バグラチオン 作戦。 ソ連軍のバグラチオン作戦は、アメリカのレンドリースがなかったら、...

ソ連のバグラチオン作戦とかいうロマン溢れる作戦

バグラチオン 作戦

概要 [ ] は、ソ連との戦争を「イデオロギーの戦争」「絶滅戦争」と位置づけ、とは別の戦争であると認識していた。 3時15分、ドイツ軍は作戦名「」の下にソ連を奇襲攻撃した。 ヨーロッパにおけるドイツ占領地からは反共主義者の志願者や、武装親衛隊によって徴発された人々がドイツ軍に加わった。 開戦当初、ソ連軍が大敗を喫したこともあり歴史的に反ソ感情が強かった地方や、過酷な共産党の政策からの住民は、ドイツ軍を当初「共産主義ロシアの圧制からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり共産主義者を引き渡すなど自ら進んでドイツ軍の支配に協力する住民も現れた。 また反共主義者はやとして共産主義者と戦った。 しかし、を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きをほとんど利用しようとしなかった。 や ()はドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、一部実行された。 この戦いにおいて、特にソ連側の死者は大規模である。 なお、独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、ドイツ兵が390万人である。 民間人の死者をいれるとソ連は2000〜3000万人が死亡し、ドイツは約600〜1000万人である。 ソ連の軍人・民間人の死傷者の総計は第二次世界大戦における全ての交戦国の中で最も多いばかりか、人類史上全ての戦争・紛争の中で最大の死者数を計上した。 両国の捕虜・民間人に対する扱いも苛酷を極め、占領地の住民や捕虜は強制労働に従事させられるなど極めて厳しい扱いを受けた。 ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡している( ())。 またドイツ兵捕虜300万人の多くはそのままソ連によって強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した( ())。 開戦から1943年7月のまでは主にドイツ軍の攻勢とソビエト軍の防御という展開であったが、クルスクの戦いの後は攻守が逆転し、東欧からドイツ東部にいたる地域がソビエトの占領地域となり、1945年5月8日に総長元帥がベルリンで文書の批准手続きを行ったことにより、戦争は終結した。 経過 [ ] 開戦までの両国の関係 [ ] 「」も参照 後、世界の孤児であったドイツとソ連は1922年、により国交を回復させた。 当時のドイツはにより、過大な賠償金負担に苦しみ、軍備は10万人に制限されていた。 経済も世界的に不況で、ドイツには資源が乏しかった。 一方、ソ連も共産主義国家として孤立し、など列強各国政府から軍事干渉を受けた。 ドイツには資源と場所が皆無だった。 ソ連は資源と場所は恵まれていたが、技術が乏しかった。 互いに世界から孤立していたが為に利害が一致し、ドイツとソ連は手を結んでしばし蜜月の時を刻む。 1933年にヒトラーが政権を握った。 ヒトラーをはじめとするナチ党()は反共を唱えており、ソ連はナチスを「」と呼んで批判していた。 双方の独裁者はお互いを「人類の敵」、「悪魔」などと罵り合った一方、互いの利害のために利用することもあった。 では、代理戦争という形で両国は対決した。 また、の一因に、長官の謀略があったともされる。 その後、一方のは、イギリスのドイツに対するをみてイギリスとドイツが対ソ包囲網を結んでいるのではないかとの懸念から、また、他方のヒトラーはを避けることを目論んで、1939年8月にを結ぶこととなる。 この間にソ連は、ドイツに対してが禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やのためのレーダー技術の提供などを行い、更にソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーに便宜を図っていた。 またソ連から資源がドイツへ輸出されており、戦争開始数時間前まで鉄道による輸送が続いていた。 ドイツの外相はソ連とより強力な連携を取るべきと考え、日独伊にソ連を加えた四国同盟を構想していた。 しかしヒトラーはの失敗によって戦争の前途に行き詰まりを感じており、「ソ連が粉砕されれば、英国の最後の望みも打破される」とし 、さらに東方生存圏の獲得のためソ連侵攻を考えるようになった。 1940年7月中旬には「ヨーロッパ大陸最後の戦争」である独ソ戦開始の意思を国防軍首脳に告げ 、侵攻計画の策定を命令した。 この後も表面上両国関係は穏やかであったが、ソ連からの物資が滞りなく流入していたにもかかわらず、ドイツの支払いは不自然なほどに引き延ばされたり、工作機械のソ連への引き渡しが当局によって妨害されたりもした。 一方でソ連は軍備増強も行っていた。 開戦前夜の1941年の3月から4月にかけ、機械化歩兵師団20個師団を編成し、暗号系統を変更した。 ドイツ国防軍情報部はこれを開戦準備と受け止めている。 また、欧米でも比類のない大規模な航空機工場が存在しており、練度の面でも高いものがあるとドイツ空軍技術視察団は報告している。 ヒトラーは後に、「この報告が最終的にソ連即時攻撃を決心させる要因になった。 」と述懐している。 1940年12月、ヒトラーは対ソ侵攻作戦の作戦準備を正式に指令した。 ソ連にはドイツの戦争準備を告げる情報が、イギリス政府や軍の情報部などから様々な形で集まった。 しかし、スターリンを始めとするソ連上層部は、これらの情報を欺瞞情報であるとして退けた。 ドイツ軍への挑発につながるため、独ソ国境での防衛準備も目立って行われなかった。 1941年 [ ] 1941年6月から12月にかけての戦線 6月22日、の発動によりドイツ・ソ連国境で一斉にドイツ軍の侵攻が開始された。 当初は5月の侵攻を予定していたが、ユーゴスラビアで発生した政変により作戦の開始が一ヶ月以上延ばされることになった。 開戦直前、ヒトラーは赤軍に配属されたの即時処刑を命令し()、「イデオロギー戦」としての性格を認識するよう軍指導部に伝えている。 開戦当初は奇襲により各戦線でほぼドイツ軍がソ連赤軍を圧倒し、では、中央軍集団は開戦1ヶ月でを占領する快進撃を続けた。 赤軍は各地で分断され、多くの部隊が投降・捕虜となった。 また、ソ連赤軍の航空部隊は独ソ戦勃発時には、はるかに時代遅れでありドイツ軍の爆撃により壊滅し、制空権はドイツ軍が掌握することに成功した。 しかし南方軍集団は、投入兵力の割りに作戦地域が広大であったため、進撃が遅れ気味であった。 これは、近年では開戦前ドイツに対し先制攻撃を考えていたソ連赤軍が南部に兵力を集中させていたからという説がある(の項を参照)。 しかしドイツ側の損害も甚大であり、1週間で1939年から1940年6月までのドイツ軍死傷者数を上回ることもあった。 