太陽の王子ホルスの大冒険。 宮崎駿「パクさんに青春時代を捧げた」|Real Sound|リアルサウンド 映画部

「太陽の王子ホルスの大冒険」の主人公は誰か?

太陽の王子ホルスの大冒険

海辺に父と二人で住むホルスは、岩男のモーグの肩に刺さっていた二本の剣を手に入れた。 その剣は太陽の剣と呼ばれる名剣で、その剣を鍛え上げ使いこなせるようになった時、ホルスは太陽の王子と呼ばれようとモーグは言う。 父を失ったホルスは、一切を焼き払うと、父の遺言に従い人々のいる北の村に向かってコロとともに舟出した。 再びこの地に帰ることはない。 途中ホルスは悪魔グルンワルドに弟になるよう誘われるが断ったため、崖から落とされてしまう。 ホルスは、倒れたまま流氷にのって村に流れ着いた。 村の一員として受入れられたかに思われたホルスだが、グルンワルドのたくらみで村に送り込まれた一人の少女ヒルダのために村人たちの不信を買い、とうとう村を追い出されてしまう。 悪魔が勝つかに見えたが、ヒルダの心の奥底には密かに人間らしさへの憧れが兆していた。 そして悪魔の攻撃が始まった・・・。 (C 東映 この作品の最大の不幸とは、完成・封切りがよりにもよって1968年になってしまった、という点なのではないだろうか。 この作品、同時代的には高評価を得られなかったために、ある時期まではアニメ青年たちのカルト映画に甘んじていたわけだが、そのことを「アニメ=子供向け」という偏見がもたらした不幸、つまり、この作品は「早すぎた映画」だったからだ、とするのは早合点であろう。 この作品、ロシア趣味的エキゾチシズムといい「団結する民衆」イメージといい、かなり50年代的な美学をひきずっている。 白土三平や大島渚らの同時期の仕事と比較するまでもなく、これは68年当時のもはや「子供」ではなく「若者」になっていた人間からすれば先進的どころかアナクロなシロモノだったはずだ。 この作品が当時「子供」ではなく「若者」向け映画として封切られていたら、むしろこっぴどく批判されていたのではないだろうか。 それにしても、この作品を約30年ぶりに見返して改めて感じたのが、まるで物語を運搬する以外の存在理由が無いかのような主人公・ホルスと、それとは正反対に内面が描きこまれるヒロイン・ヒルダとの、存在感の落差である。 この映画の作り手たちは長期にわたる製作の途中で主人公に飽きてしまったのだろうか?とすら感じてしまうほどだ。 以上ふたつの点から、この作品は日本のアニメというものの過渡期の模索ぶりが生々しく刻み込まれた記録、と捉えるべきで軽々しく名作認定するべきではないのではないか。 更に云えば、この作品が高評価を得られなかった、ということは、むしろ高畑・宮崎にとってはマイナスどころかプラスだった、と思うのだが。 ところで、この作品でのいわゆる止め画カットの多用は製作の困難による苦渋のものだったらしいが、事情を知らない現代の外国人研究家がそれを深作欣二っぽいと早合点して論文を書く、という椿事もありえる、かも。 冒頭のオオカミとホルスの戦いは手描きセルの迫力に 毛穴から血が噴出しそうになりました。 すごい! 蛮ちゃんとコナンが合体したみたい!! そしてオジイの死・・・おばけなますの死は コナンそっくりでしたね。 ここに全てがあります。 1人ではダメだ、人間は仲間と一緒に暮らすものだという主題が 根底にあり、見ていて深く心を打ちます。 ヒルダの悪役ヒロインの哀愁のすごさ。 目の強さ、弱さ、儚さ、 どれをとっても今の日本のアニメのキャラにはありませんね。 技術がどんなに優れても、細かい演出と物語、それを創るツクリテの手がないと 良作は生まれません。 この動き。 