ゴダイゴ ギター。 浅野孝已

ゴダイゴ・・・・ギターの浅野さんを偲んで レコード「DEAD END」

ゴダイゴ ギター

By - 公開: 2017-06-01 更新: 2020-01-12 本日6月1日は、ゴダイゴのギタリスト浅野孝已の誕生日。 66歳となった現在もゴダイゴでの活動と並行して、自身のバンド「T. C TOKYO」の他、様々なユニット、プロジェクトでの演奏活動を精力的に展開している。 しかも今年は、彼が弱冠16歳にしてプロ・ギタリストのキャリアをスタートしてから50周年という節目の年でもある。 日本で半世紀もの間、活動を継続している数少ないプロフェッショナルなロック・ギタリストのひとりである彼の足跡は、エレキ・ブーム~GSブーム~ニューロック台頭期~ポストGS台頭期~日本ロック興隆期といった具合に、近代日本ロック変遷の歴史そのものと言えるだろう。 1951年6月1日、東京・池袋に生まれた浅野は幼少の頃から音楽好きで、小学校6年生の時に折からのエレキ・ブームに触発され、お年玉でガット・ギターを購入。 これが彼のギター人生のスタートとなった。 私立聖学院中学に進んでからはギター教室に通い本格的なレッスンを受けるようになる。 メキメキとギターの腕前を挙げていた頃、通学路で知り合った高校生・萩原健一 ショーケン がヴォーカルを担当しているバンド「ザ・テンプターズ」のステージを観に行ったことがきっかけとなり、弟バンド「ジュニア・テンプターズ」の結成に参加。 テンプターズがレギュラー出演していたディスコ等に出演するようになり、浅野は中学2年生にしてセミプロのギタリストとして活動を始めたのである。 1967年初頭、ジュニア・テンプターズはメンバーの大口広司がドラマーの欠員が出たテンプターズに加入したために解散。 学校の先輩にモップスの星勝がいた関係で、鈴木ヒロミツの末弟と共に「ジュニア・モップス」を結成した浅野は、やがて高校も退めて毎夜ディスコに出演するようになる。 時代はまさに空前のGSブームが巻き起こる直前で、デビュー前のガリバーズやフラワーズから誘われたこともあったが、結局ジュニア・モップス解散後の68年に、当時六本木の高級ディスコやサパークラブで活動していたエム The M に参加した。 アルバム1枚を残して73年にエム解散後はスタジオ・ミュージシャンとして活動しているところをアイドル・バンド「チャコとヘルス・エンジェル」に誘われ参加。 73年9月に「愛している愛してない」でデビューしている。 チャコヘルのレコーディングにおけるバッキング演奏には浅野だけが抜擢され、この時期のスタジオ・ワーク体験は、その後の彼のキャリアに大いに役立つこととなるのである。 1974年にはミッキー吉野グループに参加。 翌年末にはタケカワユキヒデを加えてゴダイゴに発展し、76年4月に「僕のサラダガール」でレコード・デビューする。 ゴダイゴは自分たちの作品以外にも、他のアーティストのレコーディングに参加したり、CMや映画、TVドラマ等の音楽を手がけるなど多岐にわたる活動を展開。 バンドという概念に拘らない新時代の音楽プロジェクト・チームとして、70年代の日本の音楽シーンに独自のポジションを築き上げ、浅野も編曲や楽器開発等を手がけるようになった。 「ガンダーラ」「モンキー・マジック」「銀河鉄道999」等の連続ヒットで国民的バンドに成長したゴダイゴだったが、85年に活動停止。 浅野はゲーム音楽や映画音楽の制作、シンガー・ソングライター岡本真夜のプロデュース等を手がけた他、冒頭でも述べたいくつかのバンド、ユニットで活動を初め、それはゴダイゴが恒久的再始動を宣言した2006年以降も続き、現在に至っている。 決して派手さは無いが、安心して聴ける安定したテクニックとあらゆる音楽ジャンルに対応できる懐の深さと柔軟性…浅野孝已のギター・プレイの一番の魅力はそこにあると思う。 【執筆者】中村俊夫 なかむら・としお :1954年東京都生まれ。 音楽企画制作者/音楽著述家。 駒澤大学経営学部卒。 音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。 共著に『みんなGSが好きだった』 主婦と生活社 、『ミカのチャンス・ミーティング』 宝島社 、『日本ロック大系』 白夜書房 、『歌謡曲だよ、人生は』 シンコー・ミュージック など。