その為、8月にはを陥落させた中央軍集団の主力部隊の矛先を南部に向け、南方軍集団を支援することによりウクライナ地方に展開していた数十万のソ連赤軍部隊は壊滅し、、などが陥落した。 この支援により中央軍集団の首都への進撃は約1ヵ月遅延した後、9月にに乗り出す。 ドイツ軍はまであと十数キロのところまで迫ったが、例年より早い冬によって発生した泥濘と降雪が進撃の足を止め、赤軍も猛抵抗したことによりドイツ軍の攻勢は頓挫した。 短期決戦を想定していたドイツの目論見は外れ持久戦の様相を呈することになる。 電撃戦を続けてきたドイツ軍にとっては初めてのケースであった。 補給路が延び切った上、冬季装備の前線部隊への配送が滞ったドイツ軍は各地で進撃の停止を余儀なくされた。 その頃、ソ連側はなど日本の勢力圏で活動する諜報員からもたらされた情報によって、が参戦する可能性は無いと確信し、10月以降、満州やシベリア地区の精鋭部隊を周辺に投入した。 11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、この騎兵部隊は戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。 国際面から言えば、アメリカの大統領がソ連に対する武器・物資援助(適用)に踏み切ったのは1941年11月7日、モスクワ市が陥落の危機を脱したと確認された時点である。 このことは「モスクワを後回し」にしたことの誤りの一つとされる。 国防軍の指導部はモスクワ前面からの撤退を唱えるようになったが、ヒトラーの厳命によって戦線は維持された。 ヒトラーは陸軍総司令官ら多くの将軍を更迭し、自ら陸軍総司令官に就任することで、さらに独ソ戦の戦争指導に容喙することとなった。 ソ連側は12月初旬から冬季大反攻を開始し、ドイツ軍をモスクワ近郊から後退させる事に成功した。 ヒトラーの死守命令によって撤退できないドイツ軍による必死の抵抗と自軍の稚拙な作戦によりソ連赤軍は各個撃破され攻勢は失敗し、ドイツ軍は辛うじて戦線崩壊を回避した。 ソ連側はによりドイツ軍の現地調達の手段を奪い、更にドイツが占領した地域の住民に対しを組織させ、後方撹乱によりドイツ軍の補給を妨害した。 また、軍事的に重要な工場や労働者を貨物列車によりドイツの手の届かない内陸部にまでさせた。 このことにより一時的に生産力は低下することとなったが、やがてこの安全な地から大量の戦車が生み出されることになる。 1942年 [ ] スターリングラードでのルーマニアの兵士 ドイツ軍の損害を過大に評価したスターリンは、1942年を「ヒトラー・ドイツの崩壊の年、赤軍の勝利の年に」と叫び、赤軍参謀本部の反対を押し切って「全戦線での総反撃」を命じた。 しかし、いまだ強力な戦力を保持したドイツ軍及びその同盟軍を打ち破るには、赤軍の戦力は質的にも量的にもまだ十分でなく、春先には総反撃は頓挫して戦線は膠着した。 しかし、赤軍はドイツ軍を後退させたことにより、失いかけていた自信を回復することができ、ドイツ陸軍の無敵の神話は破られたのである。 このような状況の中でスターリンは前年の経験から「ドイツ軍は、決着をつけるために一気に首都モスクワ侵攻を狙うに違いない」と思い込み、モスクワ西部及び南面での防備の強化と、予想されるモスクワ進撃作戦を牽制し、事前にドイツ軍戦力を撃破するための反撃をハリコフ方面で開始するよう命令した()。 しかし、ドイツ軍の今度の主攻勢方面は全く逆のソ連南部を目指すものだった。 前年の作戦により、ドイツの地上戦力の限界が露見した。 生産力の上限から広大な戦線での損害を埋めることも、補給することも困難な状況であることが明確になったのだ。 1942年のドイツ軍夏季攻勢は限られた戦力によるものとなり、成功すれば効果的ではあるが非常に危険を伴う作戦であった。 こうして純軍事的目的ではなく、ヒトラーの言う戦争経済の元に計画が建てられた。 6月28日、南部戦線にて、への到達とコーカサス地方の資源獲得を目的としたが発動される。 作戦開始当初は快進撃が続き、7月23日にはヒトラーが「(ブラウ作戦の目標は)大部分が達成された」と明言するほどであった。 しかし赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。 7月28日、スターリンは「」を発し、全戦線における抵抗を命じた。 の油田地帯に向かったドイツのA軍集団は油田のあるを占領したが、油田はすでにソ連軍により火をつけられていた。 次にA軍集団は油田のある東のに向かったが、進軍するにつれて補給路が伸び、燃料不足とソ連軍の抵抗により進軍は停止した。 スターリングラードに向かったドイツのB軍集団は市の大部分を制圧したもののソ連軍の頑強な抵抗により冬が到来しても市街戦を続けていた()。 このような中で、ソ連は極秘のうちに大規模なの準備を進めていた。 反攻作戦は11月19日に開始され、スターリングラードのドイツ軍は補給路を切断されて包囲されることになった。 空軍総司令官でのが空軍による空からの補給を約束したこともあり、ヒトラーはスターリングラードのドイツ軍の包囲突破による退却を許可せず、防御陣地を構築して戦うよう命じた。 しかし、空軍による物資補給は必要量を届けることができず、包囲されたドイツ軍は日ごとに衰耗していった。 ドイツ軍は包囲網の外から陸路でのも行ったが、救出軍はソ連軍の包囲網を突破することができなかった。 1943年 [ ] ルーマニア王国海軍 駆逐艦 1943年1月後半、で包囲されていた約10万人の枢軸軍は、司令官の決断により投降し捕虜となった。 一方、で進軍が止まっていたA軍集団もこの方面でソ連軍が大規模な反攻を開始したために退路を断たれる危険が迫ったが、こちらはヒトラーに撤退を認められ、2月に包囲網が完成する前にかろうじて撤退に成功した。 この結果、ブラウ作戦の目標はどれも達成させず、ドイツは膨大な兵員と資材を失っただけであった。 ブラウ作戦の失敗、とりわけスターリングラード攻防戦の敗北は対ソビエト戦における決定的な勝利の可能性を失しただけでなく、同盟国に与えた影響が大きかった。 なによりも人的資源の余裕のないドイツにとってこの敗北の影響は大きく、予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。 一方でスターリングラードの勝利は、ソ連軍にとって勝利への自信を持たせるに至った。 ソ連の将軍であるは、「やはりドイツ軍も無敵ではないのだ。 我々もドイツ軍を破りうるのだ。 この確信を持てたことが決定的に重要であった。 スターリングラード後も、ソ連にいるドイツ軍は強大であり、これを撃退できるかどうか予測はできなかった。 が、我々でもドイツ軍を撃破できるとの確信を持てたこと。 その効果こそが、限りなく大きかった。 」と、スターリングラードの勝利を評価している。 ドイツ軍ではブラウ作戦と、スターリングラードにおける血みどろの市街地戦の戦訓により、様々な戦闘車両が生み出される事となった。 