物語が今から50年も前だなんて! 今のディズニー映画に全く負けてません。 ジブリの同じ映画ばーーーーっかり流してないで 金ローはこれをすべきだよ。 この映画は、2019年12月にプライムビデオになったようですが、この映画を実際に見る人が増え、とても意義あることだと思います。 なかなかレンタル屋さんには置いていないし、テレビで放送されるようなものではないし、よほどアニメが好きでないと、円盤で買わないだろうと思うからです。 ちょうど、2019年の7月から10月に、高畑勲監督の回顧展が東京国立近代美術館で開催されましたが、この映画の製作過程についても、かなり重点をおいて、展示されていました。 高畑勲監督をはじめ、「作品参加」した大塚康生氏、森康二氏、小田部羊一氏、奥山玲子氏、宮崎駿氏等、すごいメンバーが書いた原画、イメージボード、手書きの資料が展示されていました。 最初から、ロシア風というか無国籍にしようとしたわけではなく、当初はアイヌの物語にしようとしていたようですが、事情があって、このような設定なったとも書いてありました。 展示の中で一つ驚いたのは、ホルス作成時に書かれた宮崎駿氏のメモでした。 この映画の制作過程では、高畑勲監督の方針で、映画の内容とまったく同じ考え方で、スタッフ全員がアイデアを平等に出し合って、協力して作品を作る「作品参加」というやり方で制作が行われていましたが、宮崎氏もアイデアのメモを残しておりました。 そのメモには、「ホルス パズー ヒルダ シータ という名前はどうでしょう」と書かれていました。 宮崎駿氏は登場人物の名前の変更を申し出ていたようなのです。 これがのちにラピュタの登場人物の名前に使われるのです。 青いペンダントをつけると、空を飛ぶことができ、 孤独に暮らす、どこまでもまっすぐな少年と、 呪われた力を持つ家族に生まれた少女が 力を合わせて、 同じ家族に生まれた邪悪な野心を持つ男を倒す。 ホルスには、いろいろと破たんしたところもあると思いますが、ラピュタを産み落すような、汲めども尽きない豊かさがこの映画にはあるのだと思います。 ホルス 監督高畑勲、場面設計宮崎駿 ラピュタ 監督宮崎駿、制作高畑勲 (これまでもいろいろな方に言われてきたことだと思いますが、ホルスが育ての親の死によって、一人で旅立つところはコナンに、結末に自然の象徴である巨人が大暴れするところはもののけ姫に、生活する村人たちの姿は、ハイジ、コナン、ナウシカ、・・・と続き、自分の運命に迷う少女の姿は、赤毛のアン、思い出ぽろぽろ、かぐや姫へとつながっていきます。 この映画の中にすべての始まりがあるのだと思います。 2020年4月から岡山県立美術館で高畑勲展がもう一度あるので、この映画のことを知りたい方は、ぜひ、見に行っていたただきたいと思います。 ) 高畑監督に興味を持って以来、原点だと様々な書籍映像で聞きながらもほぼ見ることを絶望視し、転がっていた予告編のみ見て思いを募らせていた太陽の王子ホルスの冒険を見ることが出来た、ということに感無量。 王道ですが、大地に根差しておりそれが現代人からすると羨ましくさえ見える。 話自体もかなり複雑で、迷いの森での心理描写は本邦初なのではないかと思う。 つまり抽象空間で自分自身か相手と対話するという日本アニメに時々見られる悟り描写はこの作品が初めてなのではないかと思う。 迷いの森はエヴァのディラックの海やガンダムの刻の見えるシーンと同じものだった。 あと巨人がコミカルなのが良い。 歩き方、最後の寝転がるシーン共に笑いの要素がある。 何かの原点ではないかと思う。 あとヒルダかわいい&魔性の女で何かエロい いやあ、アニメーションっていいですねぇ…….