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浅野孝已

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長崎管理人のシュンです。 本日は、70年後半から80年代にかけて活躍したゴダイゴをご紹介してみます。 ゴダイゴとは 例によりましてウィキペディアからの引用です。 GODIEGO(ゴダイゴ)は、1975年[1]に結成し、人気を集めたバンド。 日本のプログレッシブロックバンドの草分け的存在。 1970年代後半から1980年代前半にかけて、立て続けにヒット曲を世に送り出した。 と言うことが記されていました。 初期のオリジナルメンバーは ミッキー吉野(キーボード、ボーカル、バンドリーダー) タケカワユキヒデ(ボーカル、キーボード) 浅野孝已(ギター、ボーカル) スティーヴ・フォックス(ベース、ボーカル) トミー・スナイダー(ドラムス、ボーカル) ゴダイゴとくれば、「ガンダーラ」や「銀河鉄道999」、「モンキーマジック」 などが代表曲ですね。 非のうちどころのない程、完成されたポップチューン。 当時、相当ヒットしましたし、TVでも頻繁に出演して一躍人気バンドとなりました。 DEAD END デッド・エンドの衝撃 筆者はブレイク前のゴダイゴがリリースした「新創世紀」を聴いており、それが強い印象とともに心に残っていました。 そのサウンドはまさにプログレしており、とうとう日本にもこのようなバンドが出てきたか! という感じで、とても楽しめたアルバムでした。 アレンジ、メロディラインともに素晴らしい出来で、洗練されたゴダイゴサウンドが既に確立されていましたので、次のアルバムに多大な期待を寄せていました。 YouTubeにDEAD END のアルバム曲が公開されていました。 LIVEバージョンのようですが、このサウンドにノックアウトされた筆者でした。 「新創世紀」とはまた違ったロック色の強いサウンドでありトータルアルバム。 おそらくゴダイゴの最高傑作の一枚です。 いかがでしょうか!? 音質がイマイチですが、ゴダイゴの魅力は十分に伝わるかと思います。 ミッキー吉野、タケカワユキヒデ、浅野孝己 幸運にもゴダイゴのライブを数回、観たことがありました。 ゴダイゴの各メンバーの演奏スキルの高さは素晴らしく、このバンドの魅力はライブにこそあるなぁ、、と実感したものでした。 ではバンドの各である主要メンバーをご紹介してみましょう。 ミッキー吉野氏 ゴダイゴのリーダーで作曲とほとんどの曲の編曲を担当。 バークリー音楽院卒業。 卓越したアレンジとスキルの高いキーボードプレイ。 時に過激なシンセプレイなどでゴダイゴのサウンドを支える。 タケカワユキヒデ氏 ゴダイゴのメインボーカルであり、作詞・作曲を担当。 音楽家の家系により幼少の頃よりバイオリンなどたしなみ音楽の素養が築かれていたよう。 彼独自のメロディラインが魅力で後にガンダーラなどの数々のヒット曲を生むことになる。 浅野孝己氏 ギタープレイのみならず、アルバムジャケットなどのビジュアル面を担当。 またグレコなどのギター開発などにも参加するなど多彩な面も。 日本ではじめてギターシンセサイザーをレコーディングに導入したと云われている。 余談であるがコダイゴのキタリストの候補としてあの チャー氏がリストアップされていたのだとか・・・ 新創世紀の映像が! まさか新創世紀の演奏映像を見れるとは!! YouTubeで検索したらヒットしました。 これが真のゴダイゴです。 まさにプログレしてますね。 演奏も素晴らしいです。

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ロックバンド『ゴダイゴ』のギタリスト、浅野 孝已(あさの たかみ...