これらの複数の戦闘車両は一部の旧式車両の車台を流用する場合を除き、戦闘車両生産をますます混乱させることとなった。 1943年夏季攻勢においてドイツ軍内部では積極的に攻勢に出るか、防衛の後攻勢に出るかで意見が分かれたが、ヒトラーが主張した積極攻勢が実施され中央軍集団と南方軍集団の間にできたクルスク突出部を南北から挟撃する作戦が実行された()。 諜報活動に基づき十分に事前準備された針鼠のごとく巡らされたソ連赤軍の対戦車陣地に進撃をはばまれ、ドイツ軍は多大の出血を強いられた。 時を同じくしてへのの報に作戦は決戦を待たずして中止される。 以後、ドイツ軍は完全に東部戦線の主導権を失い、秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連赤軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続けることとなる。 これにより戦線は、ドニエプル河を越えて、西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連赤軍に奪回された。 1944年 [ ] 1943年8月から1944年12月にかけての戦線 ドイツがソ連に侵攻を開始したバルバロッサ作戦からちょうど3年目の6月22日に、赤軍は一大攻勢であるを発動した。 ドイツ軍は当初攻勢は南部戦線と予測しており、赤軍の欺瞞作戦の効果もあって対応が後手に回ることになった。 赤軍は、かつてのドイツ軍が得意としていた陸空一体のを展開。 圧倒的な物量・戦力差とヒトラーの厳命により撤退すら出来ない部隊はもはや機動戦すら出来ず個別に撃破されるという、開戦時と立場が逆転したのではないかというような状況となり、ドイツは事実上壊滅することになる。 この作戦の結果、ドイツ軍はロシア全域から駆逐され、開戦前の国境線まで後退することになった。 この段階で東部戦線の継続はほぼ不可能となり、以後絶望的な戦いを余儀なくされる。 南部ではの影響によりルーマニアでクーデターが発生し枢軸を離反、逆にドイツに宣戦を布告した。 9月には、とも枢軸側より離脱した。 一方ハンガリーは、ドイツ軍主導のの工作により枢軸側に留まった。 1945年 [ ] 1945年1月から5月にかけての戦線 1月からはソ連軍がを行い、2月2日にはベルリンまで70kmにせまった。 2月14日、ハンガリーの首都が陥落し、ハンガリーのほぼ全土がソ連赤軍の支配下となった。 ドイツ軍はハンガリーの油田奪回を目指して最後の攻勢を行うが、圧倒的な戦力差により惨敗を喫する。 4月16日、元帥のが開始される。 4月30日、。 5月2日、ベルリンは陥落した。 後継大統領に指名された元帥のは降伏を決断し、5月7日にフランスので降伏文書の調印が行われ、5月8日午後11時1分に休戦が発効する事になった。 5月8日午後11時からはベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表元帥と元帥、ドイツ国防軍代表陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)。 しかし、独ソ戦すべての戦闘が終結したのはが終結する5月11日のことだった。 戦場としてのソビエト・東部戦線 [ ] [ ] ソビエトと戦うためドイツ陣営に加わる(1942年) ナチス・ドイツ軍がそれまでに行った戦いは鉄道網、道路網が整備された限定的な地域であり、目的地までの距離は比較的短かった。 このことは、ドイツ軍が編み出したという戦術を行うことにおいて有利に働いた。 進軍・補給ともに計画もしくはそれ以上の結果を残したため電撃戦の効果を十二分に発揮できたのだ。 電撃戦によって自軍の損害を小規模にとどめ、短期間に他国を蹂躙・占領し戦闘で消耗した兵器・兵士は修理・補充・休養を取り、資源を搾取する。 このことは資源を持たないドイツにとって重要なことであった。 戦争前からの経過を見ればわかることであるが、ドイツは他の方面の防衛は最小限とし攻勢の前面にほぼ全力を投入する戦闘を続けており(この命題は戦争をする者にとって最大かつ最重要なことであり正しいことである)、電撃戦の失敗による長期持久戦化はドイツにとって危険となるを生み出すことになるはずである。 独ソ戦の開戦時、機甲師団の能力・電撃戦の限界については未知数だったといってよい。 なぜならば対ソビエトの戦闘においての進撃すべき距離は、これまでの戦闘とは比較にならない距離だったからである。 これまでの戦いとは異なり、本国とはるか離れた広大な領土を持つソビエトにおける戦いは電撃戦による短期決戦が可能かどうかという点については意見が分かれるところであった。 電撃戦に必要なものは一にも二にも速度であり、これには補給と飛行場の確保が不可欠である。 だが、ロシアの大地は電撃戦をしかけるにはあまりに広大であった。 インフラストラクチャーは未整備、冬季は厳寒。 攻撃する側は必要以上に十分な装備を持ち得ていなければならない非常に危険な大地だった。 広大な土地に対しての情報は不足し、道路の情報はほぼ間違いであるといって過言ではなかった。 ほとんどの道路は未舗装であり、そのことが後に進軍を阻む泥濘と化すことを知らなかったのではないかといえるほど、ドイツ軍の準備はなされていなかったといえる。 輸送に関し、いまだに無数の荷馬車に依存していたドイツ軍はロシアのぬかるんだ地面では嫌になるくらい進軍がはかどらなかった。 これまでにも機甲師団の進軍においての故障率は対オーストリアへの進駐の段階ですら看過できない状態であり、戦闘期間が長引けばそれは機甲師団を軸に戦争の計画を立てている者にとっては恐るべき結果が待っていたといっても過言ではない。 部隊の数を増やすことなどままならず、維持することすら多くの努力をもってなされていた状態であった。 ドイツの戦車は、ドイツ気質を体現するように最善を求めて作り上げた精密機械であった。 電撃戦による短期決戦には対応できるが、長期持久戦を維持するには膨大な人的資源を必要とした。 ロシアの冬は精密機械であるドイツ戦車を使用不能にするほど過酷な大地であった。 驚くべきことに、ドイツはその気質を体現するかのように整備・回収の能力を保持していたといえるだろう。 だがロシアの大地は苛酷であり、あらゆるものが故障し、放棄される運命にあった。 そして補給の混乱がそれに輪をかけたのである。 必要な部品は届けられず、兵器も多かった。 ドイツ軍のそれまでの対戦国はドイツともしくはであると考えられる国々であったのに対し、ソビエトは資源・生産力・人口においてドイツを圧倒していた。 戦争が長引けば、国力の差がドイツを日々圧倒してくることは間違いなく、それはドイツ軍の敗北を意味していた。 すでに同等以上の国力を誇っている英米連合国との戦争をしている状況において、西部戦線・北アフリカ戦線に加えて東部戦線という三つの戦線を維持し続けることはドイツにとって過大な負担となることは明白であった。 このような状況・段階にもかかわらずヒトラーのソビエトに対する認識はあくまでも過小評価であり、バルバロッサ開始時だけでなくブラウ開始後においても、ソビエト赤軍の戦力の低下を認識し、それを参謀本部にも確認する状況であった。 