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太陽の王子 ホルスの大冒険

太陽の王子ホルスの大冒険

日本アニメーションの黎明期にスポットを当て、当時のアニメーターがモデルと思われる人々が多数登場するNHK連続テレビ小説『なつぞら』。 劇中では、主人公・なつ(広瀬すず)と坂場(中川大志)ら東洋動画による長編漫画映画『神を掴んだ少年クリフ』が興行的失敗に終わる模様が描かれた。 そして、現実にも同じように不入りに終わってしまったのが、高畑勲、宮崎駿による『太陽の王子 ホルスの大冒険』だ。 本稿ではその功績を紐解きたい。 (編集部) 異彩を放った唯一無二の作品 東映の元社長だった大川博が「東洋のディズニー」を目指すべく設立したアニメ制作会社、東映動画(現・東映アニメーション)。 『白蛇伝』(1958年)、『安寿と厨子王丸』(1961年)、『わんぱく王子の大蛇退治』(1963年)など、次々に高い品質の名作が発表され、その作品群は、後の日本のアニメーションが隆盛する土台となっていった。 そんな東映動画にあって、とくに異彩を放った唯一無二の作品が、『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968年)である。 いまのTVアニメを中心とする「リミテッドアニメーション」は、動きを効果的に簡略化するような演出を選択することで、製作の時間と労力を抑えながら、娯楽としての質を保つ手法である。 そのような作品に慣れていると、まさにディズニー作品を想起させる、細部までごまかしのない、当時の東映動画の劇場作品のクオリティに腰を抜かすかもしれない。 そして、本作『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、そのなかでもさらに膨大な労力と時間が投入されている作品だ。 当時の金額で1億3000万円もの巨費を投じ、手を抜かない有機農法のような絵の描き方で、さらにスタジオジブリ作品のほとんどを上回る作画枚数による、本作の制作規模は、歴代の日本のアニメーション作品のなかでもトップクラスといえるだろう。 だが、そのあまりにも高いクオリティとは裏腹に、本作は興行的に大惨敗を喫した作品でもある。 なぜこのような失敗をしてしまったのだろうか。 そして本作『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、現在までの日本のアニメーションに、何を遺したのだろうか。 ここでは本作の真価を、それらのことを振り返りながら考えていきたい。