ゴダイゴ ギター

来歴 [ ]• 1951年 - に生まれる。 1965年 - バンド『ジュニア・テンプターズ』を結成。 1967年 - バンド『ジュニア・モップス』を結成。 1968年 - バンド『The M』(エム、『イエロー』の前身)に参加。 バンド『Emotion』(エモーション)に参加。 1973年 - アイドルバンド『』に参加。 1975年 - ミッキー吉野グループ(のちのゴダイゴ)に参加。 1985年 - ゴダイゴ活動停止。 1986年 - の副に就任。 アーティストのプロデュースなど。 社にてギターロボット「」開発に参加。 タイトー社にてゲーム音楽の作曲開始(『』『』『』『』『』)。 1998年 - 、Kenneth Makuakane とバンド『トロピカル・ポップ・オーケストラ』 Tropical Pop Orchestra、TPO を結成。 2006年 - ゴダイゴ再始動。 2020年5月12日 - 自宅で心肺停止の状態に陥り、病院に救急搬送されたが、同日の午後0時3分に死亡が確認された。 68歳没。 死因は。 作品 [ ] プロデュース [ ]• 「」 ゲーム音楽 [ ]• タイトー• タイトー• タイトー• タイトー• タイトー• 出演 [ ] TV [ ]• 「キャッチ」 ラジオ [ ]• 小学校5年生からギターを始めた。 私立に入学後、通学路で同じ聖橋学園の高等部であるに通うと知り合う。 萩原健一が所属する「ザ・テンプターズ」のライブを見に行ったことがきっかけで、ザ・テンプターズで使わなくなった楽器をもらってらとともに「ジュニア・テンプターズ」が結成された。 ザ・テンプターズがレギュラー出演していたディスコ等に出演するようになり、浅野は中学2年生にしてセミプロのギタリストとして活動を始めることとなった。 1967年、大口広司がザ・テンプターズに加入したためにジュニア・テンプターズは解散。 学校の先輩に「モップス」のがいた関係で「ジュニア・モップス」を結成。 浅野は高校を退めて毎夜ディスコに出演するようになり、16歳でプロのギタリストとなった。 は「」時代から「エム」に在籍していた浅野に一目置いており、米国留学から帰国してすぐに浅野をバンドに誘った。 浅野はチャコとヘルス・エンジェルに在籍中で、契約期間が2年であったため契約が切れるまで待って欲しいと答え、契約満了後にミッキー吉野グループに合流することとなった。 浅野合流前からミッキー吉野グループはのソロコンサートのバックバンドを務めていた。 当初は浅野とは別のギタリストを擁していたが、渋谷公会堂で開催されたツアーの最終日に突如浅野が参加することとなった。 浅野はたった1日で20曲を超える演目をすべて習得した。 をで最初にに使用した。 などとのギターなどの開発に参加。 ゴダイゴ時代は開発に深く関わったGO-IIIという機種(本人所有のものは市販と仕様が異なるPrototype品)を好んで使っていた。 唐草インレイが指板に入っており非常に美しい。 ガンダーラなどでは12弦のWネックを使うこともあった。 市販されていたGO-IIIは最上位モデルで15万円ほどだったが、大ヒットモデルとなった。 現在では製造されていない。 自身が持っているGO-IIIの状態がよくないため、程度の良いGO-IIIを探していることを自身のホームページで語っている。 また、最近ではの305を所有している。 脚注・出典 [ ]• amass 2020年5月12日• 2020年5月14日. 2020年5月15日閲覧。 外部リンク [ ]•

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