確かにソビエト赤軍のでの戦力比に対しての戦闘の状況、その元となる赤軍の総合的な戦力の低下はまぬがれなかった。 まして独ソ戦初期における損害は膨大であり戦力の低下は間違いなかった。 だが、赤軍の予備兵力はドイツ軍が想定するよりもはるかに膨大であった。 もし勝利を得られることがあるとすれば、圧倒的な電撃戦による勝利か、開戦1年目のような捕虜・軍事物資の放棄が常に続くような状況でない限り勝利は遠かったのだ。 このようなドイツに対して、ソビエトは全力をあげて赤軍の組織を再編しドイツ軍に対抗した。 史上最大の戦車戦となった 陸・海・空という総合的な戦力が問われるわけではない独ソ戦において、ソ連赤軍には革新的ともいえるという戦車の存在があったことは特筆すべきであろう。 敵の砲弾を弾く効果的な形状を持ち、その形状にそった小さな砲塔には敵戦車に対しては必要十分な砲を持つという、対戦車戦において絶対的に優位な、今日における主力戦車の概念を与えうる戦車の歴史を変えるほどの戦車であった。 確かに、その実態は様々な部分において洗練されておらず、無骨で運用面での様々な特性・利便を無視した設計でありドイツからみた戦車戦術からするとまだまだ問題の多い戦車であったといえその性能はさまざまな部分において欠陥が指摘されているであろう。 だが、戦術という面ではなく戦車単独でみる限りにおいてその性能はずばぬけていた。 ロシアの大地に最適な戦車であり大量生産しうる体制を確立し、それらを加味したうえで必要十分な性能を持った時代が必要としていた戦車そのものだったのである。 独ソ戦という状況、かつロシアの平原においては既存のドイツ戦車を駆逐する性能と生産性と整備性を維持している驚異的な戦闘車両であった。 ドイツから指摘しうる欠陥は砲塔、砲など着実に変更・修正され、やがて三人乗りの大型砲塔に85mmの砲を積むことによって中戦車としてはその量産性をもってしてドイツ軍を圧倒することになるのである。 それに及ばず、トラックを利用した簡易なロケット砲()、ソ連空軍は襲撃機といった対地攻撃に特化した航空機()を量産し対抗した。 赤軍はその膨大な予備兵力によって、1941年夏の圧倒的な敗北から敗北を理解し、1941年冬の攻勢の失敗から攻勢のなんたるかを理解した。 そして、予備兵力にかげりが見られるかと思われる段階において、もはや予備兵力のないナチス・ドイツに対して1944年夏の最大の大攻勢を行うのである。 交通事情 [ ] 1943年、ハリコフでの。 戦闘車両は ロシアの鉄道はドイツとは(レールの幅)が異なり(ドイツがなのに対し、ソ連は1524mm(現在の公式発表では1520mm)のロシアゲージ(の一種))、そのままではドイツから直接列車を乗り入れることができなかった。 ドイツ側は列車のをあてにしていたが、ソ連側はへの工場疎開と同時に列車を避難させていたためドイツ軍の鹵獲は思うように行かず、結局、によって線路を標準軌に変更する工事を行った。 これらの線路はソ連側の逆襲時にアメリカの援助を受けて元のロシアゲージに戻されている。 冬季のロシアの厳寒はドイツが持ち込んだ蒸気機関車を容易に故障させた。 劣悪な路盤整備においては大型の機関車の導入も拒んだ。 道路網は舗装が整備されていない悪路が多く、情報が不足していた。 また、南北方向の道路網は比較的整備されていたが、東西に移動するドイツ軍の進撃には役に立たなかった。 そのため、軍備増強を急いだために自動車化が完全ではなく、移動・補給の多くに鉄道と軍馬を必要としているドイツ軍にとっては困難な戦場であった。 自国の生産だけでは間に合わず、占領国からもかき集めたトラックなどを含めて荒れ果てた道路での利用による故障は甚だしく、輸送の効率は非常に低いものになった。 また、同時期に戦場となっていたは、広大な戦域(地図上でみても、西端から東端までの距離はベルリンからモスクワよりも遠い)にも関わらず、港湾付近以外では自動車以外の補給手段がないため、その作戦規模に比較して膨大な輸送用自動車が割かれていたことも大きな問題となっていた。 確かに北アフリカ戦線は自動車以外の補給の方法は無かった。 だが、要求する数量は明らかに作戦が生み出すものからすれば桁外れな数量であった。 最前線の部隊への燃料補給を1とした場合、その9倍の燃料消費が必要となるほど補給部隊の消耗が激しかった。 それに対し、赤軍にはレンドリースによってアメリカから送りこまれた大量の軍用車両が配備されていた。 の台として用いられたものを含めたこれらの車両がなければ、バグラチオンのような電撃戦は不可能であったといわれている。 ドイツにおける冬期装備は考えられないほど遅れていた。 例に漏れずドイツの装備は理想的なものを想定し、ロシアにおける冬期装備の準備を策定していたにもかかわらず、その配備は遅々として進まなかった。 その装備はこの戦闘の冬季戦闘のどこに配当されたかと思うほどである。 土壌と気候・焦土作戦 [ ] ロシアの大地は内陸気候と土壌により、春と初冬には泥濘と化し、夏は乾燥、冬は厳寒の土地であった。 春・初冬の泥濘の時期には移動はもとより、最低限の補給にも大きな影響を与えた。 また、冬季の厳寒における戦線の維持も重大な問題であった。 だがこれは攻められる側のロシアにとっては有利なことであった。 大地そのものがであり、毎年早くに訪れるも侵略者を苦境に陥らせるのである。 そしてさらに攻略する軍を苦しめるために行われるのが焦土戦術である。 以上のことから、夏季にドイツ軍の攻勢・反撃を行うが冬には装備の不備から防戦に回り、赤軍は夏・冬に攻勢・反撃を行った。 ナチス・ドイツ軍は電撃戦の成功を信じたのか、1941年(バルバロッサ)、1942年(ブラウ)でも冬季装備を全くといってよいほど装備していなかった。 におけるとの戦闘では醜態を晒した赤軍であるが、ドイツとの戦いでは日本との戦争に備えてシベリア方面にいた精鋭軍を投入できたことも大きかった。 かつてを展開し、でを、で率いるを撃退したロシアは、三度同じ戦略を決行することは明白であった。 もっともこの作戦はロシア側にとっても多大な犠牲を強いることになった。 後にソ連赤軍が攻勢に転じドイツ軍が防戦に回ると、ナチス・ドイツ軍は同じようにソ連領土内を焦土とし、多くの都市は廃墟を目にすることになった。 戦争末期になるとヒトラーはドイツ国内の生産設備を破壊するよう命じたが()、その予想は的中した。 ソ連に占領された東部ドイツは産業が発達した地域ではなかったが、ソ連によって企業のみならず家庭からもありとあらゆるものが押収されることとなった。 パルチザン [ ] 「」も参照 ソビエトは第二次世界大戦開始当時の状況を見る限りにおいて侵略国であると考えられる。 ポーランド、フィンランド、ルーマニア、バルト三国などの隣国に対しての行動は明らかに侵略そのものとみられた。 これらの状況をふまえてイギリス・アメリカは困惑を含めて眺めていた。 ナチス・ドイツが目論んでいるロシアの植民地化は地政学でいうとしての地位を確立することになる。 