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海辺に父と二人で住むホルスは、岩男のモーグの肩に刺さっていた二本の剣を手に入れた。 その剣は太陽の剣と呼ばれる名剣で、その剣を鍛え上げ使いこなせるようになった時、ホルスは太陽の王子と呼ばれようとモーグは言う。 父を失ったホルスは、一切を焼き払うと、父の遺言に従い人々のいる北の村に向かってコロとともに舟出した。 再びこの地に帰ることはない。 途中ホルスは悪魔グルンワルドに弟になるよう誘われるが断ったため、崖から落とされてしまう。 ホルスは、倒れたまま流氷にのって村に流れ着いた。 村の一員として受入れられたかに思われたホルスだが、グルンワルドのたくらみで村に送り込まれた一人の少女ヒルダのために村人たちの不信を買い、とうとう村を追い出されてしまう。 悪魔が勝つかに見えたが、ヒルダの心の奥底には密かに人間らしさへの憧れが兆していた。 そして悪魔の攻撃が始まった・・・。 (C 東映 この作品の最大の不幸とは、完成・封切りがよりにもよって1968年になってしまった、という点なのではないだろうか。 この作品、同時代的には高評価を得られなかったために、ある時期まではアニメ青年たちのカルト映画に甘んじていたわけだが、そのことを「アニメ=子供向け」という偏見がもたらした不幸、つまり、この作品は「早すぎた映画」だったからだ、とするのは早合点であろう。 この作品、ロシア趣味的エキゾチシズムといい「団結する民衆」イメージといい、かなり50年代的な美学をひきずっている。 白土三平や大島渚らの同時期の仕事と比較するまでもなく、これは68年当時のもはや「子供」ではなく「若者」になっていた人間からすれば先進的どころかアナクロなシロモノだったはずだ。 この作品が当時「子供」ではなく「若者」向け映画として封切られていたら、むしろこっぴどく批判されていたのではないだろうか。 それにしても、この作品を約30年ぶりに見返して改めて感じたのが、まるで物語を運搬する以外の存在理由が無いかのような主人公・ホルスと、それとは正反対に内面が描きこまれるヒロイン・ヒルダとの、存在感の落差である。 この映画の作り手たちは長期にわたる製作の途中で主人公に飽きてしまったのだろうか?とすら感じてしまうほどだ。 以上ふたつの点から、この作品は日本のアニメというものの過渡期の模索ぶりが生々しく刻み込まれた記録、と捉えるべきで軽々しく名作認定するべきではないのではないか。 更に云えば、この作品が高評価を得られなかった、ということは、むしろ高畑・宮崎にとってはマイナスどころかプラスだった、と思うのだが。 ところで、この作品でのいわゆる止め画カットの多用は製作の困難による苦渋のものだったらしいが、事情を知らない現代の外国人研究家がそれを深作欣二っぽいと早合点して論文を書く、という椿事もありえる、かも。 冒頭のオオカミとホルスの戦いは手描きセルの迫力に 毛穴から血が噴出しそうになりました。 すごい! 蛮ちゃんとコナンが合体したみたい!! そしてオジイの死・・・おばけなますの死は コナンそっくりでしたね。 ここに全てがあります。 1人ではダメだ、人間は仲間と一緒に暮らすものだという主題が 根底にあり、見ていて深く心を打ちます。 ヒルダの悪役ヒロインの哀愁のすごさ。 目の強さ、弱さ、儚さ、 どれをとっても今の日本のアニメのキャラにはありませんね。 技術がどんなに優れても、細かい演出と物語、それを創るツクリテの手がないと 良作は生まれません。 この動き。 物語が今から50年も前だなんて! 今のディズニー映画に全く負けてません。 ジブリの同じ映画ばーーーーっかり流してないで 金ローはこれをすべきだよ。 この映画は、2019年12月にプライムビデオになったようですが、この映画を実際に見る人が増え、とても意義あることだと思います。 なかなかレンタル屋さんには置いていないし、テレビで放送されるようなものではないし、よほどアニメが好きでないと、円盤で買わないだろうと思うからです。 ちょうど、2019年の7月から10月に、高畑勲監督の回顧展が東京国立近代美術館で開催されましたが、この映画の製作過程についても、かなり重点をおいて、展示されていました。 高畑勲監督をはじめ、「作品参加」した大塚康生氏、森康二氏、小田部羊一氏、奥山玲子氏、宮崎駿氏等、すごいメンバーが書いた原画、イメージボード、手書きの資料が展示されていました。 最初から、ロシア風というか無国籍にしようとしたわけではなく、当初はアイヌの物語にしようとしていたようですが、事情があって、このような設定なったとも書いてありました。 展示の中で一つ驚いたのは、ホルス作成時に書かれた宮崎駿氏のメモでした。 この映画の制作過程では、高畑勲監督の方針で、映画の内容とまったく同じ考え方で、スタッフ全員がアイデアを平等に出し合って、協力して作品を作る「作品参加」というやり方で制作が行われていましたが、宮崎氏もアイデアのメモを残しておりました。 そのメモには、「ホルス パズー ヒルダ シータ という名前はどうでしょう」と書かれていました。 宮崎駿氏は登場人物の名前の変更を申し出ていたようなのです。 これがのちにラピュタの登場人物の名前に使われるのです。 青いペンダントをつけると、空を飛ぶことができ、 孤独に暮らす、どこまでもまっすぐな少年と、 呪われた力を持つ家族に生まれた少女が 力を合わせて、 同じ家族に生まれた邪悪な野心を持つ男を倒す。 ホルスには、いろいろと破たんしたところもあると思いますが、ラピュタを産み落すような、汲めども尽きない豊かさがこの映画にはあるのだと思います。 ホルス 監督高畑勲、場面設計宮崎駿 ラピュタ 監督宮崎駿、制作高畑勲 (これまでもいろいろな方に言われてきたことだと思いますが、ホルスが育ての親の死によって、一人で旅立つところはコナンに、結末に自然の象徴である巨人が大暴れするところはもののけ姫に、生活する村人たちの姿は、ハイジ、コナン、ナウシカ、・・・と続き、自分の運命に迷う少女の姿は、赤毛のアン、思い出ぽろぽろ、かぐや姫へとつながっていきます。 この映画の中にすべての始まりがあるのだと思います。 2020年4月から岡山県立美術館で高畑勲展がもう一度あるので、この映画のことを知りたい方は、ぜひ、見に行っていたただきたいと思います。 ) 高畑監督に興味を持って以来、原点だと様々な書籍映像で聞きながらもほぼ見ることを絶望視し、転がっていた予告編のみ見て思いを募らせていた太陽の王子ホルスの冒険を見ることが出来た、ということに感無量。 王道ですが、大地に根差しておりそれが現代人からすると羨ましくさえ見える。 話自体もかなり複雑で、迷いの森での心理描写は本邦初なのではないかと思う。 つまり抽象空間で自分自身か相手と対話するという日本アニメに時々見られる悟り描写はこの作品が初めてなのではないかと思う。 迷いの森はエヴァのディラックの海やガンダムの刻の見えるシーンと同じものだった。 あと巨人がコミカルなのが良い。 歩き方、最後の寝転がるシーン共に笑いの要素がある。 何かの原点ではないかと思う。 あとヒルダかわいい&魔性の女で何かエロい いやあ、アニメーションっていいですねぇ…….

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