指摘されている。 たとえば空挺部隊の9割も三峡ダム下流域に集中する。 解放軍は大災害のとき最前線で救援作業を行うが、三峡ダム決壊の災害の場合、解放軍のロジスティクスも大打撃を受けて、救援作業に支障が出るのではないか、と言われている。 確率的には非常に小さく、ほぼあり得ない、と当局も繰り返し否定しているが、起きたら、目も当てられない惨状を引き起こす。 そして普通ならあり得ないけれど、絶対にないとは言えない。 まさしく「ブラックスワン」。 建設時から問題点を指摘されていた 実は、三峡ダムはもともと設計自体に欠陥があった、と指摘するのは「三峡工程三十六計」の著者でもあるドイツ在住の国土計画専門家、水利エンジニアの王維洛だ。 台湾自由時報の取材を受けて、こう語っている。 「実際、三峡ダムに洪水防止機能などないのだ。 すでに専門家の検証によって、そのことははっきりしていた。 そもそも三峡プロジェクトは、設計から工程、仕上げの監査まで同じ人間がやっていて、審判とプレイヤーが同一人物みたいなものなのだ」 「ダム下流の湖北、湖南、江西ではすでに洪水が発生している。 ダム上流の重慶も洪水警報がでている。 ダム上流域の人々はダムを決壊させないために、放水させろといい、下流域はこれ以上放水させるな(すでに洪水がひどいのに)という。 そういう矛盾があることは、ダム建設前から分かっていた」 「三峡ダムの設計エンジニアである銭正英、張光斗らは、当時の三峡ダム建設プロジェクト副主任の郭樹言に対して、三峡ダム工事のクオリティ、強度に問題があることを手紙で訴えていた。 工事期間があまりにも短期であり、完成を急ぎすぎているから、欠陥があるのだ」 「(昨年、三峡ダムが変形していることが判明し、ネットでも話題になったが)ダムの変形よりも問題なのが、ダムの船閘(ロックゲート)周辺から水漏れがあることだ」 つけを払わせられる長江流域の人々 長江の大洪水は中国の歴史上何度も繰り返されてきた。 この暴れる竜・長江の洪水をコントロールすることこそ、中国の国家指導者に求められる能力であり、孫文の時代から三峡ダムプロジェクトの絵は描かれていた。 だが毛沢東は「頭の上に水の入った盆を置いては熟睡できない」と感心を示さず、1980年代も建設の賛否をめぐる議論は続いた。 天安門事件後、当時の首相の李鵬が反対派を抑え込んで強引に実現にこぎつけたものの、プロジェクトは李鵬らを中心とする水利利権派の汚職の温床となり、当時から様々な問題が存在することは内部で判明していた。 今は、この巨大プロジェクトを強引に推進した李鵬も亡くなり、その責任を引き受ける人物もいない。 つけを払わせられるのは、長江流域に暮らす普通の人々だ。 しかし、中国にはちょっとブラックスワンが多すぎはしないか。 新型コロナのアウトブレークも、香港デモも、蝗害も、本当なら万に一つも起こりそうもないブラックスワンだ。 この調子だと、年内にあと2、3羽飛来してくるのではないか。 筆者:福島 香織 外部サイト.