連合軍の目的は全体主義国家でありランドパワーとしての地位を復活しようとするナチス・ドイツの殲滅である。 連合国にとってソビエトはその対象であるのか。 共産主義を嫌っていることで知られるイギリスの首相は、ナチス・ドイツとの戦争に勝利するという何事にも変えることの出来ない目的を遂行するために、「敵の敵は味方」として自身の信念を曲げてでも共産主義国家であるソ連と手を握るという判断を下すのである。 独ソ戦が始まると、それまでたびたびソ連を非難していた英国はただちに大量の物資の援助を提案し、中立であったアメリカは5月に制定した(武器貸与法)をソ連にも適用することにした。 ソ連と米英の協定は1941年10月に結ばれ、この時から1945年までに武器と物資がソ連に供与された。 援助の効果は1942年に目立ちはじめ、1943年にはソ連軍の兵站物資・機材の相当部分を占めるようになった。 大半の援助物資はを経由して供給された。 大ざっぱに言えば、スターリングラード戦までのソ連軍はほぼ自国製品で戦い、クルスク戦以降は援助物資とともに戦ったと言える。 、などの、、、、、、などののための物資、さらに、、のような一般工業製品から、といった原材料まで、さまざまな援助物資が届けられた。 供与兵器は、正面装備に関するかぎりソ連戦力で大きな比率を占めなかった。 戦車はソ連製の方が要目上は優れていたため、前線で歓迎されない型もあったが、機械的信頼性の高さからアメリカ・イギリス製戦車が好まれる場合もしばしばあった。 しかし、援助物資がと経済、生活に与えた寄与は大きかった。 主要工業地帯がドイツ軍に占領され、残る生産能力も兵器生産に向けられたことで、ソ連ではと生活のための物資が著しく不足していたためである。 また、兵站などはソ連が立ち遅れていた分野で、米英からの援助が重要であった。 スターリン以下のソ連の指導者は、援助がソ連の戦争遂行能力を支えていることを自覚していたが、同時に、ドイツ軍の戦力のほとんどをソ連が引き受けている以上、援助は当然だとも考えていた。 アメリカのルーズベルト大統領は第二次世界大戦の最中の1942年5月、ソ連軍の活動とその影響を評価してこう記した。 「ロシア軍が連合国25ヶ国の軍隊よりも、対戦国の厖大な兵士と兵器に打撃を与えているという明白な事実を無視することはできない」と。 ソ連は米英軍が西ヨーロッパのいずれか(フランス、あるいはイタリア)に上陸して第二戦線を開くことを要求したが、この要請は1944年にが実施されるまでほぼ、満たされなかったといってよい。 このためスターリンは、米英が自らは戦わず、独ソをともに消耗させようとしているのではないかという疑念を抱いていた。 そこでソ連が米英に用いたのが、対独単独講和というカードであり、援助を止めさせないために単独講和をほのめかし続けた。 そしてソ連は獲得したポーランド東部領土の承認を英米に求め、とソ連の関係が悪化すると、ポーランド亡命政府との関係を絶つよう英米に要求を行った。 結果としてポーランド国境についてはソ連の要求が通り、戦後ポーランドは大きく西に移動する形となった。 連合国の勝利がほぼ確定的となった1944年になると、イギリスはソ連の東欧支配、さらには地中海への進出に警戒心を見せるようになった。 ()ではチャーチルがスターリンと「」を締結し、東欧に対するソ連の優越権を認める一方で地中海へのソ連の進出を食い止めようとした。 しかし、後のでソ連はさらに進出の意向を示す。 さらにローズベルトの死去により副大統領から大統領に昇格したトルーマンも、人類初の核実験であるの成功の報を受けてソ連への態度を硬化させた。 そのためポツダム会談はローズベルトの融和的政策のもとでなされたヤルタ会談と全く異なるものとなった。 共通の敵を失った連合国の列強は再びイデオロギーの対立に立ち戻り、という対立軸へと向かうことになる。 戦争犯罪 [ ] ナチズムにおいてスラブ人はとして扱われており、またイギリスの海上封鎖によって食糧難に陥っていたドイツでは、ソ連の土地から食糧を収奪することが喫緊の課題であった。 占領地域に民族ドイツ人を植民し、ドイツ領土化するという「」はこの時期に建てられたものである。 庁と食糧次官は、ドイツが戦争を遂行するためには、3年間現地において国防軍が食糧を調達することが必要であると試算している。 バッケらはこの食糧収奪によって数百万人のロシア人・スラブ人を結果的に餓死させるという計画を立案していた( ())。 彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込んでいた。 ゲーリングの大都市の占領は「望ましくなく、包囲して餓死させるべきである」という発言もこれにつながっている。 また、親衛隊によって組織されたは、占領地域の治安維持のためとして・共産主義者・パルチザンの検挙・殺害を組織的に行った。 ドイツ占領地では実行のために親衛隊が活発な活動を行い、国防軍もこれに協力した()。 一方で、ソ連軍は敵の捕虜に対して苛酷な労働を課した(ソ連は捕虜の待遇を定めたを批准していなかった)。 ソ連軍が東欧に侵攻すると報復の対象は民間人にも及び、激しい略奪と暴行が繰り返された。 対敵協力者 [ ] ドイツの捕虜になったソ連軍将兵や民間人のなかには、将軍が組織したやなど、対独協力者となった者も少なくなかった。 大戦後半、人的資源の枯渇に苦しむドイツ軍で多くのソ連出身者が弾薬、燃料輸送など後方活動に従事し、中には最前線でかつての「同志」に銃口を向ける者もいた。 戦後、ソ連政府は「裏切り者」に対して容赦をせず、対独協力者としての過去が判明すれば、銃殺や絞首刑に処されたり、等のシベリア各地への追放を受けた。 また、ドイツ軍人の中にも、パウルス元帥や将軍など、捕虜になった後にに参加した者も存在した。 影響 [ ] ドイツは戦争によって敗北し、ナチス政体は崩壊、アメリカ・ソ連・イギリス・フランスによる分割占領を受けることとなった()。 その後東西両陣営の対立により、および(東ドイツ)の2国に分断されることとなった。 この分断状態は1990年のまで続くことになる。 さらに東プロイセン等を含む以東の領土を喪失し()、これらの土地や東欧に住んでいたドイツ人はドイツ本国へと追放された()。 また戦争賠償として、ドイツ国内の原料や生産設備が現物徴収され、ソ連軍の捕虜は労務による賠償を負わされた()。 独ソ戦は連合国の対ナチス・ドイツ戦争の中で最大の戦域であり、それに膨大な損害を出しながら勝利したソ連の威信は極めて大きなものとなり、戦後秩序におけるとしての位置を確立した。 また新領土としては東プロイセンの、以東の旧ポーランド領土を獲得している。 またソ連は占領した東欧地域の政権を社会主義化し、自由な選挙によって政体を決定するという連合国間の合意は反故となった。 アメリカ合衆国・イギリスとの摩擦は大きくなり、への道に至ることになる。 ドイツが降伏した日はとして現在でも各地で式典が行われている。 2004年にはにおいて、5月8日と9日がと定められている。 評価 [ ] ドイツの敗戦40周年にあたる1985年5月8日、大統領がドイツ連邦議会で記念の演説を行った際に次のように述べている。 「五月八日は、ドイツの歴史のみならず、ヨーロッパの歴史に深く刻み込まれている。 ヨーロッパの内戦は終わり、古いヨーロッパの世界は崩れ去っていった。 歴史学者教授の言を借りれば『ヨーロッパは戦い尽くした』のである。 停戦の直前、東西から進撃してきた米ソ両軍兵士のは、さし当って、ヨーロッパの一つの時代が終わったことのシンボルである」。 はその著書『』の中で「第二次世界大戦の戦略的真相は、ヨーロッパ戦線での真の勝利者はロシアであったということである。 スターリングラードの以前、最中、以後のロシアの人的犠牲が、ナチスの軍事機構を粉砕することを可能にしたのだ。 1944年6月のノルマンディ上陸作戦は、時期的にはかなり遅い時点で実行されたもので、その頃にはロシア軍部隊はすでにドイツを目指して戦前の西部国境に到達していた。 当時多くの人士が、ドイツ・ナチズムを打ち破り、ヨーロッパの解放に最も貢献したのはロシア共産主義だと考えたということを忘れたら、戦後のイデオロギー的混乱を理解することはできない。 イギリスの歴史家で軍事問題の専門家であるが見事に見抜いたように、あらゆる段階でアメリカ軍部隊の行動様式は官僚的で緩慢で、投入された経済的・人的資源の圧倒的な優位を考えれば、効率性に劣るものだった。 ある程度の犠牲的精神が要求される作戦は、それが可能である時には必ず同盟国の徴募兵部隊に任された」と述べている。 また、1985年、当時は東ドイツの同地にかつての米ソ兵が集まって往時をしのび合った。 文献 [ ] ソ連側から• 『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』、清水邦生訳、国民文庫社、1953年• チーホノフ 『レーニングラード』、創元社、1952年 - レーニングラード戦を題材にソ連側から描かれた小説• Harrison E. Solisbury 『独ソ戦:この知られざる戦い』、早川書房、1980年 - 米人記者がソ連側から見た独ソ戦• Theodor Plievier 『モスクワ』 金森誠也訳、フジ出版社、1986年、 - ソ連側から描かれた独ソ戦の小説• David M. House 『独ソ戦全史;「史上最大の地上戦」の実像』 守屋純訳、学習研究社、2005年、 - ソ連側から見た独ソ戦• 『ボタン穴から見た戦争』 三浦みどり訳、群像社、。 - 原題は『最後の生き証人』。 当時子供だった人々へのインタビュー集• アントニー・ビーヴァー 著、川上洸 訳、『赤軍記者グロースマン 独ソ戦取材ノート 1941-1945』、白水社、2007年 ドイツ側から• 編 『モスクワへ、独逸宣伝戦闘隊写真報告第一報』、番町書房、1942年 - 、昭和17年に出版された写真集• 『バルバロッサ作戦』 訳、フジ出版社、1971年• パウル・カレル 『焦土作戦:ソ連の大反攻とヒトラーの敗走』 松谷健二訳、フジ出版社、1972年• Richard Muller 『東部戦線の独空軍』 手島尚訳、朝日ソノラマ、1995年、• Werner Maser 『独ソ開戦、盟約から破約へ、ヒトラーVSスターリン』 守屋純訳、学習研究社、2000年、 - スターリンの戦争準備• 『擲弾兵:パンツァー・マイヤー戦記』 松谷健二訳、学習研究社、2000年、 - 武装親衛隊指揮官の回顧録 - フジ出版社版の復刻 ボードゲーム [ ] 独ソ戦全体• 『Sturm Nach Osten』(WWW、別冊第8号)1982年• 『Russian Front』(、)1985年• 『失われた勝利』(、)1986年• 『War for the Motherland』(Rampart Games、シックス・アングルズ第9号)1994年 - デザイン• 『Russia Beseiged』(L2 Design Group、国際通信社「コマンドベスト第10弾」)2004年• 『East Front II』(Columbia Games)2006年• 『NO RETREAT! 』(Victory Point Games、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第1号」)2008年• 『1941』(、国際通信社「コマンドマガジン日本版第45号」)1981年• 『独ソ電撃戦』(エポック社、国際通信社「コマンドマガジン日本版第57号)1981年• 『Fire in the East』(GDW、ホビージャパン)1984年• 『モスクワ電撃戦』(SSシリーズ、国際通信社「コマンドマガジン日本版第75号」)1988年 - デザイン• 『Blitzkrieg '41』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第7号」)1989年• 『Army Group Center』(シックス・アングルズ第12号)1992年• 『真・バルバロッサ作戦』(1号)2001年 - デザイン• 『Barbarossa: The Russo-German War, 1941-45』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第87号」)2008年• 『激闘レニングラード電撃戦』(ゲームジャーナル49号)2013年• 『バルバロッサ作戦』(国際通信社「ウォーゲームハンドブック2014」)2014年 スモレンスク• 『スモレンスク攻防戦』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第74号」、「コマンドベスト第13弾」)2007年• 『Operation Typhoon』(、ホビージャパン)1978年• 『東部戦線:冬季戦41-42』(、ゲームジャーナル22号)1984年• 『Battle for Moscow』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第39号」)1986年• 『モスクワ '41』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第84号」)2009年 - 中黒靖デザイン• 『Roads to Moscow』(GMT Games)2013年 青作戦・スターリングラード• 『Drive on Stalingrad』(SPI、サンセットゲームズ)1977年• 『スターリングラード』(エポック社、国際通信社「ワールド・ウォー・シリーズ第4号」)1983年• 『Stalingrad Pocket』(The Gamers、国際通信社「コマンドマガジン別冊第5号」)1992年• 『Paulus' 6th Army』(シックス・アングルズ第10号)2005年 - 山崎雅弘デザイン• 『スターリングラード強襲』(ゲームジャーナル19号)2006年• 『激闘スターリングラード電撃戦』(ゲームジャーナル47号)2013年 ヴェルキエ・ルキ• 『White Death』(GDW、国際通信社「コマンドマガジン日本版第96号」)1979年• 『ハリコフ1941-1943』(翔企画SSシリーズ、シックス・アングルズ第8号)1991年 - 山崎雅弘デザイン• 『Ring of Fire』(Moments in History、国際通信社「コマンドマガジン別冊第18号」)1994年• 『激闘!