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長江崚行

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中国を横断する長江 前半にのが発見されて以来、黄河流域で多くの遺跡が見つかったことで中国の文明の発祥は黄河流域であり、その後次第に長江流域などの周辺地域に広がっていったとの見方が支配的であった。 しかし・の発掘調査で発見されたの (かぼといせき)により、この説は覆される。 河姆渡遺跡は紀元前6000年から紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどのの痕跡が発見された。 稲作を行っていた事からその住居はであった。 このように河姆渡遺跡は明らかに黄河文明とは系統の異なるものであり、それまでの「中国文明すなわち黄河文明」という当時の定説を大きく覆す事になった。 更に、東北の周辺でも文明の痕跡が発見されるに至り、現在では遼河周辺、黄河上・中・下流域、長江上・中・下流域に分類し、それぞれが互いに影響しあい、かつ独自の発展を遂げていったと考えられている。 長江文明の特徴 [ ] の 初期段階より稲作が中心であり、畑作中心の黄河文明との違いからどちらの農耕も独自の経緯で発展したものと見られる。 長江文明の発見から稲()の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。 日本の稲作もここが源流と見られる。 中流域の(くつかれいぶんか、紀元前3000年? - 紀元前2500年? )・下流域の(りょうしょぶんか、紀元前3300年? - 紀元前2200年? )の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域のが移植されている。 黄河流域の人々により征服された結果と考えられ、とやの対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があると考えられる。 河姆渡遺跡からはで作られた玉器や漆器などが発見されており、また(紀元前1400年? - 紀元前1000年? )からはが発見されている。 中国文化の重要な一翼を担うこれらの文物の源流がここから出たのではないかとする説もある。 これらが後の楚・呉・越に繋がったと考えられるが、どのような流れをたどって繋がるのかは未だ解らない。 本格的な発掘が始まってより30年ほどしか経っておらず、発見されたものの量に対して研究が追いついていないのが現状である。 では長らく文明の発見が無かったが、にの (さんせいたいいせき)から大量のなどが見つかり、一気に注目されるようになった。 四川は地形的に他の地域と途絶しており、そこで発見された文明は黄河・長江とも異質な文明を発展させていた。 そこで 四川文明と分類されることもある。 三星堆の特徴として怪異な面が多数発掘されることがあり、青銅の人像の顔に被せられた黄金面も発掘された。 古代にあったとされるの国だと考えられる。 この蜀国は『』ではほとんど登場せず、まだ中華文明の視野の外の地域であった。 唯一、ののにによって滅ぼされて、秦の版図に入ったことが記される。 なお、蜀地域の地域史書である『』ではこの古代蜀についての詳しい記述があったが、黄河文明中心史観の時代にあってはこれらの文献は想像の産物だと思われていた。 しかし、三星堆遺跡の発見で一躍現実味を帯びたものとなった。 現在、長江文明・四川文明とも体系化された文字は見つかっていない。 ただし、文字様の記号は見つかっており、その年代は紀元前2000年から紀元前600年とされている。 現在出土している最古のが紀元前1300年くらい(期)のものなので、これが文字だとすれば甲骨文字に先んじた文字ということになる。 継承者 [ ] 長江文明を築きそれを受け継いでいる正確な集団は判明していないが、・・がそれに相当すると考えられ、また現在四川省に住む少数民族 がその末裔ではないかと考察する者もある。 イ族は元来涼山には定住しておらず、ピモと呼ばれる祭祀を務める者が死者を弔う際に唄を歌うが、これは魂が先祖の居た地へ戻る道程を表しており、唄われている地名や地理的特徴を遡ると長江周辺へと帰結する、この事から太古は長江流域に住んでいたが漢民族の侵入によって散り散りになりその末裔が現在の涼山へたどり着いたとされる。 その古い成り立ちから文化は古代に多く見られる儀式が主体で、家畜や民族の安泰を祈願し木で組んだ門を家畜に潜らせ魔を祓うものや、鶏を処しその結果で占いをするという日本の弥生初期に通ずるアニミズムが残っている。 