マンシュタイン軍集団』(ゲームジャーナル4号)2002年 その他• 『48th Panzer Korps』(Pacific Rim、国際通信社「コマンドマガジン日本版第17号」)1991年• 『Berlin '45 The Nightmare Ends』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第3号」)1992年• 『Budapest 1945』(XTR、国際通信社「コマンドマガジン日本版第13号」)1994年• 『Forgotten Axis: Murmansk 1941』(GMT Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第63号」)1999年• 『Ukraine '43』(GMT Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第60号」)2000年• 『Drive to the Baltic! 『ウクライナ'44』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第70号」)2006年 - 中黒靖デザイン• 『レッドタイフーン』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第85号」)2009年• 『Battle for Korsun』(Chris Harding Simulations、国際通信社「コマンドマガジン日本版第97号」)2010年• 『1940: What If』(Decision Games、国際通信社「コマンドマガジン日本版第103号」)2010年 - 仮想戦• 『ルントシュテットの戦い』(国際通信社「コマンドマガジン日本版第109号」)2013年• 『キエフの包囲戦 1941』(戦旗工作室)2016年 脚注 [ ] []• 1944年10月18日以降は政権の• 正式な対ソ宣戦布告は行わなかった• , pp. 194、214. , pp. 333-336p. , pp. , pp. , pp. 370-371. , pp. 405. 「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」(社)• , pp. 676. , pp. 194. , pp. 110. 歴史群像シリーズ43 アドルフ・ヒトラー 戦略編 P. , pp. 104. , pp. 218. , pp. 200. 『ライフ 独ソの激闘』、P. 188-191• , pp. 116. , pp. 117-118. 『ライフ ソ連軍の大反攻』、P. 117, P. 192• 『ライフ ソ連軍の大反攻』、P. 181-184• 『ライフ ソ連軍の大反攻』、P. 193• 大東亜戦争ここに甦る P. 井上(2006:242)• 「Engineers of Victory」Paul Kennedy• 677. , pp. 678. 荒れ野の40年• 帝国以後 P. 121-122 参考文献 [ ]• イアン・カーショー『ヒトラー権力の本質』石田勇治訳、白水社、1999年(原著1991年)。 「 」 『上智史學』第51号、上智大学、2006年、 pp. 241-242、。 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』第3巻、文藝春秋社、1992年。 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』第4巻、文藝春秋社、1992年。 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 10巻』〈〉、1993年。 ニコラス・ベサル著、加登川幸太郎 監修、横田恒 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「独ソの激闘」』、タイム ライフ ブックス• ジョン・ショウ著、加登川幸太郎 監修、島村力/小山田義文 翻訳、『ライフ 第二次世界大戦史 「ソ連軍の大反攻」』、タイム ライフ ブックス• 谷喬夫「」『法政理論』第39巻第4号、新潟大学法学会、2007年、 650-686頁。 ヨースト・デュルファー 2010. 平成22年度戦争史研究国際フォーラム報告書. 芝健介『武装SS もう一つの暴力装置』講談社、1995年。 Christian Hartmann 2011. Unternehmen Barbarossa. Der deutsche Krieg im Osten 1941—1945. 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 (ナポレオン軍のロシア侵攻)•

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ソ連のバグラチオン作戦とかいうロマン溢れる作戦

バグラチオン 作戦

1944年6月6日に開始された ノルマンディー上陸作戦 により、 ついにドイツは二正面作戦を強いられることになった。 そのためドイツ軍は主戦場である東部戦線から西部戦線への 部隊の移動、補充をする必要が生まれた。 ドイツ及びドイツ占領地区への爆撃に対抗するために ドイツ空軍、特に戦闘機が西部戦線に移動していた。 このため、東部戦線の防空力は低下し、 陸上戦力もあるだけの予備が抽出され、 西部戦線に送られてしまっていた。 一方、ソ連軍は1943年末から1944年5月にかけ、 ドニエプル川 右岸のウクライナ からドイツ軍を掃討しており、 5月末の時点で回復していないソ連領は ほぼ白ロシア地域のみになっていた。 白ロシアにはこれまで東部戦線におけるドイツ軍の主力として、 装甲軍を含む多くの野戦部隊を抱える中央軍集団 が防衛していた。 過去三年間のあいだ、中央軍集団は東部戦線の中核であった。 そして1944年6月には、戦略的な要衝として有名な ヴィテブスクの「門」をまだ押さえていた。 そして、ミンスク(白ロシアの首都)は中央軍集団の後方にあり、 もちろん、ワルシャワもベルリンもこの軍集団の背後にあった。 また、バルト海 から黒海 に続く両軍の戦線のうち、 ドイツ中央軍集団の作戦域はソ連側に向かって大きく張り出しており、 今後の独ソ戦をさらに有利に進めるためにも、 ドイツへの最短経路である白ロシアの回復と、 東部戦線の主力である中央軍集団に損害を与えることが ソ連軍にとって極めて重要だったのである。 しかしドイツ側の ツァイツラー参謀総長などは、 ソ連軍はこの夏の攻勢で 直接ドイツに向かって前進するだけの準備が出来ていないと判断し バルカン半島を目指して前進すると考えていたのだ!! だが実際はソ連軍はすでに準備を整えており、 ドイツ軍を待ち構えていたのだ!! さてこのころ米英軍は北フランスのコタンタン半島にあり、 ベルリンまでは 1050キロ。 ソ連軍のヴィテブスクの「門」からベルリンまでは 1200キロ。 その差は150キロ程度であった。 つまり、東西両戦線からのドイツに対する脅威は、 戦略的に見て、まず同等であった。