日本への影響 [ ] 雨季を人工的に作り出す農法から大陸の暖かい地域で発生し、国内で発掘された稲の遺伝子がこの地域のジャポニカ種と同じであった為に、弥生時代に日本へをもたらした人々()は、長江文明が起源とする説もある。 「」も参照 長江文明 [ ] 玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき)。 紀元前14000年? - 紀元前12000年? のものとされる。 稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できない。 仙人洞・吊桶環遺跡(せんにんどう・ちょうとうかんいせき)。 紀元前12000年頃?。 栽培した稲が見つかっており、それまで他から伝播してきたと考えられていた中国の農耕が中国独自でかつ最も古いものの一つだと確かめられた。 (ほうとざんぶんか) 彭頭山遺跡(澧はさんずいに豊)を代表とする。 紀元前7000年? - 紀元前5000年?。 散播農法が行われており、中国に於ける最古の水稲とされる。 (たいけいぶんか) 大渓遺跡を代表とする。 紀元前4500年? - 紀元前3300年? 彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。 が確立され、住居地が水の補給のための水辺から大規模に農耕を行う事の出来る平野部へ移動した。 (くつかりょうぶんか) 屈家嶺遺跡。 紀元前3000年? - 紀元前2500年? 大渓文化を引き継いで、(ろくろ)を使用した黒陶が特徴。 河南地方の黄河文明にも影響を与えたと考えられる。 (せつかがぶんか) 屈家嶺文化から発展し、石家河に大規模な都城を作った紀元前2500年頃を境として屈家嶺と区別する。 この都城は南北1. 3Km、東西1. 1Kmという大きさで、上述の黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と考えられる。 (かぼとぶんか) 河姆渡遺跡。 紀元前5000年? - 紀元前4000年? 下流域では最古の稲作。 狩猟や漁労も合わせて行われ、の家畜化なども行われた。 (ばかほうぶんか) 馬家浜。 紀元前5000年? - 紀元前3800年? 河姆渡文化を継承、発展させた。 灌漑が行われ始め、紅陶が特徴。 (すうたくぶんか) 崧沢村。 紀元前3800年? - 紀元前3500年? 玉による腕輪など、装飾品が作られ始めた。 (りょうしょぶんか) 良渚鎮。 紀元前3500年? - 紀元前2200年? 馬家浜・崧沢を受け継いだ。 多数の玉器の他に、が出土している。 分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されている。 黄河文明の山東龍山文化とは相互に関係があったと見られ、同時期に衰退したことは何らかの共通の原因があると見られている。 (ごじょうぶんか) 呉城鎮。 紀元前1400年? - 紀元前1000年? 黄河文明とは異質なを特徴とし、原始的な磁器なども出土している。 四川文明(古蜀文明) [ ] 龍馬郷宝墩村。 紀元前2500年? - 紀元前1700年? (龍山文化) 新石器時代の城壁で囲まれた集落がのに複数存在した。 最大の遺跡である宝墩遺跡は1990年代に発見され、発掘が続いている。 南興鎮の三星堆遺跡に代表される。 紀元前1700年? - 紀元前1200年? (夏晩期~商後期) 大量の青銅器が出土し、前述の他に目が飛び出た仮面・縦目の仮面・黄金の杖などがあり、またやなども集められており、権力の階層があったことがうかがい知れる。 青銅器については原始的な部分が無いままに高度な青銅器を作っているため他の地域、 おそらくは黄河流域からの [ ]技術の流入と考えられる。 長江文明と同じく文字は発見されていないが、「 ()」と呼ばれる文字らしきものがあり、一部にこれをと結びつける説もある。 (BC1200~500年、商後期~春秋後期) (BC500~316年、春秋晩期~戦国期) 年表 [ ] 注:年代には100年単位で誤差がある。 同じ系統と見られるものは同じ色で示した。 色が付いていない部分については他との関係が見つかっていない、まだ判明していないものである。 数字は全て紀元前。 黄河流域は参考のために上げただけでこれ以外にもたくさんある。 黄河流域 上流域 中流域 下流域 紀元前8000年以前 玉蟾岩遺跡 仙人洞・吊桶環遺跡 7000 6000 6000 5000 5000 4000 4000 3000 3000 2000 (龍馬古城) 2000 1000 (?) 二里頭文化 (遷都前) 二里岡文化 殷遷都後 殷 周 楚 1000以降 脚注 [ ] [].

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