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ソ連軍の夏季大攻勢(作戦名「バグラチオン」)(1944年6月22日〜8月末日)

バグラチオン 作戦

非常に運良くいけば、もしかしたら前線145キロ後方のべレジナ川のラインという事も。 戦史家リデル・ハート著書の「第二次世界大戦」の中に・・ブッシュとその幕僚が、べレジナ川までの後退を望み、適時そこまで後退できれば、ソ連の攻勢の調子を狂わせる事ができるはずであった。 というような事が記述されています。 実際に当時、指揮していたブッシュとその幕僚がべレジナ川までの後退を望んだのだから、そこにある程度の展望があったのではないかと思います。 ただ、私個人の意見としてはべレジナ川でも厳しいのではないかと・・・ もともと南部にソ連軍の攻勢がくると予想されていた事から、中央軍集団は兵力を引き抜かれ34個師団に弱体化していましたし、そのうち装甲師団はわずか1個師団。 予備兵力も少数。 そのうえ、航空兵力も他戦線に送られ、戦闘機はわずかしかなくたったの40機。 だから実際にソ連の攻勢が始まると、制空権は握られ空からの攻撃でドイツ軍は大損害を被っています。 また、パルチザンによるドイツ軍後方への攻撃も見逃せません。 攻勢開始前にパルチザンの大規模な破壊工作が行われ、1万5千ヶ所で爆破工作があり、鉄道は破壊され補給線を乱され電話線も千ヶ所以上で切断されています。 制空権と後方の破壊活動の大きな被害はヒトラーの口出しとは関係なく被ります。 これはかなりの痛手です。 まあ、それでも中央軍集団がヒトラーの計画した固定防御戦略を採らず、最初から機動防御戦を行っていたら、史実よりは良い結果が出ただろうとは思います。 A ベストアンサー 兵器の優秀さというのは、1対1で強いかとかカタログデータで決まるものではないのですね。 別に兵器に限った話ではないのですけれど。 1対1で単純に強いといったらドイツのタイガー2(キングタイガー)だったと思いますが、じゃあキングタイガーは無敵で前線の兵士から歓迎されたかというと、前線の兵士の評判はあまりよろしくないのですね。 なぜかというと、これはまあドイツ軍重戦車の宿命でもあるのですが故障しやすくて部品ひとつひとつがやたらと重い。 つまり整備が大変だったからです。 1対1で強い戦車があれば戦争に勝つかというとそうでもないのです。 例えば1940年のフランス電撃戦のとき、ドイツ軍の持つ戦車は3号戦車と4号戦車(前期型)が中心で、武器としては機関銃しか持っていない2号戦車の数もまだまだありました。 一方のフランス軍にはシャールB1という重戦車があり、イギリス軍にもマチルダ2という戦車がありました。 カタログスペックだけ見たら、B1戦車もマチルダ2も3号戦車や4号戦車より優れているのです。 しかも、その数はドイツ軍に比べると英仏連合軍のほうが多くの戦車を持っていたのです。 しかし、戦争にはドイツ軍が勝ちました。 その勝因は、戦車を集中して運用したからです。 プロ野球でも、ものすごい4番バッターがいたら優勝するかというとそうではないですよね。 チームとしての全体のバランスが重要です。 サッカーもそう。 軍隊(戦争)もそうなんです。 第二次大戦のときのアメリカ軍の主力戦車はM4シャーマンです。 カタログスペックだけ見ると、ドイツ軍の4号戦車よりちょっと優れている程度です。 だからドイツ軍のタイガーやらパンターやらには直接対決では勝てなかった。 でも、アメリカ軍はそれでよかったのです。 アメリカ軍にとってM4戦車は歩兵支援用です。 だから、それ用のための性能を重視しました。 そして、ドイツ軍の強力な戦車には、航空機などの戦車の苦手な手段で当たればいいと考えていたのです。 これぞアメリカ人の超合理主義。 「戦車の相手は戦車がしなきゃいけないと誰が決めたのだ」というわけです。 戦車というのはですね、基本的に消耗品なのです。 いくら優れた戦車でも1両だけじゃどうしようもない。 それなら平凡な性能の戦車が10両あったほうがいいのです。 これが基本的に理解できなかったのが日本軍。 理解できなかったというか、受け入れられなかったというべきでしょうかね。 基本的に貧乏な日本軍では、お金のかかる戦車を大量に用意して消費しながら戦うなんて贅沢な戦い方はやりたくてもできなかったのです。 日本軍悲劇の戦車チハタンこと九七式中戦車は、カタログスペックだけを見ると同時代の戦車、例えばドイツの3号戦車初期型とほぼ同等の性能を持っています。 3号戦車初期型が37ミリ砲を搭載していたのに対して、チハタンは57ミリ砲を搭載していたので、カタログ上は上です。 しかしこの、「カタログ上は」ってのがネックで、実はチハタンの57ミリ砲、初速が遅くて徹甲弾の性能が低かったので対戦車砲としては使い物にならなかったのです。 これは日本工業力の限界。 そしてなによりエンジンの性能が低かった。 3号戦車が300馬力のエンジンを持っていたのに対してたった170馬力しかなかった。 だから、改良を加えたくても性能に余裕がなかったのです。 日本軍は戦車の開発に関心がなかったわけではないです。 ただ中国軍にはほとんど戦車はなかったし、アメリカ軍も第二次大戦前にはほとんど戦車を持っていませんでした。 しかしソ連軍は戦車を大量に持っていたので、ソ連軍への対抗上戦車への関心は持っていました。 しかし、ソ連軍が戦車を「大量に動員する」という戦い方をしてきたノモンハン事変を目の当たりにして、「あんな戦い方は(貧乏で戦車を揃えられない日本には)とてもムリ」となったのです。 戦車は戦車単独で存在しているわけじゃなくて、修理をする整備兵や、補給をするトラックなども必要ですよね。 ところが当時の日本人にはそもそも車の運転ができる人がいなかった。 自動車運転は「特殊技能」扱いです。 ましてやそれの整備ができる人となるともっといない。 だから運用にも限界があるのです。 国に車が行き渡っていて、当然自動車修理工がいっぱいいたアメリカとの違いです。 兵器の優秀さというのは、1対1で強いかとかカタログデータで決まるものではないのですね。 別に兵器に限った話ではないのですけれど。 1対1で単純に強いといったらドイツのタイガー2(キングタイガー)だったと思いますが、じゃあキングタイガーは無敵で前線の兵士から歓迎されたかというと、前線の兵士の評判はあまりよろしくないのですね。 なぜかというと、これはまあドイツ軍重戦車の宿命でもあるのですが故障しやすくて部品ひとつひとつがやたらと重い。 つまり整備が大変だったからです。 1対1で強い戦車があ...

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